16.竹(屋号不明)1774年に与人をしていた玉江原の家系
手々知名に居住していた家系のようです。
①玉江原(お爺さまの記録では玉江春)→②夏再志→③玉江川→④名前不明
お爺さまの記録には、この家から宗の本家に嫁いできた嫁の名前がありました。
②夏再志の娘の宇志は宗の本家7代目である平安統惟雄の妻
③玉江川の娘の真須は宗の本家8代目である平安頴善保の妻
④の娘である宇志は宗の本家9代目である宗善寛の妻
このように3代続けて竹家の娘が嫁いでいます。
琉球からやってきた一族なのか薩摩系なのかは不明ですが、3代も続けて嫁をもらっているので、与人仲間なのか何か親密な付き合いや関係があったのだと思います。
17.宗(西宗:イヒゾ)宗の本家からの分家の家
宗の本家の4代目である平安統惟貞(示現流の人)の子供が分家した家です。
昔は短命の家系だったようで代替わりが早かったとお爺さまの記録にはあります。
宗の本家の屋敷が直城の丘にあり、1700年代に土砂崩れで直城と古城地跡の狭間の地に移転した際に家を別建して、宗の本家屋敷の西側隣に屋敷を構えたことから(西宗:イヒゾ)という屋号で呼ばれるようになりました。
大正年間に内城の上原という地に移住し、久重の代に和泊へと移住したといいます。
平安統惟貞(本家4代目)→①安佐熊(1774(安永3)年他界)→②安佐熊→③平安×(X字は解読不能)→④安佐熊→⑤久吉→⑥久重→現在まで何代か続く
父親の平安統惟貞は1772年に57歳で他界。その息子であった安佐熊はその2年後1774年他界ですから、短命であったことが分かります。
18.武宮(屋号不明)宗の本家からの分家の家
宗の本家7代目であった平安統惟雄(御薬園掛与人 / 間切横目)の息子が分家をした家です。武宮の姓は、明治に入り名字を付けるときに、ご先祖である本家2代目の池久保の妻が薩摩の測量士であった武宮氏の娘であったため、その武宮姓をつけたといいます。
平安統惟雄(1796-1856年卒)→①平安禮→②平安明→③惟義→④惟定→現在まで何代か続く
現在も子孫は内城に居住しています。
19.宗(屋号:フーヤ)宗の本家からの分家の家
18番と同じく宗の本家7代目であった平安統惟雄(御薬園掛与人 / 間切横目)の息子が分家をした家です。18番と兄弟ということになりますが、こちらは宗姓を名乗っています。
和泊町誌によれば、百(ひゃー)と呼ばれる村や字単位の年貢を徴収していた家であったようです。
音楽家の宗鳳悦氏はこちらの更に分家の家系になります。
20.宗(屋号:クンバテ屋)宗の本家からの分家の家
本家でいうところの8代目宗善保(1815-1884年卒)の子供の世代にあたる家です。
本道→民之助(桂家より養子)→本成
お爺さまの記録にはこの3代の名だけが記されていますが、クンバテ屋事として家の成り立ちが記録されていました。
屋敷は内城の上原というところにありました。
19番のフーヤの使用人にイチキヤンバルという人がいたようで、この人が忠実に働き老後のために屋敷を買い求めたそうです。
しかし嗣子がなかったためにフーヤの主人に相談したところ、忠僕であったので、本道夫妻には子供がなかったために子孫を絶やさないようにと、養子縁組をしてクンバテ屋の名を遺したそうです。宗の一族である桂家の嫡子であった久保の弟である民之助が養子となったようです。
昭和初期頃までは、フーヤとクンバテ屋は嫁の行き来もあり、近しい関係であったようです。
現在90歳を超えた島に住む叔母が、屋号がクンバテヤという家が昔にあったと聞いたことがあるが、誰の家だったのだろうか?と質問をされたことがありましたが、現在では子孫の方々がどうなったのかは不明のようです。
最近のこと、これまでの宗家一族の繋がりの記事をご覧になった縁戚の方から連絡を頂き、そちらの一族の情報と照らし合わせて新たな情報などを頂いております。有難いことに、こうして更に詳しい繋がりがまた情報として集まっております。