沖永良部の兄弟島である与論島には、薩摩藩が管轄していた時代の古文書がいくつか残っており、その中の1つに【与論在鹿児島役人公文綴】というものがあります。この公文綴の中には、以下のような様々な文書が収蔵されています。
・詰役関係文書 ・島民への令達 ・耕作文書 ・上納関係文書
・拝借米文書 ・漂着文書 ・疱疹文書 ・上国文書 ・扶持米文書
・渡航文書 ・両島与人の書簡 ・牛馬文書 ・屋敷新設願
・遠島文書
これらの中の渡航文書の中に、当家のご先祖様の名前が書かれた文書が2つありました。
先田光演先生:「与論島の古文書を読む」より
上記の文書は1780年(安永9年)9月に書かれたものです。
沖永良部島と与論島の間で交わされた病気見舞いの渡航文書のようです。
与論島詰めの平田仲右衛門という人が病気になり、沖永良部の与人である平安統が炊事係と同行人を連れて与論島に行ったことが記されています。
この平安統というのは、年代から見ると当家の平安統利雄という久志検与人をしていたご先祖様だと思われます。同行人である喜輿嶺は詳細な記録が無いので定かではありませんが、同時代に一族の者で喜玖嶺という山方・津口・田地横目をしていた方がいますので、もしかしたら1文字違いですが同一人物の可能性があります。
横目→与人と昇格するケースも多いので、勉強のために一族の者を同行させた可能性があります。
炊事係まで同行させるとは、滞在が長期になる可能性も考慮してのことでしょうが、そんな人を同行させることが出来たとは、やはり与人職はそれなりの立場にあったということですね。
先田光演先生:「与論島の古文書を読む」より
こちらの文書は上記の文書より8年間前の1772年(安永1年)に書かれており、詰役の病気の報告と葬儀について書かれているようです。医者
注目すべきは、沖永良部島から医者平安統が派遣されていることです。この医者である平安統は、上記と同一の平安統利雄というご先祖様です。
この平安統利雄という方は、医者であり与人でもあった。今でいうところの、医者が市長をやっているような感じです。どうやって医者の勉強をしたのか?このあたりも興味がありますね。島の中での生活だけで医者の勉強が出来たとは思えないので、鹿児島か沖縄に渡って勉強をした可能性もありますね。
お隣の島の古文書から、当家のご先祖様の職業が判明するという、驚きの情報でした。