11.宗(佐久間)5番の屋号である上花城の2代目の子孫
上花城の2代目であった池悦が隠居して、内城の佐久間と呼ばれた場所(小字では川根あたりと推測される)に住んでいたそうです。その時にできた子供が屋号佐久間の始祖です。
①池悦(1968年生まれ)→②名は不明→③名は不明→④生悦→⑤佐久行→⑥佐久行→⑦池悦→⑧テツ→⑨利武→・・・・・
④生悦の妻は乙。
⑤佐久行の妻は宇志。
⑥佐久行の妻はトミ。弟は池悦。
⑦池悦の妻はツル。弟は利明。
⑧テツの夫は沖家からだったようです。
⑨利武の妻はハツ。
12.陽(シャビント)具永久を始祖とする琉球王子と島の女性との子孫といわれている家柄
陽と書いてミナミと読みます。この陽家の始祖は具永久という人物で、薩摩統治時代に与人をしていたようで、1711年頃にその名が見えます。琉球王子と屋者の島家の娘で美女であったと伝わるグジガマとの間に出来た子供の家系だという伝承です。その琉球王子が誰であったのかは分からないようですが、その子が具永久であったのであれば、具永久はグエクと読み、琉球の越来(ごえく)を領地にしていた王子だったのではないかと、勝手に推測しています。
1600年代後半あたりに島にやってきたときの子供ではないかと考えられます。
当時の琉球王家の様子を見ていくと、その琉球王子の可能性のある人物が見えてくるかもしれません。
この具永久の娘であった靏は、宗の本家4代目の平安統惟貞の妻です。宗家とも密接な繋がりがあったようです。
この陽家には笠石という海岸に、その昔に世之主に賜ったとうシャビント墓という墓地があったそうです。海岸地帯の公園整備で墓地はもう壊されてしまったようですが、世之主に賜ったという点が歴史的には1つのポイントになる気がします。
陽家の始祖の年代を見れば、もうその時代は薩摩の支配下であって琉球時代の世之主は存在しません。それでも世之主に賜ったお墓と伝わっているのであれば、その時代の島の統治者であった与人などの役職者が、琉球時代と変わらずに島では世之主と呼ばれていたのかもしれません。憶測の域ですが、1つの可能性としてあげておきます。
13.大脇(屋号不明)1724年取払役をしていた富玖安の家系
お爺さまの記録には富玖安ではなく福安と書かれています。
娘である牡丹真が宗の本家3代目の平安統惟次の妻です。
それ以外の記録が無く詳細は不明ですが、手々知名にいらした家系のようで、取払役の富玖安の後の子孫の方は何代か与人もされていました。
14.有川(屋号不明)1787年に与人をしていた薫南美の家系
薫南美の娘である世武野が宗の本家5代目の平安統利の妻です。
有川家は親戚であるとは聞いていましたが、この年代からの繋がりがあったのです。和泊在住だったようです。
お爺さまの記録にはこれ以上の情報はありませんでした。
15.苗字不明(屋号不明)弘毅という人物の家系
1700年代後半ぐらいの生まれの弘毅という人物の娘であった宇志が、宗の本家6代目の平安統惟尹の妻でした。
この家系の詳細は現在のところ記録が無く不明ですが、恐らく弘毅という人物は与人などの島役人をしていたのではないかと思われます。
ここまで見てきても、宗家は同格であった島の有力者の家と婚姻関係を結んできていたことが分かります。まだまだ親族関係は次回に続きます。