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先祖を探して

Vol.214 世之主城の築城伝説(2)5つのなぞ

世之主城の築城について永良部島に残る古い伝承では、北山王の二男であった真松千代が島の島主(世之主)としてやってきた後に、四天王の1人あった後蘭孫八に命じて築城しているので、1350年~1400年頃の間だと推定されます。
この伝承をベースとして他の資料や伝承と比較していくと、以下の5つの謎が浮き彫りになりました。


1.築城のもう1つの伝承

孫八に命じて3年をかけて築城したと言いますが、実はもう1つ別の伝承があります。もともと孫八がそこに築城していたが、世之主が切望したため、城を明渡し、自分は後蘭の地に新たに築城したというのです。後蘭城跡は現存しますし、昭和初期頃まではこの地に子孫の方が居住していたそうです。


2.おもろに謡われる築城した人

第13巻 114
一 永良部 立つ あす達
  大ぐすく げらへて
  げらへ やり
  思ひ 子のため
又 離れ 立つ あす達 
  大ぐすく

意味
永良部に出発する長老達よ
大きな城を造って
あげなさい
愛する王子のために

おもろの中では、琉球から渡海し島の世之主となる王子のために、長老たちが築城しなさいと謡っています。
この王子が北山王の二男であった真松千代のことを指しているのかどうかについては、歌が謡われた時代が明確に分からないので不明ですが、王子が真松千代のことであったとすれば、築城は孫八ではなく北山から来た長老達ということになります。
しかし、世之主は島に来た当初は玉城の別の場所に居住していたといいますから、この長老たちがやってきたのは城を築く時だった可能性があります。
長老たちは築城のプロではなかっただろうから、城の設計などは孫八にお願いし、彼らは琉球から手伝いにやってきたということでしょうか。

またこのおもろから確実に見えるのは、琉球のいづれかの王の子供であった王子が、永良部に赴任したのは間違いがないということです。島の伝承とあわせて見た時に、この王子は北山王の二男であった真松千代であると考えられているのです。
別の時代の琉球王の王子が、島に統治者としてやってきたことを謡っている可能性もありますので、探る必要があるなとは思っています。


3.島唄での築城

島の民謡として「グラル孫八が積みあげたグスク永良部 三十ノロの遊び所」

意味
倭寇である孫八が石垣を積み上げたグスクで永良部島の大勢の神女達が神遊びをする。


富がある城の場所に神女たちがたくさんいて、盛んな祭祀をすることを表しているのだそうです。この民謡が作られた時代は不明で、後世になって作られた可能性もありますが、この民謡ではやはり島の伝承と同じで孫八が城を築いたことになっています。

気になるのは、城に神女であるノロがたくさんいたということです。城跡であるという伝承はあっても、ノロと言えば御嶽などのノロ殿内などの伝承は残っていないようです。古い時代すぎて伝承が残っていないのか?


4.世之主かなし由緒書によると

当家の平安統惟雄が書いた「世之主かなし由緒書」の中にある文面の一部です。



この記録によると、百が城を築いてはどうかと指さした場所は「古城地」となっています。となれば、真松千代が島にやってきたとされる1300年代後半より以前に城が存在していたことになります。真松千代が来る前の島主の城があったのだと思われます。
もともと孫八の城があったうんぬんの別の伝承を考えれば、世之主以前に孫八が島の権力者であり、この地に城を築いていたのかもしれません。


5.どのような城であったのか

この場所は高台であり、島には昔から台風が来ることは多かったはずです。
そのような場所に木造の城があったとすれば、台風の被害も多かったのではないかと思います。
仮に孫八が築城していたとしても、台風の被害などで倒壊したために後蘭の方に引っ越していた可能性はありますね。

城壁に使われた石は付近には存在しないので、別の場所から手渡しで運ばれた言いますから、石を運び込む労力を考えると城壁の高さはそれほど高くなかったの可能性は考えられます。
実際に、現在の神社の鳥居を入ってすぐの両サイドに、石積が残っていますが、現在は低い石積です。第二次世界大戦中に日本軍がこの城跡に陣取っていたようで、その時に両サイドの石積を削り取ったと言います。
叔母の話では、昔は自分たちの背丈ほどは石積があったと言いますから、150~160センチ位は高さがあったようです。
そう考えると、城壁の高さもそれくらいであったのではないかとも予想されますが、城壁としては低すぎるかな。





しかし、ここで使われていた城壁の石はどこにいってしまったのでしょうかね。世之主自害後に、どこかで再利用されたのか?
私は世之主の墓が後世に作られているので、そこに再利用されたのではないかと考察しております。伝承や証拠はありませんが、島で簡単に手に入りそうもない大量の石ですので、城壁の石が今は殆どないことを考えると、世之主の城の石が世之主の墓の築墓に使われたとしてもおかしくはないだろうと考えるのです。


まとめ

こうして築城の話の謎を見ていくと、以下のようなことが考えられると考察しました。

1.後蘭孫八は世之主以前の島の権力者で、先にこの地に城を築いていたが、理
 由は不明ではあるが、孫八は後蘭の地に移住していた。
 よって、世之主が築城する際にこの地を古城地と呼んでいた。
 孫八が居城していた頃からノロが城にいた可能性がある。

2.世之主城の築城のために長老たちが手伝いにやってきて、後蘭孫八が実際に 
 はメインになって築城した。

3.城の規模は土地の広さから見ても大規模ではなかったが、地形を活かした作
 りであり、見晴らしは最高。
 石積みの城壁は150センチ程度の高さであった可能性がある。
 世之主自害後は、世之主の墓に城壁石は再利用された。

世之主(真松千代)と孫八が同じ時代に生きたという前提でまとめてみました。あくまでも私の考察ですので、正史ではありませんのでご参考に。




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