先日は徳之島の方とご先祖探しで出会いがありましたが、K家が薩摩時代に士族であったということについて、その時代の奄美諸島の名字政策から見れる情報を少し書こうと思います。
奄美諸島の名字
そもそも、古くは奄美諸島には名字が存在しなかったなどと言われていますが、琉球王国時代(那覇世)以前に島民や本土住民の移住や往来が多く確認されており、その事実から名字の使用が古くからあったことは確実とされているそうです。当家においても、位牌の戒名などから古い時代から名字を使用していた痕跡が見れます。
しかし、1609年に薩摩藩の琉球侵攻後は、直轄領とされた奄美諸島の島民を全て農民とするという政策によって公の名字の名乗りが禁止されます。
しかし統治が安定してくる18世紀以降は藩政に多大な貢献をした家に限って名字を与えたのだそうです。当時の多大な貢献とは貢物を指しているのでしょうかね。
名字を与えられた家としては、奄美大島を長らく支配し、笠利氏を名乗っていた佐文仁為辰(さぶんに・ためたつ)が、1726年に薩摩藩主より正式に代々外城衆中格(後の郷士格)の地位と田畑姓を与えられ、1752年に澄江(一代郷士格)、1761年に砂守(代々郷士格)の計3家の郷士格(士族)が成立しています。
その後、4番目の郷士格への取立審議が行われた際(島津重豪の時代)に、本領と差別化するために一字の名字とすることに改められてしまい、以前よりの3家に対しても1785年に一字姓とするように命じられたのだそうです。
その結果、前述の田畑氏は本拠地の龍郷から龍家を、砂守氏も同じく伊仙から伊家を名乗るようになったのだそうです。
随分と勝手な島民を振り回す政策ですよね。
これら一字姓は公的な場合にのみ使用され、本来は二字姓等の家は私的には元の名字を名乗ることが多かったようです。
幕末になるにつれ藩の基準も曖昧になっていき、公文書等で元の二字や三字の名字が確認されるとのこと。
1875年の平民苗字必称義務令により全ての国民が名字を名乗ることが義務化されると、多くの島民は馴染みのある一字を姓にしたり、それを含めた二字姓を登録したが、かつて二字姓を与えられていた家は元の姓に戻したそうです。もちろん苗字を決めるにあたっては、同族の家系であっても自分たちに由縁のある名前を使ったりして違う名字になった家もあったそうです。
このような奄美諸島への名字の政策があったわけですが、徳之島のK家は郷士格3家の中の1つです。現在の名字は明治期の平民名字必称義務令によって郷土格時代のものとは変更されておられますが、士族であったことは間違いありません。
そして、当家から徳之島のK家へ養子へ行った可能性のある方が判明したのです。その養子の件については別記します。