屋者の屋号シマクルと呼ばれていた島家ですが、まずは沖永良部島での島家の始祖となった眞加戸という人物についてです。
この眞加戸というのは女性で、寛文5(1665)年7月18日、行年52歳と伝わっているそうです。知名町誌にも記載がありましたが、眞加戸はノロとして琉球の泊村ノロ殿内であった島袋家から赴任したといいます。赴任したのは1635年(22歳)頃ではなかったかと考えられています。
そしてこの眞加戸の実家である島袋家は、なんとなんと、あの泊宗重が始祖になるのでした。あの泊宗重といいますのは、我が宗家の先祖としてお爺さまが書き残していた宗重という人物になる可能性があるのです。
泊宗重(生年不詳 - 1514(正徳9)10月13日)は、琉球の第一尚氏時代の7代国王(在位1461-1469年)であった尚徳王の時代の人物です。
泊村(現在の那覇市泊、上之屋、前島に相当)に住んでいて、1466年に尚徳王が喜界島から凱旋をしたさいに、王を泊港に出迎え、このとき宗重夫妻は王の胸中を慮り、妻が清水を携えこれを献上した。王はこの行為に大いに悦び、宗重夫妻を首里城に召して宴を開き、宗重を泊地頭(初代)に、妻を泊大阿母潮花司(神職の一つで、地域の祭祀を司る神女ノロの上位の者に与えられる称号)に任じたというのです。そして出来高4石2斗余りの田畑を浦添間切名嘉〇(王へんに普の漢字)村に下賜されたそうです。
昭和年間にはその地は泊大阿母シラレ地と呼んでいたようです。
この泊宗重夫妻の先祖は不明です。一説には、妻の方は6代国王の尚泰久王の次女であった尚按司加那志ともいわれていますが、真相は不明です。
しかし、大阿母の称号はノロの中でも特に名門出の女性で、主要な地域を管理するノロが得た称号だったようです。宗重が着いた泊地頭職は、硫黄鳥島からの交易用の硫黄を管理したり、泊の港は海外からの門戸であり、北部や離島物資の集散地であったといいますから、そのような重要な役につけてもらえたことを考えれば、宗重夫妻が全くの平民だったとは考えにくいですね。平民ではいきなりそのような職は務まらないでしょう。宗重自身はもともと交易や硫黄鳥島、離島の状況に詳しい人物であり、妻の方も一説のように尚泰久王の娘だった可能性が考えられます。
この泊宗重夫妻ですが、子供は男子が二人いたようです。
長男は宗友という名で分家して保栄茂親方、次男は宗義という名で跡取りです。この分家した長男の子孫にあたるのが、沖永良部にやってきた眞加戸というノロだったのです。
長男宗友の家は島袋姓であったようですが、第二次世界大戦後に島袋本家という意味で島本という名字に変更したり、他の分家も変更があったようです。
実は先日、沖永良部島の調査で島家の子孫の方がいらっしゃることが判明しました。
現在のご当主とお話をさせて頂いたのですが、自分たちの先祖は沖縄からやってきた人でノロであった。しかし自分は詳しいことは分からないということでした。こちらのお宅が本家であるのか、分家であるのかも不明とのこと。
現当主のお父様が、歴史にご興味があり、先祖のことを調べたり家系図を作ったりされていたようですが、そういった資料は数年前にお父様が他界された後に処分したとのこと。大変残念です。
記憶にあるのは、シマクルという屋号で、最初は島袋という名字であったが、袋の漢字が難しいのでそれを外して島という名字になったとおっしゃっていました。皆さんが漢字などを書かれるようになった明治期以降の改姓なのかもしれませんね。
また当主の方は、浦添に石碑があると聞いているが、誰の何の石碑かは分からないということでした。これは恐らくですが、那覇市泊にある泊大阿母火神だと思われます。
石碑と拝所がありますので、こちらのことをご先祖からお聞きになられていたのではないでしょうか。
お父様の代までは、ご自宅で海の神様を祀っていて、人形の形をした石がご神体だったようです。これもお父様が亡くなった後に処分されたとのこと。
泊宗重とノロであった眞加戸が繋がっていたとは驚きでした。
そしてお爺さまが記録していた宗重の名前。また眞加戸の子孫に宗家の娘が嫁に行っていたなど島家と宗家の繋がりもありますので、これは単なる偶然ではない気がします。
しかし、このノロであった眞加戸は、なぜにして屋者に赴任したのでしょうね。世之主の城があった内城ではなかったことも気になります。
また続きを書きたいと思います。