第二次世界大戦中、南国の沖永良部島にも戦争の影があり、この島にも日本軍と現地召集による守備隊が編制されていました。
幸いにしてアメリカ軍の上陸はありませんでしたが、空襲などは頻繁にあっていたようで、以前の記事にも書きました。(Vol.291~299)
近年には、米軍が沖永良部島に上陸する計画があったことが明らかになったそうで、米軍による沖縄攻略作戦「アイスバーグ作戦」の三段階の中の1つであった第三段階で攻略が予定されていたのが、伊平屋島・粟国島・沖永良部島・宮古島・喜界島だったようです。
米軍は宮古島・喜界島・沖永良部島について、具体的な上陸計画を立てていたようで、上陸作戦案は三案作成されていたそうです。
結果的には島での飛行場建設が困難な地形であるなどの理由と終戦を迎えたこともありアメリカ軍による上陸はなかったのですが、1945年5月には沖縄戦の不利が報じられるとともに、アメリカ軍の沖永良部島への上陸の情報が流れて、上陸に備えて島の中央にある越山周辺に戦車壕と集団自決壕を掘らされたそうです。
越山にある戦車壕
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このような状況であった沖永良部島駐屯部隊の中に、第9中隊長であった久木留国夫大尉という方がいました。1945(昭和20)年1月29日に徳之島の本隊へ打ち合わせに行くとき、母間沖で敵機の銃撃を受けて吉岡守備隊長が戦死されたので、その後は久木留氏が守備隊長となりますが、同年の5月30日に病死され、久木留隊長の遺体は内喜名浜で火葬にされたそうです。
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このような状況であった沖永良部島駐屯部隊の中に、第9中隊長であった久木留国夫大尉という方がいました。1945(昭和20)年1月29日に徳之島の本隊へ打ち合わせに行くとき、母間沖で敵機の銃撃を受けて吉岡守備隊長が戦死されたので、その後は久木留氏が守備隊長となりますが、同年の5月30日に病死され、久木留隊長の遺体は内喜名浜で火葬にされたそうです。
戦後に、この沖永良部島で亡くなった久木留隊長の親族の方がこの島を訪れ、二度と戦争のない平和な時代をという思いと隊長の慰霊を込めて、彼が島で戦っていた内城の地の小高い海の見える丘の上に慰霊碑を建立されました。
昭和37年11月25日建立です。
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しかし残念なことに、この島での戦争の爪痕も今となっては忘れ去られようとしています。
この慰霊碑の建立から67年が経過した今日、この地は木々に覆われた林の中となってしまい、この慰霊碑に手を合わせてやってくる方の姿は殆どないようです。島の方々でさえ、この慰霊碑の存在を知らない方が多いそうです。
この地を発見したのは昨年の話です。先祖調査の過程で島の歴史を調査中に第二次世界大戦時の話を知り、島の協力者の友人が調べた情報を頼りに探しだしてくれました。
今の平和な時代に忘れ去られようとしている戦争による犠牲者の方々のこと。
決して忘れ去ってはいけない戦争の話。
平和な時代をこれからも過ごしていくために、私たちが忘れ去ってしまってはいけない場所がここにありました。
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