湯気のもわもわと立つアルミの蓋を指先で撫でるように閉めながら、姫子があかるく振り向いた。
蓋には「UFO」──ウホッいい男、の暗号ではない、念のため──と印字されており人気漫画のヒロインが描かれている。「わるキューレ」という美少女キャラらしい。キューリのQちゃんとごろあいが似ているが別物である。人気声優が主演したアニメもヒットしたし、主題歌がオリコンランキング入りした話題作らしいと、緒方恵美姐さんが若い子向けにツイートしたから間違いない。アタシ、どうしたらいいのかな。笑えばいいと思うよ。姫子が延々と語るヲタク節を、千歌音は微笑ましく耳傾ける。アニメに詳しくなどない彼女にとって実際はなんのこっちゃさっぱりなのだが、姫子の言葉を否定しないのは嗜みでもあるし、千年越しの愛の業ともいうべきであろう。
「千歌音ちゃん、3分間待つんだよ」
「そう、3分ね」
砂時計をひっくり返しながら、千歌音がうっとりとつぶやく。
常日頃、姫宮家の家長として忙しい彼女には、分刻み、秒刻みのスケジュールがある。5秒あればぼんやりせずに何ができるか考えるのが思考の癖である。…であるからして。
「姫子、3分でできることって何かしらね?」
そそくさと近づいて、姫子のマスクの中央をつまもうとする。
千歌音はいま、マスクを外していた。艶々しい唇が何を言わんかを悟った姫子はひらりと逃げる。くすぐったそうな微笑みだけを送っておいて。
「千歌音ちゃん、キスはダメだよぉ。絶対3分で終わらないんだから」
「姫子がおいしそうだから、いけないのよ」
「まぁた、そんな冗談言って。食べものみたいに言わないでほしいなあ」
ふふ。かすかに笑って千歌音は優雅にピアノ椅子に腰かける。
一年前はまだ互いが遠すぎた私たち。いまでは、姫子とも気軽に冗談を言い合える仲になっている。触れ合うのが怖くて、遠慮がちだったけれど、キスだけは済ませて、友達以上には進んだはずだ。想いたまう君を困らせるような茶化しをしたくはなったけれど、そこはさすがの姫宮のお嬢さま。姫子の提案したお夜食に免じて、こちらは名演奏を進呈しよう。3分で弾けるエチュードのうち、さあ、どれにしよう。両の手を鍵盤に下ろしかけた──。
そのせつな、ボンッ!!という金属の凹む音が。
あきらかに、千歌音が出した音ではない不穏極まりないチャイムである。アルミの流し台のあの音はとにかく心臓に悪い。なぜ、姫宮邸のグランドピアノがある大客間に、小市民的なアルミの流し台があるのかは突っ込まないでほしい、そこは脚本の都合なのだから。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~~~っ!」
続いて叫ばれた姫子の声。
瞼にはりつく白い絶叫に驚いてしまい、鍵盤の蓋がさらに上回る音でやにわに下りる。絶望の音だ。同時に、ダアアアアアアンと、重い響き。出だしが勝負の小曲はもはや台無しである。トムとジェリーみたく手がグローブよろしく腫れあがったが、姫子の危機にはなにがあろうと馳せ参じる千歌音である。あかんがな。
【目次】神無月の巫女×姫神の巫女二次創作小説「召しませ、絶愛!」