台風で大荒れのお天気模様。各地で被害もあったようです。
つい一週間ほど前には御岳山の噴火でおびただしい犠牲があり、ほんとうに今年の日本はどうなっているのか、と思いたいところ。このようにいろいろ大変さが募ってきますと、日々つつがなく過ごせるのをありがたく感じざるを得ません。とりたてて何もないけれど、それはすごく貴重な日だったりするんですよね。
そんな慌ただしい秋ですが、慶事がひとつ。
つい先日の5日に、出雲大社にて、日本じゅうが注目した挙式が執り行われました。高円宮家の典子さまと出雲大社の権宮司千家国麿さんとのご成婚ですね。折からの台風で雨脚が強まるなか、挙式の時刻になると雲が退いていったとかで、まさに神のご加護があったのか。おめでたいことです。オオクニヌシ系とアマテラス系の神の子孫がひとつになっただのと囁かれてもいます。和装の結婚式っていいですよね。結婚式じゃなくても、歴史オタクなので和装じたいがときめくんですけど。
十月は神無月ですが、出雲地方だけは神有月。
八百万の神さまが人の縁結びを相談すべく集うらしい。最近はスピリチュアルブームなのか、パワースポット巡りがさかんなのか、神社への参拝客がうたた絶えないそうであります。
出雲大社は2013年、60年ぶりの大遷宮で話題となり、またその年は伊勢神宮の20年ごとの式年遷宮とも重なったので、昨年は多くの方が訪れたようですね。この二箇所、目下、訪れてみたいところなのですがいまだ叶わずの場所。江戸時代のお伊勢参りというのは、農村の頼母子講というような、保険のように村民から旅の出資金を募ってくじで当たった人だけが出かけられるシステムだったそうな。
縁結びといいますと、将来の配偶者とか恋人を思い浮かべますが、縁というのはそれだけではなく、仕事上の関係者や師弟、友人などなど、いろんな出会いにも言えるのではないでしょうか。いい人間関係を築いている人の周囲にはいい人が集まってきますし、人の輪が広がって助けていただくこともあるそう。しかし、そのためには自分の行いいかん、言葉いかん、なので、日頃から良縁を呼ぶためにも慎まねばならないのかも。さて、自分はどうなのか、といいますとこれは自信がありません。
私は神仏というのは、概念ではなく、祈念を捧げる対象として具現化されたのすぎない、と考えています。神像や仏像に頭を下げても、どうしても美術品としての価値としての審美的判断が先に立ちます。昔、家族が明日をも知れない命かもしれぬというので祈願にいきましたが届かず、また第一志望の大学にも受かることはできませんでした。ために私はまったく霊験というものを信用していません。そのわりにお札やパワーストーンのようなものは未だ離さず持ってはいますが。宮本武蔵は『五輪書』で、勝つという絶対の自信がつくぐらいの準備をしてから勝負に臨め、と説いていますが、まったく努力もなにもなくまぐれ当たりで事に望んでも空振りに終わるだけです。
私が出雲大社や伊勢神宮に足を運ばなかったのは、なんとなく祈りのちからたるものを軽視していたからでしょう。人と人とを目合わせるのに、神仏の力など借りたくもない、と思ってしまうわけです。いけずにも程がある。平安神宮や厳島神社には行ったことがあるのですが、それはあくまで観光スポットとして、もしくは景観として世俗化されすぎているきらいがあるためです。神社イコール赤い社だと思ってしまうんですよね、どうしても。見た目鮮やかで、あまり厳かな聖域という感じがしない、だがそれでていてあまり騒々しい商売っ気のある露店もない神社や寺院というのは、落ち着きます。
ところで出雲大社って、やはりいろいろなアニメの聖地になっているんでしょうね。私が興味を抱きましたのは、十月が話題のあのアニメ(というか漫画)です。別に聖地巡礼で行きたいとか、縁が欲しくて行きたいとか、そういうわけでもないんですけどね。私はあまり出逢い運に恵まれていないと自負しています、いろいろな面において自分が残念なので。でも、いざっていうとき救ってくださる方はままいるので感謝はしています。なんとか生きられてますし。
ちなみにうちの親族は神前式をした方が多い(お葬式は仏教です)のですが、夫婦円満でいらっしゃるご家庭が多いです。やはり神の結ぶ縁の力は侮れないのでしょうか。ちなみに私の家系の氏神は春日大社です。そういえば奈良の春日大社はお詣りしたことありましたね。お参りというより、宝物館の美術品が見たかったというだけでありましたが。
【画像】
漫画『神無月の巫女』第九話の扉絵より。
あの高床式倉庫みたいなのは、古代の御本殿だそうです。現代に実寸大で復元されていたら圧巻でしょうね。どうやって建てたんだろう、それこそロボットみたいな巨大な掌でもないと無理そうな気がしますが…。法隆寺なんかもそうですけど、日本の昔ながらの建築技術って侮れないですよね。