陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

針の進むところへ糸はついていく

2023-05-31 | 教育・資格・学問・子ども

ロシアの大文豪レフ・トルストイの著名な民話「イワンのばか」は、愚鈍な末弟イワンが王国を築き、幸福を掴む話である。しかし、それは日本のわらしべ長者のような成功譚ではない。
この物語のいわんとしていることは、「手にたこのない者は他人の残り物を食わねばならない」、すなわち悪銭身につかず、働かざる者食うべからず、という哲学だ。

軍人肌の長男は戦争をしかけ国を滅ぼしかける。
商人気質の次男は欲をかいて多額の負債をかかえる。どちらも百姓の父親に泣きつき、生前贈与してもらおうとする。三男坊のイワンはそれを認めるが、けっきょく、悪魔にそそのかされた兄たちは一国の王になっても落ちぶれてしまう。彼らを百姓仕事で養ってやるのは、のんびり屋のイワンだが、その彼も助けた悪魔の子分の手配で、ある王女と巡り合い、一国の王になってしまう。王になっても、イワンの本質は変わらず、きらびやかな衣装など脱ぎ捨て、ただのんびり田を耕すだけ。揉め事があって裁決を仰いでも、鷹揚すぎてやんわりと流してしまう。不満づくで賢いひとびとはイワンの調子に絶望し、国を捨ててしまう。

ある日、イワンを破滅させてやろうと小悪魔が紳士に化けて、そそのかす。
手が疲れた時に、頭で働かせて稼ぐ方法を教えてやるぞ、と。ところが働き者の国民はなんのこっちゃさっぱりで、飽きて自分の仕事に戻ってしまう。演説をする紳士は空腹になったが、誰も食事を与えてくれはしない。それもそのはず、国民は紳士は頭がいいから自分でパンを生む方法ぐらい知っているのだと思い込んでいたから。そして、紳士こと小悪魔は死んでしまい、イワン王国には、いまも怠け者はいなくなった。

私がこの話を読んだのは、ごく最近の40代になってからだが。
できるだけ若く早くにこの話を読んでいていたかったと後悔したものだ。

現代の情報社会では、自分が上に立って、ひとを働かせ、お金を働かせて、楽して儲けたい。
そんな仕事観が蔓延している。生活保護の世話になりたいという人もいる。働いたら負けなどというネットミームもあり、東大合格をめざすお受験ママパパは、勉強さえできれば子どもに片付けの作法も教えないという。こういうエリートが会社にいたら、隣で働く人はいい迷惑だろう。学歴を得るためなら、カンニングをする。欲しいもののためなら、他人のお金や時間を奪っても構わない。あるいは自分のからだを売ってもいいとさえ。おそろしい思想ではないのか?

だが、大企業やら公務員やらの親元に生まれた人ほど、なぜかこういうゆがんだ思想をもっている。こんな考え方のまま大人になって、めざすべき企業や役所に入れないので、芸人になったり、ユーチューバーになったり、はては適当なスローガンをかかげて政治家になったり、あるいは占い師だとか、なんとかアドバイザーだとか、ウェブ上のイラストレイターとか、うさんくさいカタカナ専門家になろうとするのではなかろうか。

じっさい、お金がないだとか、人間関係に悩むだとか、そうした問題は、誰それに聞くまでもなく、既に古典などを読めば答えが出ていたりする。
このトルストイの「イワンのばか」を知っている人と、そうでない人は仕事に対する姿勢が全く異なるのだろう。これを読んだことすらなくても、キリギリスよりも蟻が尊い、頭だけ口先だけで働くものを支えているのは手足を動かしてものを生み出している人たちだ、という人生の本質を親からしっかり学んだことのある人間だけだろう。

表題は、イワンの妻になろうと決めた王女の台詞である。
「針のいくところへ糸はついていかねばならない」そう言って、夫の野良仕事を手伝おうとする。ひと昔前ならば家父長制社会で夫に従う良き妻像を強いられている、とフェミニストからお叱りがありそうだが、そこは問題ではない。イワンが王女に強引に俺様に従え、と押し付けたわけではないからだ。逃げた国民に馬鹿にされていると伝えても、ああそうか、と聞き流した懐の深いイワンに、王女が惚れたというだけの話なのだから。

もし歪んだ針ならば、途中で折れ曲がってしまうような針ならば。
この王女も、愚直な国民たちもイワン王にはついていかないだろう。聡明すぎる人々はイワンを見限ったが、ただ働くことが好きなお人よしたちは、この百姓肌の王を信頼していたからなのだ。まじめに働きさえすれば、食べていくことができる。そうした社会こそ、人間の理想なのだ。

恋愛で運命の赤い糸だったとか、この仕事は天職だったとか。
まるでその出会いを奇跡のように崇めることがある。だが、ほんとうにそうだろうか? 自分がまっすぐに目的に向かって進む針になろうとしなければ、ご縁は結ばれないし、りっぱな織物もできあがらないだろう。

この人になら安心して任せられる。信頼できる。期待通りの仕事をしてくれる。
そう思われるのが生きがいであるし、任せた側はそれなりの報酬を払うべきなのだろう。それなりの報酬というのは、なにも金品や評価だけではなく、その人の信条をねじまげたり、感情を損なわない配慮ではないだろうか。

この針と糸との喩えは、夫婦、親子、きょうだいのみならず、先輩後輩、上司と部下、老人と若者、男と女、友達同士、などなどさまざまな人間関係に通有するように思われる。
相手を完全に信頼しきって依存し言いなりになったり、抑圧されたりするのではなく。お互いが針になったり、糸になったりして、譲り合い、寄りあってひとつの成果物をつくりあげていく。それが協働するということの本質ではないだろうか。


(2023/04/02)




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