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明治二年(1868年)の十月。
天火明村にある姫宮神社。
その神殿のすぐそばにある巫女たちが住まう館の一室には、その日、にぎやかな乙女たちの声が響いていた。
黒髪の美しい一人の少女が裁縫にいそしんでいる。
巫女見習いとみえて、緋袴にしみ一つない清浄な白衣。おっとりした性格ゆえか、どうも先の尖ったものを持ち慣れず、縫い目があまりよろしくない。
見かねた隣の少女が、着物を奪ってたちまち巧みに縫い上げてしまった。
波打つように衣をしならせておいて、一気に針をそこへ迷いなく進めていく。先細りの針は刺したはいいが糸を通した穴まで出しきるのが難しいのに、ひっかかることもない。布目の模様がずれていることもない。彼女は針を髪に滑らせ、糸を唇でしめらせて、通しやすくするといい、と助言をしてくれた。たしかにそのとおりになる。巫女すがたの少女は濡れた糸をなめると甘い香りがすることに、なんとなく胸ときめいてしまうのだった。カヱちゃんが糸を触るといつもいい匂いが残るのはなぜだろう。
「ね、ね。ハナちゃんさ、聞いた? 月の大巫女さま、魂逸り(たまはしり)をおやりになるってほんとうなの?」
「そう、ほかの生きものに乗り移れるとおっしゃられていたわ」
海老茶式部に、結い上げたおさげ髪。いかにも当世風の女学生といった感じの彼女はいつも好奇心旺盛だった。千花とひかゑとは、「ハナちゃん」「カヱちゃん」と呼び合う幼馴染だった。同じく村の名家・姫宮家の遠縁にあたる生まれ。しかし、ひかゑの生家たる如月家は本家筋に近く、古くから養蚕業で栄えた商家だった。千花は分家のまた枝分かれした末端の家柄で、一族の中ではことさら肩身が狭い。親が生まれてすぐにも姫宮神社へ預けたのは、ほとんど口減らしに近いといってもいいくらいだった。現に双子の兄とやらは、千花が巫女仕えするとほぼ同時にどこかの寺へ預けられてしまったらしく、いまだに顔も知らない。
「魂逸り(たまはしり)ってすごいわ。誰にでも入れる、誰にでもなれる。まるで、絶対の神さまになったみたい」
「神さま…?」
「そうじゃない。自分と同じ考えをもつ。ひとを操れる。獣たちも、自然すらも何もかもこの世界が思いのまま。それは神さまと同じになったに等しい」
ああ、なんて素敵なのかしら!
大仰なそぶりで、如月ひかゑはくるりと回転してみせた。カヱちゃんはとても感激屋で、何ごとにも興味津々。どこか冷めた感じのある千花にとっては、楽しい友だちだった。
でも、ときおり、その無邪気さが、千花にはわずらわしくなることがある。ふと物案じ顔になってみせて、
「…だとしたら、神さまってとても寂しい方なのね」
「なぜ…?」
「この世界がすべて自分と同じになるなんて。思いのままになるなんて。独りぼっちでいるのと同じじゃない。そんなの、寂しいわ」
「独りぼっちになんかならないわ。誰も裏切らないし、自分の思い通り。好きなままでいてくれる。ずうっと、そばにいてくれる。それが永遠というものではない?」
カヱちゃんの答えに、千花はなんとなく承知できない。口には出さないだけで、けれど反論は胸にためておく。議論になったら勝てる相手ではないのだから。
永遠とはなんだろう? ただ、なにも変わらないこと? 毎年のお祭りに湧くように、みんなが同じ想いを温めること? いつまでも可愛く扱いやすいままでいること? ――だとしたら、そこたしの石ころだって永遠だった。自分の手に握りこめて扱いやすい、そんなものが永遠なのだろうか?
魂逸りをしたあとの月の大巫女さまは、なんだかおかしくて、近づくのが怖かった。
ただでさえ、大人の女たちは月に一度か二度かは、狂ったように大声を出したり、急にいじきたなく食いあらしたり、なんだか獣じみてくることもあった。月が彼女たちを狂わせるのだろうか。女というものは、もっと清楚で慎ましいと思っていた。千花は生みの母がすぐに亡くなったから、女の愛というものを知らない。正式な巫女になったら、穏やかでこの世の騒々しさとは無縁な暮らしが送れると思ったのに、大違いだったのだった。
それに、月の大巫女さまのお考えはよくわからなかった。
巫女見習いとして学んだ仲だったカヱちゃんを、失格だからと破門にしてしまった。たしかにカヱちゃんは不真面目なところがあるけれども、機転が利くし器用だし、物覚えは早いほう。巫女としての能力がないわけではないのに…。
【神無月の巫女二次創作小説「夜顔」シリーズ (目次)】