七月十三日、都議選の自民党惨敗で衆議院解散が決定されたその裏側で、改正臓器移植法A案が参議院議決を通過し、成立したと報じられた。
これによって、「脳死=人の死」と認定され、十五歳以下の子どもからの移植も可能になった。ドナーカード提示による本人の意向がなくとも、家族の同意があれば可能となる。
臓器移植を待っている人がこの日本でいくらいるかはわからないが、海外でのドナー提供者を待ちくたびれている患者とその家族には、明るいニュースだ。
97年に生まれた現行法でも依然としてドナー提供者はすくなく、日本の患者、とくに小児の心臓移植は海外での手術を余儀なくされてきた。こうした傾向に海外からの批判も多い。近年、WHO(世界保健機構)は臓器の提供先を自国内に求めるべきだとの方針を打ち出し、諸外国の法体系もこれにしたがっている。
だが、すなおには喜べない。
たとえば、つい三日まえに現在脳死状態で来年の施行日まで生き続けた患者がいた場合。この人はすでに死んだことになってしまう。法によって定められた「新しい死」によって、殺されてしまう。
植物状態で何年も持ちこたえた例も聞くのに、もう死体にされてしまう。ただ考えることができない、口が利けない、呼吸が自分でできない。それだけで、物のように扱われてしまう。
ドナーの声を優先するあまり、移植手術に逸る医師が脳死判定を早めてしまわないか、という懸念がよぎる。
脳死だと判定される。すると、鮮度の高いうちにと、家族は患者との別れを惜しむ間もなく、魚を捌くように腹を割かれて臓物を抉り出される。
そして、この法案がいちばん恐ろしいのは、ひょっとしたら将来的に医学の進歩で脳死状態からの回復が見込めるような患者を、みすみす死なせてしまうのではないか、ということだ。つまり、脳死治療への道を閉ざしてしまうことになりかねない。
が、しかし。
臓器移植を待つ側だけでなく、脳死患者およびその家族としても賛成派はいるかもしれない。たとえば、本人が尊厳死を望んでいた場合。また、長期の介護で心身ともに疲労し金銭的にも行き詰まった家族。そして、あまり言いたくはないがメスをふるいたがる外科医。
私は依然として反対派だ。
脳死になったその日、呼びかけるとベッドに横たわる彼女は腕を動かしたのである。奇跡を祈り続けたその後の三日間が、法律によって奪われる。まさか、それが忌まわしい十三日の月曜日だとは。
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