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拙ブログの日記で以前、「山月記」をとりあげたことがあります。
中島敦の代表作で、詩人としての栄達を望み夢破れた男が虎に変わり果ててしまうというお話。初めて読んだのは20代後半ぐらいだったか。
最近になって図書館で、大活字の文庫本が出たので再読してみました。
そして、私は初読時にはなかったであろう、自身の感情のおぼめきに気づかされます。
学才があり自分の立身出世を信じて疑わぬある男。
就職を断り引きこもって試作を続けるも一向に目が出ず。妻子もいる身の上、長じて地方官吏の職を得るが、自分よりも劣るはずの同期生たちが既に役職者になっている。誇りを傷つけられた男はある日、発狂して走り出し、猛虎になっていた。その姿を見つけたのは、唯一の理解者だった親友の男。
当時の私は、自分に身を重ねて、この主人公に同情しきりでした。
憐憫の情を寄せることで、自分を慰撫していたにすぎない。でも、今は違います。
主人公の男は賤しい仕事をするくらいなら、百年名声の遺る文筆業を成し遂げようと交流を断つ。
だが食うために生きざるを得ず、それが彼の信条にそぐわない。だから彼は人間をやめてしまう。ところが、獣になった今も、人間の心は残っていて、旧友に詩編多数の遺稿の出版を頼む。だが、その友人でさえ、その創作のどこか足りぬところを知っている。さらに男はこう反省する。自分の妻子の世話を恃む前に、自作のことばかりにかまけていたから、俺は大成しなかったのだ、──と。
自分の虎になった運命を呪いながらも、男はそれが猛り狂う自身の内情のためであったと冷静に分析します。そして、最後に友にかけた言葉は、人間としてできる、彼なりの最後の愛。次に会ったときに人心を忘れて完全な猛虎になった自分にうっかり襲われぬように、永訣の言葉を贈ることでした。
この男は虎になって、もう戻ってこなかったのでしょうか。
ただ命を貪るだけの、食欲のために屠るだけの、畜生に成り下がったままで。孤独に生きるだけの存在に。
この小話には実に恐ろしい教訓が含まれています。
学に走り、美や力に酔いしれて、他人をひととも思わぬような生き方をした者は、人の成りをしていてもなにかを傷つけ続ける獣に堕ちてしてしまうということです。高尚高邁な思考をしていると思ってみても、自分は強者だと信じても、誰かを押しのけ、踏みにじって生き残ることばかりを考える時点で、もうあなたは人ではなくなった。人たるに足る人生を送ることすらできなくなったわけです。それは恐ろしいことではないでしょうか。
できるならば。
私はこの文学に高校いや中学の頃に出会っておきたかったものでした。どうして、世の教師は、成績があがることばかりを教えるのに、こうした身の処し方を教えないのでしょうか。そして、われわれ学徒は楽しいことばかりに目を奪われ、こうした古典にみずから勤しもうとしなかったのでしょうか。思い上がりが、自分の姿を曇らせてみせるのです。
論文執筆のあとも、その代理でブログなんぞを書き続けてしまうことも、自分が一家言あることを世に示して「臆病な自尊心」を満たすための倨傲に満ちた行為に他ならない。
この虎になった男にも等しいできごとが、たしかに、私の身の上にも起きました。これまでの職場でも、個人事業上の付き合いでも。でも、恨むべきは自分の才能が花開かったこの世界の醜さだったのでしょうか?
もし、この男の創作が認められないまでも、つねに機嫌よく振る舞い、こころ入れ替えて勤めを果たせば、彼には彼なりの明るい未来が待っていたはずなのです。貧苦にあえいでも、妻子とともにつつましく暮らす道だってあっただろう。けれども、つまらぬ承認欲求が、彼を生きながらの化け物にしてしまった。誇り高い死すらも許されず、いつか誰かの銃剣で駆逐されかねない虎に。
虎はけっして笑わない生き物です。
爪でひきさくことしかできず、巨体をもてあまし、猫のように可愛がられて保護されることがない。強いと思われるからこそ、畏れられ、狩られる生き物です。それは悲しい存在であります。そして、かずかずの事件沙汰の加害者になってしまう者もまた、人であることをやめて獣に堕ちた者であるといえないでしょうか。
誰かを傷つけ、あやめてしまうような犯罪者になるぐらいならば。
世に名前など残らなくていい、ただの普通人として生きる方がよほど幸せで、かつ人生に勝っているといえないでしょうか。私にはそう思えます。地球の資源を切り出してまでモニュメントを残さなくても。くだらない妄想を紙本につづらなくとも。年をとったから、特別な自分だから、当然に敬意を払われるべきだとうぬぼれず。誰かを殴りつけて萎縮させるような言動に出なくとも。
学歴も、資産も、職業も、性別年齢も、才能すらも無関係の幸せの極意は、つねに上機嫌でいること。それこそが平和を維持できる誰でもできる、われわれ凡人の務めなのです。
(2022/07/24)
こんなことを書きながら、拙ブログの日記で不機嫌さをまき散らしているのは、お恥ずかしい限りですが(苦笑)。