猫の最期がそうであるように、自分の末期が誰にも悟られないものであってほしい。そう、思うことがある。
しかし、それは現代ではことさらに難しいものだ。
まず、病状が発覚すれば医療機関へ放りこまれる。老いが近づけば、老人ホーム。相続を睨んでのエンディングノート、あるいは遺書。お墓もどうするか。家はどうなるのか。死後に発生する税金の支払いと申告作業。これまで親族の死に直面し、行政書士の資格も有している私には、その必要性が痛いほどわかる。だが、法律的手続きとして自己の死が事実として踏み固められていくのを、私はどこか虚しいとも感じている。戸籍から名前が抹消される。平凡な死とは、その程度の紙切れの儀式でしかない。
そのような不埒な感慨にひたるのは、たとえば大義のために、愛のために、美しく命散る物語に出逢ってしまったときだろう。最近、死の哲学者と呼ばれるアルフォンス・デーケン氏が逝去されたが、哲学とはそもそも生者の学問である。死後の安らぎを考える効果は宗教にこそあった。
2008年ごろに、作家サン=テグジュペリの最期にまつわるニュースが飛び込んできたときに、私はいささか感傷的な記事を書いた。(「星の王子さまを殺めた男」)
星の王子様ことサン=テグジュペリの飛行機を撃墜した本人が、名乗り出たという知らせだった。私はこの事実に憤慨した。この懺悔者はけっして手柄をほのめかしたいわけではなかった(犯人はサンテックス文学の愛好者だという)のだが、伝説を穢されたような気がしたからだ。フランスの誇る20世紀最高の文豪を死に至らしめたのが誰か、その亡骸がどんなふうか、それが時を経て解析されたからといって、失ったものが蘇るわけではない。
匂い立つような美文をしたためる作家には、儚い人生が多い。
歴史の一コマに彩りを与えるためだけに誕生し、ある日、ふらりと幽境に旅立つかのようにして居なくなる。天に召されたというのにふさわしく、傷ひとつなく、血すら流さず、ある日、消滅した──そんな美意識が沸き立ってくる。山男が山で葬られるように、海の女が潮に沈んでいくように、ひとには死ぬ場所を選ぶ権利、そして其処を秘めておく権利ぐらいはあるだろう。いつまでも、そのひとの遺した言葉や絵が、われわれに香気を放つのは、その最期が謎に包まれるほどいい。伝説とはそういうものだ。往年の名女優・原節子が晩年をひたすら押し隠したように。
最近になって、私はネット上で「星の王子様を殺したのは誰か」という奇妙なフレーズを見かけた。
これは、とある女性研究者がものした著作のタイトルである。
ここでいう「星の王子様」とは、むろん、作家本人ではなく、架空の人物である星の王子様そのひとのことである。
その著作によれば、星の王子様はわがままバラのモラルハラスメントを受けて、自死を選んだ。魂だけを故郷の星に帰すために、毒蛇に身を噛ませて命を断つよりほかなかったという。王子が不時着した星に生息するバラは、家庭内での男へモラハラをしかける女たちの傲慢さの象徴なのだ、と。ここでいう女とは、母親だろうか? 姉や妹だろうか? それとも彼女や奥さんか? 地域のうるさいおばさんか、職場のお局だろうか? バラとの関係に嫌気がさした王子は、他の星を渡り歩いては知遇を得る。そして、わがままなバラとの付き合い方に悩む王子に、アドバイザーである狐があらわれる。私は、この狐のかけた言葉を感動のものとして受け入れたのであるが、研究者の弁によれば、押しかけ恋愛をされて責任をとらされた男の末路に引導をわたしてしまったのだという。いやはや仰天すべき分析である。
(参考記事:安富歩「星の王子さまは「モラハラ」で殺された!? 」現代ビジネス2016.02.02 )
これはいかにも結婚したら人生のロス!という現代的な価値観を反映した論調であって、私はそこに他人と人生を共にする苦みの上にある美学がそっくり抜け落ちていると感じざるを得ない。物語にどのような思惑を読み取るかは読者の自由ではあるのだが、「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」という名言すら残した作家が、はたして、このような意地悪なエスプリを、子どもが読める文学にこめるだろうかという疑いがある。しかし、この指摘には知的な刺激を与えられて、すこぶる面白いこと相違ない。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ。」
自分の心がけ次第で、名作も駄作にかわり、地味ある至言すらただの落書きにしか思えないことはある。リンゴが赤く見えるのは、リンゴそのものが赤いからではなく、その色彩を目が認識しているからである。現象学で、世の理不尽なものごとは片付けられる。だが、他人が明るく美しく思う花が、自分にとっては嘔吐をもよおすほどの灰に見えるとき、さてわたしたちはどうするのだろうか。その花を握りつぶすか、自分の知覚を呪うか、二択しかない。私にはどちらが正しいとは言えない。
美しいけれど、その大地に縛られて虜にした者をに悪態をつくことしかできないバラの花。あちこちに気軽に飛び立ち逃げることさえできるのに、バラの不遇に同情して、責任を感じてしまった男。この関係を共依存という言葉で間に合わせるには、いささか惜しい。大学で教職にある人間が、若者たちに、夢や理想を語れないことに、私はいまを生きる大人たちの未熟さを感じ取ってしまう。
「本当の贅沢というものは、たったひとつしかない。
それは人間関係に恵まれることだ。」
「人間であるとは、まさに責任を持つことだ。
自分には関係がないような悲惨を前にして、恥を知ることだ。」
責任を伴わない関係性というのは、とても気楽であろう。
親子、夫婦、親友、事業主と従業員。いつのまにか、過ごした時間が対価に置きかえられ、顧客とサービス提供者のようになっていく。無償の愛を注ぐことは、難しい。わがままな恋のお相手に振り回されながらも、それでも、その愛に殉ずるために、伴侶と同じ大地に眠ることを選んだ、と嘘でもいいので、このファンタジーの甘さを信じていたい。そんなご都合のいい頭の悪さを、世間でいうところの識者は許してくれないのだろう。
人間の関係性そのものに絶望し、誰にも逢いたくないと思い詰めたときには、そのとき、ひとは生きながらにしてもはや死んでいるのも同然ではなかろうか。
誰にも悟られずに隠者のように存在をなるべくミニマムにして過ごす願いの根元にあるのは、華々しく打ちあがった花火の消える音を怖がっているからであり、死後もなおスキャンダラスに死を語られることへの気味悪さである。
死に方よりも、そのひとが何に苦しんだか、悲しんだかよりも。
なにを尊び、なにを楽しみ、明るませたかについて。ひとの死を押し抱くというのは、そういう作業ではないのだろうか。自死を選んだ芸能人の過去が暴露されるのも、その境遇のうちに磁力で吸い寄せられる好奇心や同情のためではあるのだが、死を悼むことの本質についてなにかが欠けているように感じざるを得ない。
(2020/09/20)
【朗読】星の王子さま 前編
声優・梶裕貴さんによる朗読劇です。
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