秋になると、あちらこちらの地方でお祭りがありますよね。
子どもの頃はりんご飴が買えるとか、御神輿がわっしょいわっしょい通り過ぎる日としか認識していなかったわけですけども。お祭りって神さまや仏さまを讃えるためにあるらしい。
でも、そもそも、神とか仏とかいう存在、ありていに言えばスピリチュルなものすべてというのは、そもそも人間の頭のなかにしかなかったわけです。キリスト教文化の価値観では世界をデザインした創世主なるものがいて、人間はその被造物なわけですが、では、なぜ神や仏という概念は人間にしか認知されないのだろうか、という話になる。「人智を超えた存在」なるものだが、見える人に見え、感じる人には感ぜられる。神さまは特権と化す。そこで、実は神や仏という存在自体が人間の脳みそのでっちあげであって、人は惑わされている、という科学者の言い分もあるわけです。なにせ、科学の真理というものは、すべての人に明確明敏に感知せらるるものでなくてはならないのですから。
信仰というのは、そもそも小さな願いからはじまったものなのでしょう。
たとえば来年の田畑からの収穫が多くあれ、とか、子孫に恵まれますように、とか、健康で長生きしたい、とか。それこそ子どもが流れ星に願うようなささやかな想い。きわめて平凡な、生物的な願い。その願いを叶えてくれる主体をかたちにするために、神とか仏という輪郭が与えられて、物語をつくってきたわけです。これは人間の想像力のなせる業でした。ひとりのリーダーは死ねばただの土になりますが、神という統率者は永遠にして不滅であるために、社会の規範を整えるには不可欠な存在であったからです。現に文明国家には神さまの信仰がつきものでした。
厳しい生活で人々を繋げるために、時には縛るために、信仰というものが必要とされた。ですから、なにかを信じきり、ひたぶるに愛しつくし、いつくしみ、そのためには自分すら顧みないというのが、信仰のありかた。いまは苦しいけれど來世で楽しくなるよ、という救い。自分らしさを発揮するというのは信仰ではありません。誰かが取り決めたまじないごとめいた儀式や当然だと思うことに、他人のふるまいを型におしこめ、思考をねじこめていくのが信仰です。無謀や身の程知らずな欲はあきらめて、こころ穏やかに過ごせ、というのが信仰です。
ひょっとすると、なにかをかたくなに十年も好きでいられる、というのも一種の信仰なのかもしれません。信仰が過ぎると、わたしたち信者どもは、好き勝手に神さまたちのイコンを描いたり、物語をかってに夢想してしたためたり、おせっかいにも布教に励んだり、神さまを讃えるような音楽を奏でてみましたり、果ては神さまをなぞって扮装してみたりなどするわけです。それって愛なんです、たぶん。
でも、好きの度合いが桁違いになると、ちょっと危ないですよね。神さまへの接し方をめぐって、あれやこれやと注文を付けたり、規格化しようとしたり、神さまを模倣してまったくべつの神さまを編み出してきたりする。愛情が過ぎると俗に狂気ともなり、いたずらに攻撃的にもなりますよね。喧嘩が過ぎるのは、あまりに情熱をもちすぎてしまうからです。信仰に入れこみすぎることで、生活を損なってしまうこともあります。
十月は神無月。
八百万の神さまが出雲にお集まりになり、各地ではお留守になる月。お留守になったのを憂えてか、呼び戻そうとしてか、各地の神社ではお祭りがさかんです。とりたててなにかの神さまを信仰などしておらずとも、好きな作品に夢中になったり、優れたものに出会えたたり、そのような感銘に対して、現代は「神」とたたえる風潮がありますよね。わたしたちは個々人が「萌え」ている神さまに、各種各様に憑かれているわけです。
私にとってのこのブログは、「誰も知らない月の社」のようなもので、人知れずに自分だけの神さまを祀る場所です。この神さまには、私はこの十年来救われてきました。なにかを願ったり祈ったりということはないのですが、ふしぎなことに、その神さまについて考えますと、生きるのがちょっとばかし楽しくなる、そんな程度の神さまです。その効能を人様には喧伝すべきものではありませんし、言えば笑われるような青春のできもののようなものですので、ただ静かにその生誕を祝うのみです。「誰も知らない月の社」はどなたこなたのそこかしこにあるもので、十月には活性化されるそうです。楽しみですよね。神輿は誰が担いでもいいわけですし、神さまは誰のこころにも住みこんでくれますから。
というわけで、この十月も、これからの十月も、十年もそのあとも。
幸せに過ごせることを期して。