放課後だった。放課後といっても、もうすでにとっぷり日の暮れた夜である。
私たちは駅に向かって歩いている。長らく歩いていたはずだったが、もう、駅のホームについている。ホームの番号は6番。その駅のいちばん南側であるらしい。
ホームに着いたら、連れのふたりは、なぜか側にはいない。
向こう側のホームから、ふたりして手を振っている。学生鞄を提げた男子学生。田舎でよく見かける黒づくめの学ラン。学ランを着ているだけの女子なのかもしれない。ふたりは親切で、行く道すがら、「きょうの英語の宿題もった?」などと声をかける。ごていねいにも、眼鏡の学生のほうが、私の鞄にプリントを入れておいてくれたらしい。
ふたりと別れて、ホームを歩く。ずいぶんと歩いたはずなのに、列車が着く場所までがなんとも遠い。夜のそのホームはがらんとしている。ホームはあるが、周囲にめったと住宅街などは見当たらない。まるで周囲は戦後の焼け出された街のように、とにかく何もない。
列車がホームに滑り込み、乗客たちが乗り込んでくる。
なぜか、彼らはセピア色の影になっていて、表情もうつろである。ぺたんとしていて立体感もへったくれもない。列車の外装はポンコツなのに、内部は実に新しい。まるで、そこたしの私立大学のフロアのようだ。なぜか食堂があって、ひとがたむろしている。私はその賑やかなな一室の傍らにある、小さなトイレに入り──。
***
これは起きたてに書き残した夢の風景である。
夢の記憶がそっくり残って目覚めることは珍しい。夢は浅い眠りに見るものであるらしいから、夢を破って目覚めると、どうも脳の奥がじんわりと痛む。酸性の液体でシュワシュワ融かされたような感覚がある。
拙い記憶を頼りにすれば、私はこの駅のホームをなんども夢に見たことがある。ホーム番号も6番で、なにもない長ったらしいホームで、うら錆びれた街であろうのに、東京駅並み、いやそれ以上の多くの列を編んだ列車がせかせかと乗り付けている。
この駅はどこかといえば、かつて私が住んでいた街のJRの駅に、雰囲気が似ているのだった。その駅は帰郷するたびに利用していた。当時、住んでいた場所には数分とかからずに地下鉄の出入り口があったのだが、私はそこをほとんど利用したことがない。職場にせよ、帰郷にせよ、そのJR一本の列車に揺られた方が、すぐ大都会のまんなかに辿り着くからである。そのJR駅に辿り着くまでは、十数分歩かねばならないが、地下鉄を乗り換え複数の駅を歩き渡ったりする労苦に比べれば足どりは軽い。わずかの運賃の節約のためでもあるが、地下構内を人の波にさらわれながら歩くよりは、地上を歩いていた方がましだった。
駅の夢はよく見るが、それはどこにも接続しているようで接続していない。
現実のいくつかに少しずつ似ていて、それでいて、どこにも似ていない風景。
気がかりだったので夢を占ってみると、駅は人生の区切りや新しいはじまりを予感をさせるが、さびれた駅はあまり運気がいいとは言えない。しかも、ホームで向かいに人がいる状況は、自分だけが生き方を異なって孤立した心理であるという。ただし、明るいトイレは運気上昇の兆しでもあるらしい。排泄という行為は、浄化の意味を含んでいるらしい。学校の夢というのは、過去への回帰を示し、現状の人間関係の不満や行き詰まりをほのめかすものでもあるようだ。
この夢判断がはたしてあてはまるのかどうかはわからないが、おもしろい分析ではある。夢のなかに会ったこともない有名人や映画やドラマ、はては二次元のアニメの人物まで登場したことはあるが、その夢がじっさいそのとおりに叶った、いわゆる予知夢だった、ということはまったくない。しかし、なぜか、ある現実に遭遇して、この体験はどこかで…という錯覚に囚われることはしばしばある。風景がふた重ねになっていて、薄まって気づかなかった下のレイヤーが、すすす、と近づいてくるような感じで、それはやってくる。それを夢で見たが忘れているのか、それとも、脳がそのように誤認させるのか、いまだにわからない。