台風が近づいています。強い風が吹いてカーテンがはためき空が暗くなる。窓は開けっぱなし(警報が出ている時はやらないでください!)。
銀月の嵐みたく、とんでもない事件が起こるとか。巨大ロボットの掌が窓から飛び込んできてしまうとか、そんな非日常を妄想してしまう。そんなときは、何か変なスイッチが入ってしまいます。まるで、とつじょ、雷が落ちたみたいに。
このブログのはじまりの日。
好きなアニメに日々の雑記を関連付けて、何もなかった毎日を楽しく彩ろうとした、そんな若い日の私を思い起こします。当時はそれを神無月病だとか、シンドロームだとか思っていましたが。オタクの愛が過剰になればなるほど、こういう幻想を、空想をくりひろげてしまう。海外旅行なんかいかなくたって、部屋の中でくりひろげたイリュージョンで何時間も何日も浸って楽しめてしまうのです。なんておめでたいのでしょうか。
この秋の三連休日。おもいがけずスケジュールに空白が空き、おうち時間が増えた私は。
ひさびさに普段は封印していた神無月の巫女関連コレクションをひもとき、楽しんでいます。それは数年、数十年漬け置いたワイン樽を眺めるような面持ち。
そして、書き散らした二次創作物やら、完成できじまいのレビューなんかも、つぎつぎに仕上げてしまえるのです。これまで何年も、下手したら十年近くも放置していたりしたのに。
この作品に向き合うときに、私はどうしても平常心ではいられません。
なので、ひときわ時間の余裕と心の安定を必要とします。動じたとしても次の日には響かないような。だからこそ普段の平日にはうかうかとコレクションを開けないわけです。井戸の底に引きずり込まれて這い上がれないような怖さがありますから。
「しがない論文書きだった私が…」という記事にも書きましたが。
この作品は、私が果たせなかった夢のあとさきの、代償として手に入れた、使い古したぬいぐるみのようなものでした。スヌーピー風にいえば、ライナスの毛布というやつですね。愛着があって手放せない。それを手にしないと不安で不安で仕方がない。生き延びることに対して、どこか恐怖と罪悪に蝕まれている私が、それを眺めれば許される、免罪符のようなものです。だからこそ、私はこの作品への偏執的なこだわりを、通常のオタクの百合だの、BLだののカップル愛とは区別される、どこか尋常ならざるものだと認識しています。
この作品を愛でたい! 癒されたい!
そんなスイッチが急に入る日は、なんとなくお天気が悪くて、メランコリックな気分になりやすい。憂うつというほどではないが、なにか哲学的なことに頭を遊ばさせてみたくなるわけです。いつもはお金だの、なんだのの、実利的なことを考えなければいけないのに。
こうした一年になんどか訪れる神無月の巫女パッションが満載の日を、私は神無月の巫女デーと呼んでいます。ひめちか三昧に脳みそが支配されて、他のことは一顧だに入らなくなります。ご飯もそこそこに、他の用事もうつつに、電話なんて出られない。家族とも会話しない。何せ、私はマイペース型の過集中人間、目の前をふさがれたり、気持ちが向かないことをむりやり聞かされるのが大の嫌い。
これまでの神無月の巫女デーは、いろいろな企画をもうけてきました。
ただここ近年は新しいものを生産する能力が落ちてしまって、昨年の神無月の巫女占いみたいな、ただのファンのひとりよがり雑記になったりもします。保存していた画像を整理して、あるいは所蔵品の場所を置き換えただけで、一日が終わってしまうことすらも。ただ神無月の巫女を楽しんだという時間を過ごしたという事実によって、ひと満足してしまうのです。
今回の様な誰に聞いてほしいのかわからない日記を書くのも、そんな癖からで。
ときおり思うのは、私はこの作品に出会っていなかったのならば、どんな人生を歩んでいたのだろうかという、もしもの人生のこと。二次創作はやっていない、DVDレコーダーすらも持たないから映画もレンタルして観なかっただろう。二次創作の肥やしに文学作品に触れようともしなかっただろう。ブログなんてはじめなかったかもしれないし、百合作品なんてものも知らなかったのかもしれない。それにかまけてきた時間を、もっと自分のキャリアに全振りしていれば、違った仕事をしていたのかもしれない。そもそも現住まいではなくよその土地で、別の誰かと同居していたのかもしれない。
この作品に人生を狂わされた、そんな恨みがましいことをつぶやいてもしかたがないけれども。
やはり、この作品なかりせば、やはり2004年からあとの私の人生は続いていなかったのかもしれません。数年おきに発表された続編や、かくかくしかじかのファンにとっての公式情報や、有名無名のすばらしい二次創作物が拝めたことや。その反面にちょっとした嫌みもあったことや。いいことも、悪いことも、ふくめて。この作品とともに過ごした時間の流れが、今の私を形作ったものの一部ではあるのです。
来年の十月には何をしようかな。
毎年、そんな他愛のないことを考える習慣を重ねるうちに、いつか私はすでに十数年も生きてしまったことに気が付きました。私たちがこの地球上に存在し続けられる時間には限りがあります。けれども、その有限の時間をこえても、永遠に続く悲しい運命をのりこえて、結ばれた奇蹟を信じて生きようとするキャラがいる。そんな物語は、たしかに私の、あと一日、あと一箇月、あと一年…と人生を伸ばしていくよすがになってくれたはずなのです。
最近、私はこの作品の百合らしさではない魅力に気付くようになりました。
もともと、先輩ファンにならって百合風な作品を視聴してみたけれども、私の中ではどこかで冷めていました。百合カラーではなく、私なりの好きになるやり口で、この作品を肩肘はらずに愛してもいいのではないか。そう思いはじめました。そうすると、なんとなく、早めに出さなきゃと思ってかえって重荷になっていたレヴューやら、二次創作物やらが片付くようになりました。
ところで、私は現住まいの断捨離をした部屋で古いDVD兼ビデオレコーダーを発見。
ビデオは見れる! ならば神無月の巫女の円盤だって! と思って視聴に挑んでみましたが、なぜか再生されませんでした。ディスクが壊れたのではなく、機器自体の問題のようです。DVDプレイヤーが壊れてから、もう数年間このアニメ映像を全編通して眺めていません。
だから、ブックレットの様な、紙媒体を楽しんで、例年の神無月の巫女祭りの準備とします。
仮に見れたのだとしても、あわせて十二話ほぼ五時間ぐらい。見通す余裕がありません。オタク活動ってほんとうに時間もお金も、エネルギーもいりますよね。
正直いいましたら、姫神の巫女が漫画のまま終了したことにホッとしました。
今年の1月に、そのアフターストーリーの同人誌を入手して、それがまだ一年もたたないうちの出来事だったことに驚いています。なんだかもう二、三年前のことに感じますから。それぐらい、今年はこれまでに色んな事が起こったからです。
この作品のファンを絶対にやめない自信はありますが、だからといって、保証はありません。
いつか死ぬ日が来るんじゃない、いつも死ぬ日は来るのだと、樹木希林さんが言ったように。中年にもなれば、老いと死のリスクはいつも控えています。なるべく脳が健康で若いうちに、オタク的な生産は済ましておきたいなと思うのです。年年歳歳、思考が僻みっぽく、厭味ぽくなるのがわかりますので。
というわけで、前置きが長くなりましたが。
今年ももちろんのこと、神無月の巫女祭をやります。書きっぱなしになっていたブックレットのレビューはなんとか終わらせたいところですね。あと、神無月の巫女前世編をふくむ、シリーズものの二次創作小説はちかぢか再開の見通しです。お時間のあるときに、よしなに。
(2022/09/18)
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