陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

一度に複数の作品が嗜めない症候群

2024-11-11 | 二次創作論・オタクの位相

ちょっと面白いなと思った漫画やアニメ、テレビドラマの感想をウェブで探すことがあります。
検索してヒットするレヴュアーさんは、その作品単独の応援サイトというよりは、ある特定ジャンルや雑誌に特化したサブカル作品の感想を定期的に続けているパターンが多いですね。例に挙げれば、少年ジャンプのネタバレレヴューサイトだとか、大河ドラマ専門だとか、あるいは百合オンリーのみのおっかけ観察だとか。フットワークが軽くて、短時間でよくあれだけ膨大な物語を理解できるなと思ってしまいます。

私も長年応援していて二次創作もしている作品が百合ものが多いので、百合好きのレヴュアーさんのサイトやブログを拝聴させていただき、いくつか興味をもった漫画の単行本を買ったこともありました。読んですぐは感銘を受けるものの、一度読みだけで飽きて、手離してしまうことが多いです。

なので、当時は私には百合ものを読み解く適性がないのだと思い込んだり、自分に合わない作品の気に入らない部分をあげつらったりして、推し作品と比較しての攻撃的なレビューを書いたりもしていたのですが、実はそれは私本人の資質の問題だったのです。

うすうす気が付いていましたが、私は特定のものへのこだわりが強く、変化をとてつもなく嫌う人間です。
これはザブカルのみならず、学生時代の研究もそうでした。美術や美学全般を浅く広くではなくて、ある時代の、ある地域の、あるジャンルの、ある造形作家の、限定された作品しか対象にできませんでした。ひとつを深く長く掘り下げることはできるが、横に広げることはできませんでした。なので、同じアート好きと交流してもまったく馬が合いませんでした。相手の好きなものが理解できないのです。お世辞でも褒めることすらできません。

私生活でもそうで。服装もあまり20代から変わりませんし、体形が極端に変化しないので同じジーンズを20年くらい大事に履き続けていたりもします。スマホやパソコンの新モデルが出てからといって買い替えませんし、欲がないといえば聞こえがいいのかもしれませんが、とにかく検討するのがめんどくさい。これにつきます。経済を回すことにあまり貢献できていない人間です。でも、税金はしっかり払っていますけどね。

複数の作品を一度に嗜んだことがないわけではなく。
たとえば、一冊限りで終わる小説、数冊の連作でも評価がさだまっている古典作品、二時間で完結する映画、あるいは大河ドラマみたいな歴史上の結末がわかる作品ならば連続ものでもOKなのです。

そういえば、拙ブログでも毎日、毎月、欠かさず観れてレヴューできたのは単品で完結できている映画だけ。
アニメやドラマなど毎回、特定時間にテレビの前に正座して観ないとならないようなもの、連載漫画のように毎回必ず追いかけないと理解が迷子状態になるものはダメでした。話題作にすぐ飛びついたりもしないほう。

15年ぐらい前ですか、ある人気の魔法少女ものアニメのスピンオフ漫画がはじまって当初は熱心に読んでいたのですが、ある時期から投げやりになってしまい、最終巻が出るまで単行本も買わずじまいになってしまったことがあります。関心を失ってしまった理由は単純で、続々と新キャラが登場しすぎて、原作の設定とかけ離れた方向をたどってしまい、私の脳がパンクしてしまったからです。私が見限ってからも、連載は長く10年近くも続いたようなので、決して、読者受けが悪い作品ではなかったのでしょう。

この目新しい作品に挑戦できない傾向は年々重くなりまして。
かつては図書館に行けば、知らない小説はパラ読みして気に入ったら借りる、ハマったら買う習慣でしたが。いまはもう、未知の物語、いやそれどころか雑学系の本すら敬遠してしまって、借りずに帰ってしまうことも多いのです。読まないまま期限を迎えてしまうこともあって、返すのがおっくうになったため。病気になってからは特に。

積読本も数年所持して一度も開かなかった、あるいは途中で投げてしまった本はすべて処分してしまいました。
そして、以前はあれほどあった知識欲がさっぱりなくなってしまった今は、本を買い足すことで家が狭くなるということが怖くなり、書店で本を立ち読みするとか、ブックオフのセールで大人買いをするということもなくなってしまいました。

平均寿命の年齢の後半戦にさしかかった今、余生を楽しく過ごすために読みたい本は厳選しよう、気に入った本だけをくりかえし読んでいこう、そうしたほうが楽なんだと気づきはじめています。

新しいジャンルや作家さんを開拓できなくなったのは残念で、自分でもさびしい気がするのですが、無気力に囚われて頁を開くのもめんどくさくなった時期があったので、まだ好きなものを読める気力が残っているだけマシだと考えるようにしています。

ひとつの作品だけを執拗に追いかけているのは情熱家だとか浮気性でないといいように考えられがちですが、じつは多くの作品を嗜むのが不器用で情報の処理ができないだけなのです。現代っ子に要求されがちなタイパのいい作品受容なんてのもできないので、いまの若い世代と同世代にいたら確実に話についていけずに落ちこぼれていたわけです。オタクが市民権を得ていない時代を過ごしたからこそ、知られざる作品を知っている居心地の良さがあったわけで、今の時代の、アニメは教養なのでみんな、あれもこれも見よう!といった圧がSNSで凄い時代は、私にとっては恐怖でしかありません。


(2024.05.12)








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