さて、ここでお手元にDVDブックレットをご用意ください。
私の所有しているのは2005年発売の旧版DVD(すでに廃盤)附属の全頁フルカラー小冊子。この旧版ブックレットの各話解説のみを転載しているのが、2009年新版のDVD-BOX附属の小冊子(表紙のみカラー、中身は一色刷り)。どちらでも構いませんが、シリーズ構成を手がけた脚本家による第一話の解説文にこんな記述があります。
「姫子と千歌音とソウマ、三人のドラマ…他の全てはそのための材料であり、要素である。
ロボ(設定的には神様ですが…)も伝奇も設定も学園も全てそのために使う。
千歌音の恋愛の障害であり、ソウマの形を変えた告白であり、姫子の感情を揺らす事件である。」
第三回の考察において、本作には六つの柱があると申し上げました。
「百合」「ロボットアクション」「兄弟愛」「主従愛」「学園日常劇」「伝奇」ですね。
しかし、公式には上記のように表現されています。すなわち、ロボットふくめた他要素はおしなべて、「百合」という土台骨を支えるための下位であり、あくまで支柱なのだというニュアンスがあります。そのため、この作品におけるロボットを「刺身のつま」だとか「書き割り」だとおっしゃる方もいます。いや、ほんと、的確な表現ですね。しかし、あえてこう言いたい。ロボットを背景画のようなもの、だとは考えない、と。ロボットを物語上の道具のひとつではなく、あたかもそれ自体が一個のキャラクターであるかのように見なさないと、説明できないような事象が、この作品にはふんだんにあるからです。一個のキャラクターと言いましたが、なにもロボットを擬人化してみようというわけではありません。この仮定について、のちのち実証してみます。
と、ここで原画集をお持ちの方は、興味深い発言を目に留めることでしょう。
「ロボットのデザインが80・90年代っぽく古い感じなのは、時代設定がその位の為。神様なので、その時代の人々の思い描く姿に近いものになります。遥か太古では違う姿をしていたかも…」(原画集55頁)
時代が違えば、神のかたちも異なるので、ロボットではなかったかもしれない。
たとえば、埴輪とか土偶みたいな土人形だったのかもしれない。しかし、ロボットでなければ、もはや「神無月の巫女」は成立しえないのです。ファンはそのことを「姫子」と「千歌音」の亜種が登場した、後年の別作でたちどころに確認してしまうことになるでしょう。2007年春に放映されたアニメ「京四郎と永遠の空」ではロボット(この作品では「神」ではなく、「天使」と呼ばれています)は、最後の最後に絶対天使たちの合体形として出現するはりぼてみたいなもので、ふたりをとことんまで苦しめるポイントにはなりきっていません。姫子と千歌音のアナザーワールドとして見れば、相思相愛ではじまり、それで終わるという幸福なものですが、かおんとひみこの障害となった存在・綾小路ミカが悲恋(この内容については小説版が詳しい)を抱えた女性であったために、百合の純度がぶれてしまった感があります。さらにいえば、ふたりを引き裂く運命の女神たるミカが、棚からぼた餅的に退場してしまったがために、その恋愛の成立がやや受け身に思えて致し方ないのですね。
また、つづく漫画『絶対少女聖域アムネシアン』では、「千歌音」こと愛宮は、圧倒的に敵方に勝利するパワーをすでに身につけていて、姫宮嬢のように、自分ひとりだけで「姫子」を守れないと苦渋に満ちた表情をすることはありません。ですので、読者は「千歌音」の超人的な能力がいったい人智にかけてどれくらいのものか測るにおよばず、また彼女が挫折したからといっても、その無力感を我が身にひきうけて感受することができずにいるのです。しかも、このヒロインの性格があまりに読者を突き放すようにトンデモ設計されてしまったために、情緒もなにもあったものではないわけです(コメディリリーフとして見なせば面白いですけどね(笑))。「京四郎」には「京四郎」の、「アムネシアン」には「アムネシアン」特有の価値があるにはあるのですが、それは「神無月の巫女」とは違ったところに力点が置かれていると言えますね。好きな俳優さんが別役を演じている、とでも思ってみないと、味わいがたいのではないかと。
ロボットが作中に存在する──このことこそがまさに、「神無月の巫女」がゆいいつ「神無月の巫女」として、至高の百合作品として、究極の純愛の物語として、成功していると言わしめるものなのです。なぜか世論的には逆説めいて聞こえますが、それがこの作品の自己矛盾をかかえる要素のせめぎ合いとしてもつ、偉大な魅力なのです。等身大の生身の十六歳の女の子がけっして手にしえない武器としてのロボット。このロボットにある制約こそが、千歌音の恋の不遇さをいっそうひきたて、愛すれば愛するほど地獄に堕ちていくという、悲劇性を高めることに如実に成功しているのですね。
このように考察すると、「神無月の巫女」という作品がこの単体の続編として再構成されえない理由がはっきりと見えてくるのです。
たとえば、前世編があったとしても、この物語でいう「神」はその時代に応じた絶対的な力を借りて具現化してくるものであるというならば、それは「神」として聖なるもの、強力なものでありながら、人間がつくりたもうた形成物のすがたをとってしまう、ということになりかねない。となれば、和風ファンタジーにありがちな、人語を解する刀剣だの鎧だの、呪術だの、怨霊だの、珍獣だの、になってしまい、人の世が、ふたりの巫女のいる世界が、神に侵略されたという脅威がとたん矮小化されてしまうのです。そうなると、もう、姫子と千歌音にとっての障害など取るに足らず、ただふたりの心情の機微のみのを学園日常百合のように、二次創作のように、書き上げていけばいい、ということになってしまうのですね。制作者サイドとしては、プロフェッショナルの意地としてそれをよしとしなかったのでしょうか。巨大な運命に押しつぶされようとするも、果敢にあらがおうとする少年少女たちの戦い、というこの重みを増すために、物理的に大きな造形物として試練をかたちづくらざるを得なかったのですね。踏みつけた足跡が大きければ大きいほど、それを飛び越える人間の力がすばらしく見える。そこにロボットの存在意義が見出されるのです。
ともあれ、「ロボット」という要素は、この作品においての「百合」と相並ぶ重要なファクターであって、どうしても譲れない条件であって、これを引き抜けばもはやそれは「神無月の巫女」たりえない、という結論が導かれるのです(やれやれ、強引にまとめやがった)。
神無月の巫女精察─かそけきロボット、愛に準ずべし─(目次)
アニメ「神無月の巫女」を、百合作品ではなく、あくまでロボット作品として考察してみよう、という企画。お蔵入りになった記事の在庫一掃セールです。
【アニメ「神無月の巫女」レヴュー一覧】
私の所有しているのは2005年発売の旧版DVD(すでに廃盤)附属の全頁フルカラー小冊子。この旧版ブックレットの各話解説のみを転載しているのが、2009年新版のDVD-BOX附属の小冊子(表紙のみカラー、中身は一色刷り)。どちらでも構いませんが、シリーズ構成を手がけた脚本家による第一話の解説文にこんな記述があります。
「姫子と千歌音とソウマ、三人のドラマ…他の全てはそのための材料であり、要素である。
ロボ(設定的には神様ですが…)も伝奇も設定も学園も全てそのために使う。
千歌音の恋愛の障害であり、ソウマの形を変えた告白であり、姫子の感情を揺らす事件である。」
第三回の考察において、本作には六つの柱があると申し上げました。
「百合」「ロボットアクション」「兄弟愛」「主従愛」「学園日常劇」「伝奇」ですね。
しかし、公式には上記のように表現されています。すなわち、ロボットふくめた他要素はおしなべて、「百合」という土台骨を支えるための下位であり、あくまで支柱なのだというニュアンスがあります。そのため、この作品におけるロボットを「刺身のつま」だとか「書き割り」だとおっしゃる方もいます。いや、ほんと、的確な表現ですね。しかし、あえてこう言いたい。ロボットを背景画のようなもの、だとは考えない、と。ロボットを物語上の道具のひとつではなく、あたかもそれ自体が一個のキャラクターであるかのように見なさないと、説明できないような事象が、この作品にはふんだんにあるからです。一個のキャラクターと言いましたが、なにもロボットを擬人化してみようというわけではありません。この仮定について、のちのち実証してみます。
と、ここで原画集をお持ちの方は、興味深い発言を目に留めることでしょう。
「ロボットのデザインが80・90年代っぽく古い感じなのは、時代設定がその位の為。神様なので、その時代の人々の思い描く姿に近いものになります。遥か太古では違う姿をしていたかも…」(原画集55頁)
時代が違えば、神のかたちも異なるので、ロボットではなかったかもしれない。
たとえば、埴輪とか土偶みたいな土人形だったのかもしれない。しかし、ロボットでなければ、もはや「神無月の巫女」は成立しえないのです。ファンはそのことを「姫子」と「千歌音」の亜種が登場した、後年の別作でたちどころに確認してしまうことになるでしょう。2007年春に放映されたアニメ「京四郎と永遠の空」ではロボット(この作品では「神」ではなく、「天使」と呼ばれています)は、最後の最後に絶対天使たちの合体形として出現するはりぼてみたいなもので、ふたりをとことんまで苦しめるポイントにはなりきっていません。姫子と千歌音のアナザーワールドとして見れば、相思相愛ではじまり、それで終わるという幸福なものですが、かおんとひみこの障害となった存在・綾小路ミカが悲恋(この内容については小説版が詳しい)を抱えた女性であったために、百合の純度がぶれてしまった感があります。さらにいえば、ふたりを引き裂く運命の女神たるミカが、棚からぼた餅的に退場してしまったがために、その恋愛の成立がやや受け身に思えて致し方ないのですね。
また、つづく漫画『絶対少女聖域アムネシアン』では、「千歌音」こと愛宮は、圧倒的に敵方に勝利するパワーをすでに身につけていて、姫宮嬢のように、自分ひとりだけで「姫子」を守れないと苦渋に満ちた表情をすることはありません。ですので、読者は「千歌音」の超人的な能力がいったい人智にかけてどれくらいのものか測るにおよばず、また彼女が挫折したからといっても、その無力感を我が身にひきうけて感受することができずにいるのです。しかも、このヒロインの性格があまりに読者を突き放すようにトンデモ設計されてしまったために、情緒もなにもあったものではないわけです(コメディリリーフとして見なせば面白いですけどね(笑))。「京四郎」には「京四郎」の、「アムネシアン」には「アムネシアン」特有の価値があるにはあるのですが、それは「神無月の巫女」とは違ったところに力点が置かれていると言えますね。好きな俳優さんが別役を演じている、とでも思ってみないと、味わいがたいのではないかと。
ロボットが作中に存在する──このことこそがまさに、「神無月の巫女」がゆいいつ「神無月の巫女」として、至高の百合作品として、究極の純愛の物語として、成功していると言わしめるものなのです。なぜか世論的には逆説めいて聞こえますが、それがこの作品の自己矛盾をかかえる要素のせめぎ合いとしてもつ、偉大な魅力なのです。等身大の生身の十六歳の女の子がけっして手にしえない武器としてのロボット。このロボットにある制約こそが、千歌音の恋の不遇さをいっそうひきたて、愛すれば愛するほど地獄に堕ちていくという、悲劇性を高めることに如実に成功しているのですね。
このように考察すると、「神無月の巫女」という作品がこの単体の続編として再構成されえない理由がはっきりと見えてくるのです。
たとえば、前世編があったとしても、この物語でいう「神」はその時代に応じた絶対的な力を借りて具現化してくるものであるというならば、それは「神」として聖なるもの、強力なものでありながら、人間がつくりたもうた形成物のすがたをとってしまう、ということになりかねない。となれば、和風ファンタジーにありがちな、人語を解する刀剣だの鎧だの、呪術だの、怨霊だの、珍獣だの、になってしまい、人の世が、ふたりの巫女のいる世界が、神に侵略されたという脅威がとたん矮小化されてしまうのです。そうなると、もう、姫子と千歌音にとっての障害など取るに足らず、ただふたりの心情の機微のみのを学園日常百合のように、二次創作のように、書き上げていけばいい、ということになってしまうのですね。制作者サイドとしては、プロフェッショナルの意地としてそれをよしとしなかったのでしょうか。巨大な運命に押しつぶされようとするも、果敢にあらがおうとする少年少女たちの戦い、というこの重みを増すために、物理的に大きな造形物として試練をかたちづくらざるを得なかったのですね。踏みつけた足跡が大きければ大きいほど、それを飛び越える人間の力がすばらしく見える。そこにロボットの存在意義が見出されるのです。
ともあれ、「ロボット」という要素は、この作品においての「百合」と相並ぶ重要なファクターであって、どうしても譲れない条件であって、これを引き抜けばもはやそれは「神無月の巫女」たりえない、という結論が導かれるのです(やれやれ、強引にまとめやがった)。
神無月の巫女精察─かそけきロボット、愛に準ずべし─(目次)
アニメ「神無月の巫女」を、百合作品ではなく、あくまでロボット作品として考察してみよう、という企画。お蔵入りになった記事の在庫一掃セールです。
【アニメ「神無月の巫女」レヴュー一覧】