
私はたまに食に関するエッセイ(…と名乗るほどのものでもないが)を拙ブログに載せています。ただ、その食べものそのものの現物写真はつとめて載せないようにしています。10年前までは載せていたんですけれどね。
これは一般論ぶって考えを述べたいときに、あまりに個人の色のついたものを載せてしまうと、文章がたちまち色褪せてみえてしまうことがあるからです。
食材は撮影するのにコツがあります。
本職のカメラマンではないので技術は語れはしないですが。花や木、虫、あるいは星空などを綺麗に映せる方であっても難しいのではないでしょうか。そうした自然物とはまた違った生命感があるんです。ひとに育てられて、つくられて、盛られたという点で、なんとなく。芸術作品とは異なる期限というものがある。
食べもの写真についてまといつくのは、それが消えてなくなる直前のものだということです。
撮影者によって崩され、壊され、そのひとの中に入る。よくお料理店で出されたものを、何度もスマホを光らせて記録させている方に出くわしますでしょう。料理人からしたらかなり不評です。早くおいしく味わってくれ、と願う。それをやらない隣の客からしたら不快です。写真に撮っても、楽しむのは舌だから。
昔、お料理系ブロガーさんと交流したことがあります。
男性なのですが、お子さん向けに創作弁当を作られる方でした。焼肉店かなにかの経営者で、毎回キロ単位の肉やら魚やらを買ってきては、豪快に味付けした料理の品もあり、毎回まいかい、決め台詞に「うま~い」と叫ぶんですよね。自画自賛、なのに、なぜか憎めない。すごく楽しそう。
自作の料理とか、コンビニで買ったお弁当とか、総菜とか、はたまたスイーツとかスナック菓子とかを掲載される方もいます。
けっして、食べかけやら食べ終わったあとの食い散らかした画像というのでもない。完璧にきれいな買ってきてすぐですよ、の食べる前の画像をさりげなく。でも、なぜか、胸がざわざわするんです。なぜでしょう。
そういう食品を買ってきて、独りでぼそぼそとテレビでも見ながら食べている背中をなんとなく想像してしまうからかもしれません。
生きているために、生き延びるために、ただ何となくエネルギー補給として食べていますよ的な虚しさがわかってしまう。自分がみつめ、見下ろすものが、その食べものしかないのだという世界観が流れ込んでしまうような。これはブログだけではなく、ツイッターでもそうです。
ある日、不意に、これ食べました飲みました、とどこにでも買えるようなものをぽんと載せている方いますよね。
でも、そういうことをする方の生活はわりとギリギリなのかもしれません。なんらかの食後のリアクションがなく、どういった由来のものかわからず、ただそれだけ載せているわけで。
少し前にタピオカブームの時などに、インスタグラムに載せるために撮影したら、そのあとは道端に捨てられた、というネットニュースがありました。糖質ダイエットで、回転寿司のネタだけ食べて、すし飯は山のように積まれた写真とかも。
これも胸がざわつきます。いや、むかつく。食べものは誰かを生かすためにつくられたものです。だから食べたあとはその器やら包装やらはきれいに片付け、掃除しておかねばならないもの。私は父母からそう教わったし、戦後の食糧難を知っている親世代は米一粒まで無駄にすることをたしなめられたので、食事を無駄にすることについては厳しかったものです。
手垢のついた食べものが見えることで、そのひとの暮らしのありようが見えてしまうことがあります。それは知らず知らずにそのひとの外観をゆがませているのかもしれません。
そこには個人が抱く偏見もあります。たとえば、お金持ちはステーキやら焼き肉やらを毎日山のように食べているとか。実際は、旬の野菜やらフルーツやらをふくめ栄養バランスよく摂取し、白米と肉だけなんてことはないでしょうし。私の経験則で言えば、肉よりも魚を食べる方のほうが頭がよく、人あたりも柔らかい方が多かったものです。
新世紀エヴァンゲリオンの映画で、主人公のシンジくんが宇宙食みたいな固形スープを食べてるシーンがありましたよね。
ああいう、食事をきちんと描かないようなフィクションを見ると、なぜだか、すごくぞっとするんです。
主人公少年の家庭的な愛情の乏しさや孤立を演出したものではあるけれど、いくらSFの世界観だからといって生命が滅びたわけでもない。食べもの描くのめんどくさいから、もうこうしました的な。
この創作者は生きることの喜びを知らず、なんだか抽象的な世界に生きているんだなって。そういう価値観の持ち主が少年少女の愛を描いても、私は胸に響かないんです。好きだの惚れただのは一瞬で、そのあとには暮らしがあるのに。ゲーム映像で、キノコとか何か平べったいものをパックンちょしてパワーアップしちゃうような、そういうクスリみたいな感覚で食べものを描いていたりする。こういう意識の人が生死を描いても、ただ上っ面だけきれいな台詞が添えられただけで実感が伴わない、そんな気がします。そして、そのクリエイターを神様のように崇めた人々が形成する世界って、たぶん、地に足のつかないものではないでしょうか。
ジブリ映画がなぜ世界から絶賛されるのか、その理由が分かる気がします。
そういえば、あの映画、最終章では田植えのシーンがあったらしいですが、食べものができあがるために多くの働く人の手が介されていることを、見えるかたちにすべきではないかと思うんですよね。パック入りの切り身しか知らなくてほんものの魚を見たら脅えた子どもの話を聞くと、人間らしさを失っているような気がしないでもなく。
(2021.09.01)