題して『汚名』の第五回目。靖国神社への〈合祀〉は旧厚生省の官僚体質そのままの結果だった、と疑わせる。
私にはもうひとつ判然としないことがあった。
靖国神社側は誰々がいつ戦没したという情報を知る手だてが、そもそもない。その情報を握っているのは厚生省である。とすれば靖国神社側の求めに応じて、という厚生省側の言い分は詭弁に過ぎないのではないか。むしろ厚生省側は靖国神社側の照会に対して、こういう方が合祀候補ですよ、といって名簿を提出してきたのではないか。その候補名簿に従って靖国神社側は合祀してきた、というのが真実に近いのではないか・・・。
判然としない私を見て、調査資料室長は困惑していた。そして厚生省と靖国神社との関係よりも、規則の変更について触れた。
「昭和60(1985五)年ごろまでは日本人だとか朝鮮半島出身者だとか区別をしないで、旧日本軍軍人・軍属という範囲で、靖国神社側の依頼に応えていたんです。62(1987)年以降は、必要であれば靖国神社の関係者がこちらに来て資料をご覧になるという方法に変えました。その後はプライバシーとの関係で、平成2(1990)年8月には内規を設けて、遺族、本人を除いては閲覧禁止ということになりました」
戦後半世紀近くも、政教分離といいながらも戦死者に限っては、国と靖国神社との関係はずっと続いていた、ということだ。
もっといえば、首相の公式参拝といった靖国神社問題が国内だけではなく、中国や韓国といった周辺国にまで大きな波紋となって広がる前まで、国は戦前からのしきたりと思ったかどうかはわからないが、深い意味も考えずに〈合祀済〉という印まで作って留守名簿の整理をしてきた。
〈合祀済〉という印を押された名簿が靖国神社に渡されたことで、朝鮮人軍人・軍属は戦没者になり、英霊となって祀られ、今日に至っている・・・・。
戦後のこととはいえ、朝鮮人留守名簿を目の前にして〈合祀済〉の印を押した厚生省の職員は、そのとき歴史に対してなんの痛痒も感じなかったことが悲しい。(第六回に続く)
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