岸本さんはマスコミ嫌いな市長でもあった。
というのも、市長に就任したときは、いまも大いなる議論に包まれているが、アメリカ海兵隊普天間飛行場の移設先として、元市長の比嘉鉄也さんが橋本元首相との差しの会談で辺野古沖に決めたあと勝手に辞任してしまったあと、後任の市長候補として助役を辞めて出馬、僅差で辺野古移設反対を訴えた候補に勝った(1998年2月)といういきさつがあった。
市長に就任したあと、今度は住民投票によって移設そのものがひっくり返されるということがあり、さらにその後には、県が決めた辺野古沖合いだったら仕方がない、ということで浮上した案が、早期促進決議案とともに議会で小差で通過するという綱渡りを余儀なくされてきた。
そんなこともあって、2期8年の中で、きっちと対面する形でテレビのインタビューに応じたことはなかったのではないか、と私は思う。私自身、移設に関する市長の思い、というものを聞きたくて、何度もインタビューのお願いをしたり、手紙も送ったのだが、対面という形でのインタビューは結局実現できなかった。
ただ一回だけ、名護市の体育館で、岸本建男を励ます会、というパーティーが行われたことがあった。議会で移設案が議決されたあとのことだった。わたしも取材に出かけたのだが、そのときに、パーティーにやってくるお客さんを出迎えるために体育館の入り口に立っていた岸本さんは、わたしを手招きした。
「なかに入りなさい。ただしカメラはなし、ですよ」
その意味はカメラなしだったら話をしてもいいですよ、というシグナルだ、とわたしは受け止めた。とはいえ、生業の哀しさ、といまは打ち明けても岸本さんは怒らないだろうと思うのだが、わたしと岸本さんがそのときにやりとりした音だけは密かに録っていた。
そして「これでほっとしたよ」というひとことだけを番組では使わせていただいた。後世どのような評価が下されるにかは分からないが、ひとつし遂げた、という高揚感が感じられたひとことだった。
《以下引用》
「今年2月の市長退任式で基地問題に揺れた激動の8年を振り返り、「普天間基地問題を解決できなかったことは大変残念。良い解決法を見つけてほしい」と後継者の島袋吉和市長らに託していた。普天間移設問題は「知事判断に従う」としていたが、県は移設先候補地に「名護市辺野古沿岸域」を決定。稲嶺恵一知事の受け入れ要請後、名護市議会の移設促進決議を受け、99年12月、受け入れを表明した。受け入れに伴い「基地使用協定」など7条件を国に突きつけたほか、政府、県、市の代替施設協議会で「極力、沖に。規模縮小を」と要望。7条件実現に向けた協議機関の設置を求めるなど、代替基地の影響軽減にこだわりも見せた」(3月29日『琉球新報』)《引用ここまで》
岸本市政が必ずしも市民の大多数に支持されたわけではない。しかし「安保」という国の根幹に関わる問題を、国民的議論をするわけでもなく、振興策という甘い話をセットして、ただただ沖縄のさらに北端に位置する過疎化が進む地域にお任せするという国のやり方のまえに、怒りというものを溜めていたに違いない、と私は思う。
それが寿命を縮めていた、ということもあるのだろう。岸本さんの表情が明るかった、という印象を持ったことは一度もなかった。合掌。
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