日本語教師ブラジル奮闘記

ブラジル生活裏話

「選べる」ということ

2010年04月17日 11時35分59秒 | 日本事情
 
 人生において一番贅沢な状態というのは、「選べる」ことなのではないかと思う。
 
 恋人や配偶者を決めるのも、仕事や就職する会社を決めるのも、住むアパート、着る服を決めるのも、「選べる」という状態は本当に贅沢だと思う。
 
 恋人・配偶者が選べる状態にあるためには、まず自分が相手から好かれるだけの人間的魅力がなければならない。そして、配偶者の場合、当然ながら「財力」も必要である。
 
 仕事が選べる状態にあるためには、本人の単純な希望だけではなく、知識・経験・能力が必要である。「好き」と言うだけでは、その仕事を選ぶことはできない。
 
 また、アパートや着る服が選べる状態にあるためには、「お金」が必要である。お金がなければ、何も買えないのである。
 
 何だかんだ言っても、その根底にあるのは「お金」ではないかと思う。
 
 「選べる」というのは、「自由」という言葉と大きく関わっている。
 
 例えば、月収が10万円しかない人は選ぶ「自由」が本当に制限される。生きていくことが大前提であるから、衣食住のうちの、食・住がまず第1優先順位に来る。
 
 それぞれに割り当てられる予算というのは限られてくる。食費に1ヶ月3万円。アパート代に3万円。光熱費に1万円。交通費に1万円。。。。。その詳細はともかく、切り詰めても限界というものは存在する。
 
 アパート代の出費可能限度額が3万円だとすると、東京ならその選択肢は本当に限られてくる。つまり、「選べない」のである。「自由」がないのである。
 
 なぜ人はお金をたくさん欲しがるのか?それはより「選べる」状態になるからであり、より多くの「自由」を得られるからである。
 
 その究極の自由が、「働くか、働かないかを選ぶ自由」だと思う。「働かざる者食うべからず」という言葉があるように、本来ならば働かなければ生きていけない。ただ、働かなくても生きていけるほどお金がある場合、「働かない」ことすら選ぶことができてしまう。
 
 でも、よほどの放蕩者でもない限り、いくらお金があっても、働くことを選択するのが普通じゃあないかと思う。
 
 ただ、冒頭でも述べたように、いくらお金持ちでも、自分がやってみたい仕事を必ずしも選ぶことができない。なぜなら、その仕事をこなすだけの最低限の能力を有していないからである。

 つまり、お金が絶対的な存在ではない。お金持ちだからと言って、何でも「選べる」と訳ではない。「選べる」ことが「幸せ」と比例するとすれば、「選べない」ことは「不幸せ」を意味する。だから、お金の量と幸せの量は単純には比例しない。
 
 僕の座右の書「ユダヤ人の大富豪の教え」にはこう書かれている。
 
 人は自分が本当に何をやりたいかを分かっていない。だから、まず自己分析して、自分が本当に何をしたいかを知るべきである。そして、何事に対しても自分の中で優先順位を付け、意識的に決断(選択)をしていけば、その結果に対して責任が持てるし、失敗してもそこから学習することができる。多くの人は決断を先延ばしにし、忙しさにかまけて時間にただ流されている。
 
 世の中は不景気で、不本意にも失業している方も多い。「働く」ことを選びたいのに、社会の経済情勢により「働かない」ことを強制される。これほどつらいことはないのではないかと思う。
 
 「働けない」->「お金をもらわない」->「生活できない」
 
 つまり、何も「選べない」状態に陥ってしまう。だからこそ、「選べる」ということは贅沢なのである。ただし、人によっては、その「選べる」選択肢の幅がそれほど広くなくても構わない。働いてそれなりのお金さえもらえれば、それで十分だという人も多く存在するからである。
 
 でも、自分が心からやりたい仕事を「選びたい」人は、やはり努力して知識・能力を備えざるを得ない。
 
 僕は将来お金のために働くのではなく、自分がやりたい仕事だからやるという、働くか働かないかを「選べる」状態になっていたいと思う。物質的欲望を満たすのではなく、世界に出て行って、より多くの人と交流を図り、より深く世界の現状を知りたい。
 
 それが僕にとって一番最高に幸せな人生の過ごし方かなと思う。 
 
 

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