実は私も二十年前に、カワイのミニピアノを息子に買った。大きいピアノは買えないので、おもちゃでも性能のいい物をと思ったのだ。確か1万円位だったと思う。息子はそれなりに叩いて遊んでいたが、夢中になるほどでは無くて、ほっとした。もし夢中になっていたら、教室へ通って、ピアノのある環境にする為に、親として相当な努力が必要になっただろう。
今は普通にピアノのある家が多い、ミニピアノから始めるのもお勧めだ。
生後、ひと月を過ぎた頃だったろうか、息子の首の傾きが同じ方向ばかりと気づき、骨もちょっと出ているようなので、コミュニュティセンターの保健婦さんに相談する。特に成長に問題があるようでもないので、外国人の為の無料医師の施設を紹介してくれた。医師に逆子で出産(頭がひっかかってはいけないので、器具で引いた)した事を伝えると、その時の圧力で斜頚になったようでした。出来るだけ、もう一方の方向に向けさせる習慣を、教わった。だが、一向に良くならない。再度、相談し、チルドレンズホスピタルを紹介して頂いた。保険が無いと中々、アポが難しいようだが、事情を考慮して頂いた。
病院で、リハビリの手順を教わった。頚をかなりの力で捻じ曲げるという、かなりの精神力のいる作業だった。キツラノからそれ程、遠くない住宅街の一軒屋のベースメント(半地下)に越しており、部屋も広く、赤ちゃん用の台(入浴後の着替えや、体操にちょうどいい硬さの小さなベット)をガレージセールで購入してあり、息子をその上に乗せ、夫が頚を傾いているのと、反対に捻じ曲げた(特殊な方法)、一度に5回するのですが、3回したら私が抱きしめる。こちらが泣きたくなる位、息子は鳴き叫び、台の上に載せただけで、恐怖の顔をした。
その後も、一度だけ、医師の訪問を受け、もう大丈夫と言われた。ねじ曲げるのはひと月より長く続けたようにも思うが、そのままだと、何れ手術か、首が傾いてしまうとの事。親にかまってもらえない子が多く、笑わない赤ちゃんが増えたと医師が言っていました。リハビリは辛い事でしたが、息子の笑顔に救われていました。
散歩にも良く出かけ、特に色黒ではなかったが、白人社会の中では、ハワイ帰りの王子様と、見知らぬ人にも、よく声をかけられた。夫はニューヨークに二年いた事があり、そのまま子連れで放浪しようか、何て安易な事を考えていたが、私の滞在期間が切れる、生後4カ月で帰国する事にした。着る物、食べる物も、すべてこだわり、緑の多い、海あり山ありのバンクバーで、四ヶ月間、ただただ育児の為に、時間を費やせた事は、貴重な体験でした。
帰国の機内でも、離着陸の時は乳首をしゃぶらせ、ほとんど用意されたベットですやすや眠り、搭乗の際、赤ちゃんかと嫌な顔をされた周囲の人達も、着陸後にブラボーと拍手をしてくれた。思えば、あっと言う間の、出産でしたが、親になった事で社会と関りが増え、責任ある仕事を引き受けた事で、自分も成長できたと感じます。
帰国後の日本での検診でも、問題はないと言われ、ほっとしました。後遺症はないと、カナダでも言われていましたが、脳の記憶はあるようで、頚すじの辺りに触れると、ビクッとします。耳かきが出来ないので、苦労しました。赤ちゃんの記憶はもちろんありませんが、見た事、聞いた事、感じた事、特に印象の深い事は、脳が記憶しているのだなと思います。だから、親が不安に感じたりすると、それが子供の情緒に繋がり、過保護になると、精神力の弱い傾向になるのではないでしょうか?愛情を感じ無いほど、厳し過ぎてもいけないし、すべては子供を良く見る事から始まり、バランス良くを心がける、これが私が育児から、学んだ事のひとつです。
息子は六月で成人しました。これからは、親子でありながら、社会人どうしの関係になっていきます。偶然にも、中央線沿線に住んでいますが、私が影響を受けた文化に、時代を超えて触れているのだろうと思うと、考え深いものがあります。息子の誕生が懐かしく、ちょっと思い出に浸りました。読んで頂き、ありがとう。
無事に生まれたものの、私も夫も初めての育児、特に夫は24時間体制で、息子と寝ている私の世話で、大変だったと思う。最初は母乳が十分ではないので、豆乳を代用した。キツラノビーチに近い、6thアベニューで、オーガニックスーパーもあり、ソイミルクや、大豆製品は普通のスーパーでも売られていた。
息子は初日の飢餓状態がよほど脳にインプットされたらしく、思いっきり飲んでは、噴水のように吐いていた。これは六歳頃まで続き、祭事なので食べ物が並ぶと、やたら食べては吐いた。お陰で、腹痛には一度もなった事がなく、胃腸は丈夫のようだ。カナダは福祉がいきとどき、生まれてすぐに、保健婦さんが尋ねてくれて、健康チェックをしてくれる。周2回程、近くのコミュニュティセンターにも、連れて行けて、様子を見てくれた。
私達は野口晴哉さんの育児の本 http://www.zensei.co.jp/haruchikabookpage/ikuji.htmを参考にしており、息子のタフさに、何とか寝かせようと、入浴の温度差を試みた。水ではないが、ぬるま湯とお湯に交互に入れるのだが、初めてぬるま湯に入れた時は、水風呂に感じたのだろう、驚きの目を見開き、ぶるっと震えたようで、すやすやと良く寝た。こちらは、してやったり、二度目からは、驚く事なく、気持ちよさそうでした。その後も入浴後は、必ず足や下半身に水をかけるようにし、息子はちょっと寒くても水シャワーが浴びれる程、丈夫に育った。心臓も丈夫と思えるが、安易にお勧めはできない。
笑顔の耐えない、元気な子でしたが、思いもよらない試練が待ってました。つづく。
その日は通院日で、よく歩いた。ほぼ予定日だったと思う。少し出血があったが、陣痛はまだ、Dr.もそろそろと言い、自宅の連絡先を教えてくれた。そして、夜になって破水して、その後、陣痛も始まり、来てくれたDr.が病院に連絡してくれ、友人の車で緊急用の出入り口から病院に入ったのは、夜中の2時でした。
普通、陣痛は間隔をあけて、少しづつ強くなると聞いていたが、いきなり強いのが間隔をおかずにやって来た。逆子だからなのか、私の体質なのか、それとも微妙な陣痛に気が付かなかったのか、もうパニック状態で、夫と私の英語が理解できる友人に付き添われ、何が何だかわからないまま、ベットの上で酸素ボンベを当てられていた。
間もなく、リクライニングチェアに移され、都合のいい位置で、いよいよ出産。プッシュという声に、思いきり力むと、エクスランスと声が飛び、早く終わってほしいの一心だった。そして、オギャーとの声と共に、ボーイ、ボーイと聞こえ、やはり男の子だったと安堵する。明け方の6時過ぎでした。病院に入ってから、4時間、陣痛が始まってからも6時間後位だから、人生最大のドラマは、とてもあっけなく終わった。もっと冷静に取り組みたかったが、突然過ぎて、嵐のようだった。その後も躁状態。人口ミルクも何もやらないでほしい、と言うこちらの希望どうり、息子は何にも与えてもらえなかったので、夫がベビー室を覗いた時、ギャーギャー鳴いていたようだ。夜になって、ナースがベットに連れて来て、母乳をやれと言う、どうしていいかわからないが、とにかく乳首を吸わせると、出てるかどうかわからなが、夢中になって吸い、満足したようだった。その後は鳴くと、おしゃぶりを入れられ、もぐもぐしていると、落ち着くようだ。
翌日は、歩いてと言われ、バスタブにも入れと言われ、昼過ぎに退院した。実は入院費が1日1,000ドルだった。通常、保険がなくても500ドル位だが、外国人は逃亡してしまうので、高いらしい。もし帝王切開だったらと心配すると、それでも3日で退院すると言う。私の場合、夜中の2時に入ったので、日付が変わっての午後で、まる一日扱い。何と親孝行な息子、そして三人の生活が始まった。
バンクバーのセントポールホスピタル。ここで出産する事になったのですが、カナダ行きを決めたのは、理由は他にもありました。
’82年、’83年とカナダへ行った私はカナダドルを外貨預金したままで、5千ドル持っていた。当時は180円~200円していたのでしたが、’89年には100円前後になっていました。日本円にすると半額になってしまい、とっても損をした気分。ちょうど、その前年に、バンクーバーに住む友人が日本に来た事で、連絡がとりやすく、思いきって行くことに決めた。カナダで使えば、同じ金額で贅沢な感覚の生活が出来るし、日本の六月は梅雨、ドライなバンクバーの方が気持ちも良い。
’88年の10月には、仕事も辞め、ネパール行きを決め、旅券を購入してから、妊娠が分かり、旅の延長気分で、ネパールで二か月、帰国して、カナダ行きの準備、四月にはバンクーバーへ行って、部屋の準備、夫はひと月遅れてやって来た。計画的のようで、行き当たりばったり、それでも、無理なく流れのまま進んでいた。
友人のシェアーハウスに落ち着き、知り合いが留守になるという、アパートの部屋を借りた、出産したら、どこか捜す事になるが、まあ何とかなるでしょう。部屋には必要な電化製品が付いているから、日本程、大事ではない。主治医を決めて、お産婆さんで産むつもりが、逆子と分かり、直前で病院になった。そして、普通の陣痛と違うと言われたが、初めてなので、普通が分からない。とにかく、ほぼ予定とおりに、その日を迎えた。つづく。
’89年の六月、人生の最初で最後の出産をカナダで迎えた。大好きなバンクーバー、私にとってカナダは第二の母国のようです。多人種の新しい国なので、人権意識が高い。移住したかったのですが、最初に行った’82年には、移民の受け入れが無く、子供を生んで、カナダ人の母となって移住しようなどと、ちょっとした夢を描いていたのが、現実になるなんて、その時の思いを書いてみよう。
その前に、子供の誕生日というのは、母親にとっては出産記念日。子供におめでとうと言いながら、実は自分の出産を思い出し、生まれてくれてありがとうと、私もがんばったと、自分の思い出に浸ったりもする。
息子の小、中学校の作文集を読むと、小さいながらも夢や、人権の事などが書かれている。過疎の小規模の学校なので、このような文集が、きちんと編集され、どんな思いを描きながら成長したかが良くわかります。整理、整頓が苦手な私は、息子の成長記録など付けていないし、管理教育を押し付けられてはたいへんと、PTAで奮闘し、その未熟さから衝突も多かったが、今思うと、過疎の少人数の、良いところも多々ある。特に文集は単なる思い出だけでなく、成人して悩んだり、壁にぶつかった時に、隠れた個性を見出し、アドバイスも出来る。息子の夢は成長と共に変化していったが、生きる事に喜びを感じられる人生にしたい、という思いはいつもあるようだ。