雪姫鳥の独り語

雪姫鳥の山暮らし、日常に感じる事。
雪姫鳥のニットの紹介、旅した国の回想。
食べ物や子育て、雪姫鳥のエコライフ。

1984年ヨーロッパの旅 パリの街

2018-08-12 21:39:37 | 

1985年1月パリ

1983年にバンクーバーのYHで出会ったフランス人を訪ねました。

学生街に住んでいて一週間ほど、滞在しました。

 

彼女のアドバイスで、パリの地下鉄やバスが2ゾーン乗り放題のチケットが、

写真付きの身分証明書があれば購入できると聞き、

ユースホステルの会員証で、簡単に作れたのでパリの街歩きを、毎日していました。

確か1000円ほどで、観光客用と比べると、とてもお得でした。

市場は花が沢山、さすがはパリ!

何処を旅しても、市場が大好き!その街の文化を感じます。

やっぱりエッフェル塔ですね、パリっ子はローラースケートで遊んでいました。

ブローニュの森で双子に会いました。

おばあちゃんと一緒に散歩、ニットが似合いとてもキュート。

毛皮に傘、ハイヒールでシャンゼリゼ通りを闊歩するパリジェンヌ

撮影もしていました、何故か撮影を見る事が多い旅。

モンマルトの丘へは、可愛いいミニバスで行く。

何だか映画の中に入ったような気分でした。

街がミューぜアムのようですね。

公園も多く、道も放射線状になっていて分かりやすい。

セーヌ河も、凱旋門も、バスチーユ広場も地図を持たずにウロウロしました。

何処を歩いても絵になるし、かなりのお上りさん気分でしたね。

友人とパリの中華街に行ったのは、面白かった。

中国人が普通にフランス語で会話しているのに、驚いたけど当たり前ですね。

 

パリでは英語があまり通じなく、少し苦戦したように思います。

私は日本人です。私はフランス語が話せません。私は英語を話しても良いですか?

この3つのフランス語とボンジュールの挨拶を覚え、繰り返し使ってました。

 

一ヶ月位、住んでみたい街ですね。

つづく

 

 

 


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1984年ヨーロッパの旅 ナミュールでスリに、そしてヒッチでパリへ

2018-08-12 07:32:53 | 

パリまでの道のりは遠かった。

1984年1月

ブリュッセルで二泊してから、ナミュールへ向かった。

パリへ行く途中だし、人気の高いユースホステルがあるとの情報で、

少しのんびりと旅の情緒を味わいたい気分でした。

私はカナダの旅から、スーキー用のキャスタ-付きのバッグを利用していました。

駅のホームでバッグを引きながら歩いていると、

隣を歩いていたおじさんが、「ヘルプしよう」と声をかけて来ました。

私は大丈夫と言いながら、おじさんと会話しながら歩いていると、

ジプシーのような子どもが数人来て、紙を差し出しながら、私に何かをねだって来た。

おじさんは、「気にしないで、かまう事ない、ほっときな」と言います。

私は何も無いよという感じで、相手にしなかった。

子ども達が離れると、おじさんも急ぐからと、去って行来ました。

私は階段を上るので、手伝ってもらおうとしたのに残念と思いながら、一人で昇り降りして駅を出た。

ユースまではちょっと距離があったが、のんびりと歩いて行きました。

ユースホステルに着いて受付で、ショルダーバッグの中に財布が無い事に気づいた。

ちょっとパニックになったけれど、すぐに駅の子ども達と気づく。

部屋に荷物を置き、ユースを飛び出し、私の慌てた様子に車に乗せてくれた人がいて駅に行った。

駅につくと係り員に案内され、その部屋にジプシーの女の子が二人いた。

常習のようで取調べされているようでした。

私が事情を話すと、別室で身体検査をしたが、財布は無く彼女達も知らないと言う。

ホームで話かけて来たおじさんがボスで、子ども達はやらされていたのだと理解しました。

駅員に被害届けを出すか?と聞かれたが、旅の途中だし、もういいと諦めた。

財布には、パリまでの交通費(現金)とナミュールでの滞在費(チェック)が入っていました。

被害金額は少なかったけれど、とてもショックでした。

その夜はユースのスペシャルディナーを頂いたのに、気分は沈んでいた。

そして、フィンランドからヒッチハイクして来た男女のペアと出会い、私もヒッチしようとひらめいた。

北海道でのヒッチの経験もあるし、そうだヒッチしようと思い、翌日にナミュールを出る事にした。


今思うと、ナミュールはとても美しい街だし、数日滞在してから、ヒッチすれば良かったですね。

せっかく行ったのにと残念な思いがするけれど、嫌な気分を変えたいと必死でした。

パリのルーブル美術館の周辺にもジプシーの子ども達がいて

紙を差し出して来たけれど、同じ失敗はしませんでした。


ナミュール宿泊の翌日は、霧雨のような天気、何故かバスストップの前でヒッチを試みる。

すると数台目で、一台の車が止まり、おばさんが乗せてくれた。

スリにあって、パリまでヒッチしようと思うと言う。

彼女は私を自宅に連れて行き、一杯のミルクコーヒーを差し出した。

「アウトバーン(高速道路)まで連れて行くから、トラックをヒッチするといい」と教えてくれた。

そして紙幣を一枚、私に差し出した、多分500円位だったと思う。

全部のお金をすられたのでは無いからと、断ったが、

彼女はフードが買えるからと、、、私は好意を受け涙が出そうになった。

ドイツの高速道路は無料で、自由に乗り降り出来たので、パリ方向の車線で降り彼女とハグして別れた。

トラックはすぐに来て、最初の一台で止まってくれたと思います。

「ドーバー海峡のカレーに行くから、そこでパリ行きのトラックを見つけるといい、

シャワーもあるし、24時間過ごせるから、、、」とドライバーに言われ、

頭の中に地図が浮かんでこなかったけれど、遠回りしてもその方がいいと思いました。

 

カレーに着くと、忙しく彼は去って行きました。

私はイギリスからのフェリーが着くと、パリと書いた紙を持って、出口付近に立った。

すると、フランス人と思われるドライバーが「パリまでか?」と言って乗せてくれました。

私は小柄なので、子供のように思われたようなので、既に25歳でしたが、19歳と言いました。

パリにはバンクーバーで出合った知人いて、手紙で連絡していました。

彼女の住所を見せて、ここへ行きたいと告げると、彼は会社が近いから送ると言う。

フランス人なので、英語があまり通じなかったけれど、安心感がありました。

パリまでは遠くすっかり暗くなり、外灯も煌々とはしていないので、本当に暗かった。

あそこがパリだと言われ、遠くに見えたパリの街は光り輝いていて、

「翼よ!あれが巴里の灯だ」のフレーズが浮かびました。

映画は見ていないけれど、そんな心境でフランスは農業国なんだと思いました。

彼は仕事をすませると、私の知人宅に電話をして近くの道で待ち合わせ、私は無事にパリに着来ました。

彼女はいつ来るかと思っていたけれど、まさかヒッチで来るとはと驚いていました。


長い一日でした。

スリに会わなければ、ヒッチハイクの体験もありませんでした。

そして、異国の見知らぬ人達の温かさに触れる事もなかったと思います。

スリという経験も貴重なものになり、与えられた縁に感謝しました。

それぞれの人に、お礼はできませんが、困っている外人には私なりにヘルプしたいと、今でも思います。

お金に困ると、人を頼るしかありません。

それは嫌な思いもあるけれど、親切の連鎖のような場合もあります。

お金ばかりを頼ると、人との関係が薄れてしまう、そんな気もします。

ドーバー海峡もトンネルで繋がり、コンタクトもメールで簡単になり、今の時代の旅は変わりましたね。

つづく


コメント (2)
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1984年ヨーロッパの旅 ハンブルクからブリュッセル

2018-08-11 07:22:10 | 

1983年11月に、NYからハンブルクの友人を訪ねました。

そこから北欧を旅して、翌年1月にベルギーへ向かいました。

当時から歩道も自転車も区別されていました。

バスレーンもあり、さすがはドイツです。

こんなデイスプレイもあって、ハンブルクはロンドンも近いので、面白い。


ハンブルクからブリュッセルまで、乗り合いで行く事にしました。

新聞か雑誌の、同乗者求のコーナーで友人が捜して、安心で安いとの事でした。

男性二人でしたが、友人にしっかりと通訳してもらい、

ブリュッセルのユース・ホステルまで送ってもらいました。

途中オランダを通過し、ベルギーに入ったら道路が街灯で明るくなり、

さすが、ヨーロッパ経済の中心と思いました。

ブリュッセルには、1998年に世界遺産登録されたグラン=プラスがありますが、

事前の情報が無いままに旅していたので、大きな広場の印象だけでした。

やはり、小便小僧ですね。

あまりに小さくて驚きました。

隣はさすがレースの国、見事なボビンレースが沢山ありました。

一度は憧れましたが、同じ編む物でも道具が違うので、はまらなかった。

街はお洒落で、日本で言う小京都の感覚でしょうか?

歴史や文化を感じますね、ショップの感性に惹かれます。


ブリュッセルからヨーロッパで人気の高いユースホステル、ナミュールに電車で行く。

ここで数日間を、のんびり過ごす予定でしたが、アクシデントがありました。

つづく


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 ドーソンシティ・タイムスリップ

2018-07-28 09:51:05 | 

郵便局、内装もレトロな雰囲気。

四角い建物は、銀行。

ドーソンのオペラ座、グランドシアター。

ゴールドラッシュ時代の劇が、夜8時から上演される。

せっかくなので、最後の夜に観ました。


旅は非日常的な行動で、文化の違いから、異空間に来た気分になります。

バーチャルかリアルか、情報の多い現代では、どこかで見たような景色が多い。

このドーソンシティも、今、どうなっているかと思いますが、

ホテルやショップは増えていても、舗装されていない、街並みの雰囲気は同じであろう。

日本のように画一化された文化で無い事は、確かだと思います。


昔、旅をした懐かしい北の街だけど、タイムマシンに乗って、

また訪れたいと錯覚するほど、現実だったのかと思う。

あの頃は、未来の事など何も考えずにカナダを旅して、カナダに移住したい、ただそう思っていた。

導かれるように、ドーソンシティに迷いこんだような旅でしたが、

短い夏を楽しむ住民のお祭りは、心から楽しめた。

異常気象で、ドーソンでも、クーラーを使うような日常になっているのかな?

 

遠い日の出来事だけれど、あの日の思い出は、今でも心を癒してくれます。

私にとっては、エジプト、チベット、エアーズロック、アラスカが秘境感覚だけれど、

このドーソンシティは、宝箱の中の思い出のようです。

終わり


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 ドーソンシティ・カジノ

2018-07-28 07:12:48 | 

カジノと言っても、ラスベガス(行ったことはないが)のような、

派手な場所ではなく、観光客も地元の人も、時間になると集まって来る。

道を歩いても、カジノに行きそうな人がニコッと笑いかけて来る。

西部劇のロケのようで、ワクワクしました。

バンクーバーの知人は、このステージにバンド出演していた。

何だか、映画のシーンを見ているようでした。

私はマージャンが好きなので、賭け事は嫌いではない。

ちょっと遊んだ記憶があるが、勝ったかどうかは覚えていない。

見ているだけで、楽しい気分。

日本もカジノができるようだけど、拝金主義の商業的。

加熱して、トラブルも起こり得るだろう。

お酒も賭け事も、ほどほどに嗜む文化が成熟して欲しいと願う。

続く

 


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 ドーソンシティ・パレード

2018-07-28 07:01:56 | 

パレードは港から始まりました。

 

広場に集まった、ゴールドラッシュ時代の服装。

それは、私にとっておとぎの国でした。

広場にいた全ての人が楽しそうで、ハッピーでした。

画一的なお祭りでなく、商業的でもなく、

短い夏を楽しむ子供も大人も、笑顔がいっぱいでした。

35年前のお祭りです。

続く

 


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 ドーソンシティ

2018-07-27 13:32:09 | 

カナダ、ユーコン準州の都市、人口2000人のドーソンシティ。

 

昔はゴールドラッシュで栄えた、それ程大きくはない北の街。

道路が舗装されていない、コンクリートではひび割れてしまうほど、冬は寒いそうです。

板張りで造られた歩道もあり、建物は木造建築ばかり、西部劇の中に入った気分。

最初は市役所のような所へ行き、入国の手続きは出来ないから、飛行場へ行くように言われました。

交通手段を問うと、ヒッチして行くようにと、紙に‘AIRPORT’と大きく書いて渡してくれました。

これを見せれば、すぐ連れていってくれると、言われたようにすると、

すぐに車が止まり、飛行場へ行くことができ、入国スタンプも無事に押してもらえました。

帰りも当然、街中までとヒッチしました。

少しスリリングでしたが、日本ではあり得ませんね。


街は翌日のパレードの準備でそわそわしていた。

夏だけ賑わう、メインイベントのようです。

ホワイトホースへのバスは週に2便しかなく、パレードを見ると、逗留も長くなります。

宿泊代も大変なので、何とか安く泊まれる場所がないかと、ウロウロしていたら、

‘ジャパニーズか’と声をかけられた、確かに日本人は珍しい。

彼女はモーテルの女主人で、‘何故ここに来たか?と尋ねられました。

アラスカからの帰りで、昔ここのカジノで音楽していた知人が、ドーソンに寄ることを勧められたと。

偶然にも、彼女は知人を知っていました。

宿泊の事を話すと、彼女は自分の経営するモーテルの洗濯室を提供してくれた。

夏とはいえ、夜は少し肌寒いが、洗濯室には乾燥機もあり、何となく暖かい。

室内のテーブルの上に寝袋で寝るとちょうど良かった。

そして、空室の鍵を貸してくれ、シャワーも使っていいとの事。

帰りはヒッチは危ないから、誰かホワイトホースへ戻る人を紹介するから、心配ないという。

過剰な親切はなく、とにかく有難く、さっそく宿泊していたモーテルをキャンセルして、移動しました。

元気にニコニコしていたら、ポラロイドで撮撮している人が無料だと言って、一枚撮ってくれた。

とても23歳には見えなく、高校生くらいに思われていたのでしょう。

日も長いので、一日たっぷり動けました。

そして、いよいよパレードです。

 続く


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 フェアバンクスからドーソンシティへ

2018-07-27 13:11:19 | 

1982年8月12日、フェアバンクスの旅行代理店で申し込み、

ツアーバスの直行便で、ドーソンシティまで行ける事になったのですが、

ハプニングの連続でした。

 

何故かは分かりませんが、アメリカ人の夫婦二組と、

私はフロントガラスにひびが入っているワゴン車に乗せられました。

バスが定員オーバーだったのでしょうか?

ドライバーとアシスタントと合せて、七人だけした。

途中のTOK(トクジャンクション)には、サンタハウスがあり、

予約するとクリスマスにカードやプレゼントが届くという、ビジネスをしていました。

この写真のようにバスと私達のワゴン車です。同じ料金なのでしょうか?

このあとガス欠で、かなり遅れました。

カナダとの国境ですが、明るいけど夕刻も過ぎて、閉まってました。

中に人は居ますので、開けて頂き通過できました。

私だけ日本人で、入国スタンプが必要なのですが、

業務は終わったので、ドーソンシティで手続きをするようにとの事。

当時カナダのビザは三ヶ月で、もう三ヶ月延長できました。

私の場合、五月にカナダのバンクーバーに入国したので、滞在ビザが切れていました。

ちょっと不安でしたが、問題はないと言われたので、納得しました。

途中、寄ったレストランでは、二組の夫婦に誘われ、ごちそうになった記憶があります。

そして、ドーソンシティまでは、雄大な光景の中、ひたすら一本道を走っていたように思います。

無事にドーソンシティに着いた時はほっとしました。

宿泊のあても無かったので、情報を聞き、一番安いモーテル(車で旅する人の宿)で、一泊35カナダドル。

当時のレートで7千円でしたが、観光地だから仕方ないかと思い、

とりあえず二泊を予約して、その日は終わりました。

続く

 


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 フェアバンクスへ

2018-07-27 10:39:20 | 

アラスカは現実だったのかな?と思う時があります。

ホワイトホースから、アラスカハイウェイを経て、フェアバンクスに、

そして、アラスカ鉄道で、デナリまで往復、更に陸路でドーソンシティ。

ホワイトホースに帰るまで、およそ20日間の旅でした。

バンクーバーも初めてで、二ヶ月半後にまさかのアラスカ、夢にも思いませんでした。

ユースで冒険家と出会い、流れるようにアラスカに導かれました。

日本で旅慣れていても、外国は言葉の壁があります。

けれども、中学英語で十分でした。

単語を記憶し、簡単な言い回しで、だいたい通じました。

今は翻訳機能が進化しているので、日本語のボキャブラリーや、

表現力を身につければ、英語力はそこそこでも大丈夫です。

ナリの日々は、とっても楽しかったのでしょう。

九日間が、三日間のような感覚で記憶しています。

ただ、食事の記憶が殆んどありません。

レストランに行った記憶も無く、スーパーマーケットがあった事は覚えています。

キャンパー達と一緒に食べたような気もしますが、覚えていない。

食べる事より、他の事に夢中だったのでしょう。

デナリのホテルの出入り口で、‘日本から来た日本人か’とおばさんに言われ、感激してハグされた事も。

彼女はドイツ人で、日本に住む日本人に出会ったのは、初めてのようでした。

終戦の日が来ると、ふと思い出します。 

 

 

将来の事など、何も考えず、今を一生懸命に生きていた。

日本社会より、カナダに住みたいと強く思っていた。

フェアバンクに着き、ドーソンシティへのバスチケットも手に入れ、

どこで野宿しようかと、ウロウロしていたら、日本人の旅人に出会いました。

彼は自転車で、デナリへ行こうとしていました。

知り合った日本人のテントに泊まれるからと、私も同行する。

テントを張っていたのは、日本女性二人でした。

職場で、‘変わっている’と言われると悩んでいたと。

自分らしくしようとすると、変っていると見られるので、退職したとの事。

彼女達も旅に出て、何かを発見したようでした。


アラスカの旅は、私の心に深く残り、自分に対して、

やれば出来ると、強く思える経験になったと、思います。

Who Knows? 先の事など誰にも分からない。

自分の感性のままに生きてみるのもいい。

辛いこともあるけれど、楽しい事もある、それが人生。

 
 
この後もバンクバーで3ヶ月過ごし、仕事のオファーもあったけれど、

移住する気で出直そうと、日本に帰りました。

ご縁あってビル・リッシュマンから、ハウスキーパーとしてオファーを頂き、

半年後に再びカナダへ渡りました。

そんな未来、夢にも思いませんでした。

ユーコンに続く

 


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 マッキンレーの宿

2018-07-26 13:05:05 | 

デナリ国立公園には、ホテルとユースホステルが、車両を利用してありました。

このユースホステルは一泊一ドル、とてもお得ですが、二段式のベッドがあるだけです。

そして、毎夕方、チェックインして、朝チェックアウトする方式で、

連泊は出来ても、ベッドをキープしておく事ができないシステムでした。

当然、荷物も持ってでなくてはなりません。

もちろん、シャワーもありません。

夏でも涼しく、そんなに汗をかきませんが、毎日でなくても、シャワーは浴びたい。

私は幸運にも、マッキンレーのホテルで働く人を、

バンクーバーのユースホステルの、ボランティア仲間から、聞いていて、

困ったら尋ねるようにと、教えて頂いてました。

マッキンレー、パーク・ステーション・ホテルで、働くピーターとケーティです。

ホテルは車両でも、従業員の部屋は、森の中の山小屋風でした。

荷物を置かせてほしいのと、シャワーを浴びたいとお願いしたら、

心良くヘルプしてくれ、従業員用のシャワーを使って、

聞かれたら「ケーティの友達と言えばいい』との事でした。

二人のおかげで、デナリに八泊もする事が出来き、感謝です。

帰る時に、ユースホステルの人から、日本人も目面しいが、

こんなに長くいた人も初めてと、言われたのを覚えています。

デナリのホテルの掲示板には、多くのイベントの案内が出ていました。

有料のもあったと思いますが、私はフリーのツアーを捜し、デスカバリーハイクに、二度参加しました。

デナリ国立公園のパークレンジャーの案内で、主に植物を探しながら山歩きをします。

もちろん、英語なので、良く分かりませんでしたが、空気感が最高で、下界に戻りたくなくなります。

礼文島や西表を歩いた経験で、けっこう歩くのは好きです。

ネパールのトレッキングも、今のマラソンに繋がっています。

夜のキャンプファイアーの案内も出ていて、日本人とも話した記憶があります。

ビーバーダムを見つけたり、珍しいキノコを見つけたりしました。

この一年後、ビーバーの糸をカナダで編むとは、夢にも思いませんでした。

 続く


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 デナリ・ワンダーレイク

2018-07-26 12:33:24 | 

デナリパークロードの終点、ワンダーレイク。

この赤い花は、ファイアーウィード、和名はヤナギランです。 

現在は延長されて、もう少し奥に行けるようです。

ここまででも、6時間近くかかります

あまりに気持ち良く、静かで、バスの時間まで、仰向けになって寝そべっていたら、

「ジャパニーズか?」とここでも声をかけられた。

写真を撮らせてと言われたので、どうぞと言うと、私のカメラでも撮ると言って、

テントの方向に振り返ってと、ポーズを要求された。

絵になるのかな?

でも、気をつけないと、そのままカメラを持って行かれる場合もありますね。

大自然の中だからと安心できない世の中が、残念に思います。

この頃は、何の不安もありませんでした。

ワンダーレイクへは1日だけでしたが、途中のビジターセンターまでは何度か行きました。

まだ23歳、定職も無かったし、海外の旅も始めたばかりでした。

中学英語でも会話できるし、思考の幅が少し広がりました。

続く


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1982年アラスカ・ユーコンの旅 デナリ・ナショナルパーク

2018-07-26 11:49:38 | 

1982年8月3日、フェアバンクスからアラスカ鉄道で、デナリ・ナショナルパークへ向かう。

北米最高峰マッキンレー周辺の国立公園。

とうとう、アラスカに来てしまったとういう感覚でした。

フェアバンクスでも、スーパーのレジの人に声かけられ、

その日系人宅に一泊させていただいたり、偶然の多い旅でした。

 

デナリに8泊もしました。

現在は観光地らしくなっているようですが、当時は国立公園の手本かなと、感動しました。

一軒しかない公営のホテルと、一泊一ドルのユースホステル。

そこで働く人々が、自然を守り、自然を伝えることに徹底していた。

遊覧飛行は無理なので、写真だけパチリ。

ナショナルパークには、フリーのシャトルバスが運行されています。

デナリ国立公園の入り口から、一時間に1~2本位の間隔で、無料のシャトルバスが出ていました。

特に予約の必要は無く、空いていれば、どこでも乗り降り出来ました。

ビジターセンターまでは3時間半、バスは必ずそこまで行き、

さらに奥のワンダーレイクまでは一時間半位かかり、便も少ないです。

往復すると一日を費やすが、夜も明るいので、時間の感覚が無くなります。

天候にも左右されるますが、ビジターセンターからマッキンレーを望む事が出来ます。

キャンプの許可を得た人だけが、車を乗り入れ出来て、

ワンダーレイクは5張りだけなので、ほとんどマイカーの通行はない。

バンクバーでも女性のドライバーを見かけていたが、ここでは八割が女性と聞きました。

その頃の日本を思うと、ようやく女性の社会進出が始まった感じてです。

教育や人権意識は、日本は遅れていると感じます。

 

私はサファリーパークのような動物園に行った事はありませんが、
このデナリは、野性の動物が普通に生息していて、バスもけっして彼らの行動をじゃましたりしません。
写真は小さいですが、バスの間に見えるのはカリブー(トナカイ)です。
そして、遠くに見えたのは、オオカミかフォックスですね。
人間中心の思考でない観光は、見習って欲しいと思います。

 
このような道路をバスは走ります。
 
 
こんな景色を見ながら、雄大で地球上にいる感覚です。
冬はもちろん凍結、真っ白になります。
続く

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1982年アラスカとユーコン

2018-07-25 08:30:37 | 

 

1982年7月26日、CPエアのキャンペーンを利用して、バンクーバーからホワイトホースに飛びました。

帰りは8月19日、確か一ヶ月以内の日程を決めたチケット。

バンクーバーのユースホステルで、キッチンボランティアをしていて、夏休みをとる事にしました。

ボランティア希望の人は多いし、忙しくなるから、もっと英語が話せる人がいいかもと思いました。

アラスカハイウエィは、バイクの後ろに乗って、フェアバンクスまで行きました。

バンクーバーユースに宿泊した、冒険家が、ホワイトホースの日本人を紹介してくれ、

日程が同じだったらしく、再会して、乗せてくれた。

フェアバンクスからマッキンレーの往復はアラスカ鉄道。

そして、フェアバンクスから、ツアーバスでカナダのドーソンシティへ。

このドーソンが最も記憶に残ります。

あまり知られていない、このドーソンとアラスカの旅。

続く


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1983年北欧の旅 コペンハーゲンのクリスマス

2018-07-25 06:12:08 | 

コペンハーゲンの街はクリスマスモード一色でした。

カナダで編んだビーバーのジャケットに、

ポーラにオーダーした皮のパンツでおしゃれして、

ジャズバーのような店にも入ったり、それなりに楽しみました。

ショッピングも楽しみ、クリスマスの雰囲気は最高でした。


でも、コペンハーゲンでまず思い出すのは、クリスチャニアですね。

偶然にしても、そこを訪れ、そこの空気に触れられた事は、貴重な経験です。

 

一週間、お部屋を借りた、ミセスヤーカの家族とのクリスマス。


アメリカから来た、女性二人と一緒でした。

私のセーターは、ハンブルグで毛糸を仕入れて編み、ズボンは古着屋で購入しました。

折鶴を奇麗な紙で、いくつかおって、糸で吊るして、ヤーカにプレゼントしました。


午後の四時には街から人が消え、開いているのはホテルのレストランだけらしい。

ディナーはワイルドピッグの丸焼き、中に野菜を詰めた物でした。

いのししかと思っていましたが、野ぶただったかも。

 

借りた部屋の隣のビルの1階はパン屋さんでした。

明け方からいい香りがして、毎朝、焼きたての、くるみパンを食べていた。


今度北欧に行くなら、長期でお部屋を借りてみたいですね。

今ではシニア世代でも、短期留学とか、ネット情報で企画できます。

仕事の整理、家の整理、ブログも整理、アルバムも整理、、、、

これも、私の旅なのかと思います。

 

 


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1983年北欧の旅 コペンハーゲン

2018-07-24 06:51:05 | 

トラナスを出て、真っ直ぐにコペンハーゲンに向かいました。

海峡を渡る船上から写したと思われる、クロンボー城。

シェイクスピアのハムレットの舞台として有名ですが、2000年に世界文化遺産に登録されました。

歴史的建造物ですが、残念なことに見学はしていません。

アンデルセンの童話で有名な人魚姫リトル・マーメイド。

リトルは小さいという意味、本当に小さく、子供サイズですね。

実物とイメージの違いを実感します。

運河の街、クリスチャンハウンは、アムステルダムに似せて造られた。

レンガの建物や、18世紀に造られた建造物が多い。

衛兵交換式、毎日決められた時間に行っています。

街中を行進します。


コペンハーゲンではユースホステルに一週間、

張り紙で見つけた週単位で借りれる部屋に一週間と、けっこう長く居ました。

毎日、ウロウロしていたと思う。

ユースホステルは郊外にあって、街まで毎日歩いていました

美術館も無料が多かったので、良く入ったけれど、疲れてしまった。

美術に興味があれば良いのですが、

フリーだからと言って、むやみに入る場所ではないと、つくづく感じました。

コペンハーゲンもクリスマス、楽しい思い出です。

続く


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