雪姫鳥の独り語

雪姫鳥の山暮らし、日常に感じる事。
雪姫鳥のニットの紹介、旅した国の回想。
食べ物や子育て、雪姫鳥のエコライフ。

1983年北欧の旅 トラナス

2018-07-24 06:37:08 | 

プチホテルのようなユースホステル

宿泊ルームとリビングは、別の建物でした

ハンブルクからストックホルムまでの往復切符を購入していて、

期間はどれくらいだったのだろうか?

静かな田舎町に滞在しようと、南へ下った。


良いユースホステルの情報を誰かに聞いたのだろう、

小さな田舎街のトラナスtranas。

 

トラノスの駅から、電話でユースに宿泊の予約を入れた。

ユースに着いて、オーナーさんが私が日本人なので驚いていた。

他に泊り客はと尋ねると、英語の人が来るような事を言っていたので、

それが私だと分かり、半年以上も英語で生活していたので、慣れていたのですね。

6泊もしたので、気に入った場所だったのか、のんびり過ごセタ。

北欧らしく、サウナがあったと思う。


この年の5月に日本を発っていたし、ヨーロッパへ来るとは思わなかったし、

計画をたてての旅ではなく、行き当たりばったりのようなもの。

ラナスには当時毛皮工場があり、お洒落なショップのように、作業工程を見学できた。

カナダで編んだ、ビーバーのジャケットを着ていたから、作業員からも、何となく見られたりしていた。

街には、日当りの良い軒先で、ボビンレースをするおばさんもいたりした。

旅気分ではなく、日常生活のように、のんびりと過ごしていた。

時間がある旅は、お金を使わなくても優雅に贅沢な空間が持てます。

何を考え、どう時間を過ごしていたのか?

もう記憶に残っていないのですが、24歳の私は幸せでしたね。

続く


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1983年北欧の旅 ストックホルムの地下鉄

2018-07-23 07:54:34 | 

岩をくり抜いて出来たもの

アートな壁面

地下鉄の芸術と言われるように、最初に見た時は驚いた。

最近は雑誌等で、紹介されている記事を目にしたりもするが、当時は本当にびっくりした。

100ある駅の80に、130人の芸術家が関わったようです。

日本の行政に、もう少し美意識があったらと思います。


何処へ行くのに地下鉄に乗ったかは覚えてないけれど、日本では想像すら出来ない事でした。

北欧は家具や、インテリアのデザインなど洗練されているイメージがあるけれど、

生活にアートが密着しているのですね。

何だか、全ての駅に降りてみたかった、そんな思いです。

郵便局のマークも良いですね。


今のストックホルムが、どうなっているのか分かりませんが、

お船のユースは健在で人気あるようですし、日本のような変化は無いのでは?


この後、エジプトの旅でスエーデンの高齢者二人と出会いますが、

福祉が良いので、老後は旅三昧と言っていました。

長期滞在したくて、現地の日本人に聞いて見ましたが、

お給料なしでも、食材が高いので無理だと思うと言われました。

今思うと、私はスーパー家政婦のようなモノ、

もっと売り込んでいれば、私の人生も別モノでしたね。

続く

 

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1983年北欧の旅 ガムラスタン ストックホルム

2018-07-23 07:40:55 | 

ストックホルムは小さな島がたくさんあります。

その小さな島のひとつが、ガラムスタン旧市街地です。

石畳の細い道の周辺には、たくさんのお店もあり、時期的にもクリスマス。

毎日、歩いてアンティークの店に入ったり、日本人のアートなショップもありました。

歴史ある建造物も多いようですが、ガイドブックなど持っていない私は、

ただただ、気の向くままに歩いていました。

5日間も過ごしていたのだから、本当に楽しかったのですね。

ニットのお店も多かったですね。

編み機をおいて、実際に編んでいるオーナーさんもいました。

もう35年も前なのに、古さを感じません。

 

北欧家具で有名なイケアも、スエーデンが発祥です。

昔、ノンノの雑誌で憧れたIKEAの家具、カナダではアイ・ケアーと呼んでいました。

今では日本でもお馴染みですね。

続く

 

 


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1983年北欧の旅 アフ・チャップマン ストックホルム

2018-07-23 07:22:04 | 

湖上に浮かぶ、帆船のYH.アフ・チャップマン

1983年11月25日にハンブルクを発って、ストックホルムに着いたのは翌日の午前中と記憶します。

バンクーバーにいた頃、旅人の噂で聞いていた、お船のユースホステル。

詳しい事も調べずに、駅に着いて直行した。

今ならネットで簡単ですが、35年後を想像したでしょうか?


1888年に英国で最初に建造され、スェーデンにやってきたのは1915年。

そして1949年からユースホステルとして活躍している。

2006年に修理がされ、2008年に復活したようです。今でも愛され続けているのですね、すばらしい。


インターネットも、携帯も無い時代の旅です。

予約する事もなく、突然行きましたが、運良く泊まれました。

26日から30日まで5泊したと記載があるのですが、5泊もした記憶がありません。

船室のドミトリーに泊まったと思いますが、

連日、街をウロウロしていたので、船の中の様子はあまり覚えていません。

夢の中のような気持ちだったのでしょうね。

ストックホルムは美しい街でした。

北欧のベニスと呼ばれるようです。

夕暮れが早く、短い時は三時頃に暗くなるという。

それで、細かい手仕事を長い夜にするのですね。

ニットを見たくてやって来た北欧の街、ストックホルム。

どんな旅になるのでしょうか?

続く


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1983年北欧の旅

2018-07-22 22:29:43 | 

インドの旅を添削終えて、30年を経て、日本も猛暑となり、温帯から熱帯に以降するのでしょうか?

暑い中、雪姫鳥shop 箕面でご縁が繋がり、ありがとうございました。

次回は9月22・23日、手編みのミテーヌや靴下、見応えのあるモノを出しますので、是非。

そして今日から、暑さ凌ぎに北欧の旅を添削します。

 

1983年の11月、カナダからニューヨーク、

そしてアイスランドエアラインの格安チケットを利用して、ルクセンブルクへ飛びました。

ルクセンブルクのメルヘンのような丘を眺めながら、フリーのバスで、ドイツのデュッセルドルフへ。

そこから夜行列車に乗り、ハンブルクへ着いたのは早朝でした。

日本で知り合った、知人を訪ね、彼女のアパートに落ち着きました。

彼女は日本語を学ぶ学生で、私の友人宅にホームスティをしていたので、

一緒に京都へ旅したこともあり、バンクーバーから手紙を出していました。

あれから35年、今ならメールで簡単にやりとりできますね。

30年周期位で、世の中のシステムが変化するのかな?


ハンブルグからひと月位の予定で、ストックホルムまで電車の往復チケットを割引で買い

ストックホルムを目指して旅立ち、懐かしい風景を思い出します。

デンマークからは、海峡を越えるので、今は海底トンネルですが、

当時は船の中に、車も車両も入って、運ばれていました。

日本の青函連絡船のように、電車から降りて、船に乗船すると思っていた私は、

いつ降りるのかドキドキしながら待ちましたが、電車に乗ったまま、船の中へ入り驚きました。

写真があるので、電車の外へ出たようですが、あまり記憶がありません。


大好きなストックホルムやコペンハーゲンの思い出を、書いていきますね。

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1987年インド紀行 vol. 15 コルカタ

2018-07-21 20:00:19 | 

ポンディシェリからマドラス(チェンナイ)へはバスで移動したと思う。

マドラスは中継地点の感覚で、ここからカルカッタ(コルカタ)行きの列車に乗る。

宿は駅側の安ホテル、個室だったけれど、汚かった。

大きな駅でコルカタ行きは、一週間先も予約で席がなく、

外人専用の窓口に行き、翌日の席を確保。

マドラスには一泊だけだったが、海岸に沿った道路を歩き、熱かった記憶しかない。

インドで一番、暑さを体感した。

今の日本の猛暑と同じ、熱風が吹いていた。

コルカタには早朝に着いた。

街は混沌としていて、大きな公園もあり、ニューヨークと通じる感覚があった。

駅から市の中心まで、バスだったようにも思う、公園側で降りた。

宿はサルベーションアーミーのドミトリーに落ち着いた。

コルカタでも、特に何もなく、タイのバンコック行きのチケットを購入するだけでした。


コルカタは大都会でした。

安い航空券の看板を頼りに、何軒か尋ね、当時のラングーン泊のビーマン航空で、

バンコック行きのチケットを購入した。コルカタには3泊くらいしたかな?

街の路上で野菜の揚げ団子のような、コフタを売っていた。

美味しそうなので買って食べていると、日本女性の旅行者かカメラ記者が、

「写真撮ってもいいですか?」と、私とコフタ売りのおばさんを撮影する。そ

して、「お腹こわさないですか?」と聞かれた。

もう、この頃の私は逞しい旅人になっていて、無国籍人のような風貌だった。

何を食べても、平気な気がした。


公園の近くをブラブラしていたら、インド人から何かのチケットを渡された。

買わないよと言うと、あげると言う。

それは、インド舞踊の発表会のような舞台のチケットでした。

場所もすぐ側なので、入ってみる事にした。

インドの旅中、耳から離れない、あのインド音楽。

何処へ行っても流れていた。

最後にインド舞踊を見るとは、思いませんでしたが、子供達の踊る様子は、微笑ましかった。


1987年1月~6月にかけて、5ヶ月間のインドの旅でした。

最初は不安でした、ツレを誘ったのも、インド一人旅は無理だと思い込んでいたから。

行動すれば、何とかなるものですね。

この後、バンコックからバスでシンガポール、

飛行機でジャカルタを経てバリ島で2ヶ月、オーストラリアのパースへと、旅は続きました。

インドで何を学んだかと、一言では難しいですが、

「生へのパワーと命のはかなさ」かな。

インド紀行、お読み頂いて有難うございました。

 

 


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1987年インド紀行 vol. 14 ポンディシェリ

2018-07-21 19:37:32 | 

高原の避暑地、コダイカナルからバスで降りるとマドゥライは暑く感じた。

さっさと移動したかったけれど、有名なミーナークシー寺院だけは見学しようと、

中に入った記憶はあるが、ほとんど覚えていない。

何だかごちゃごちゃしていたのと、外の屋台で飲んだ何かが、異常に甘かったという思い出だけがある。

宿も一泊だけでしたが、以外と高く、リキシャーに何ヶ所か廻ってもらい、交渉したと思う。

そして、翌日はポンディシェリ行きのバスに乗った。


ポンディシェリはフランス領だったので、行く事にしました。

ビールも買えるという情報もあって、楽しみにしていた。

運良く、安ホテルだけれど、屋上の一室が借りれて、屋上で料理を楽しんだ。

市場が近くにあり、大好きなムール貝が安く売られていた。

もちろん、冷蔵庫などないから、その日の分だけ買って来る。

料理が出来たら、ビールを一本買って来る。

確かフランスパンもあったように思う。

ホテルの脇には雑木林があり、その向こうは海で、気持ち良い風が吹いてくる。

こんな毎日を3~4日過ごしていた。

街もブラブラして、とてもお洒落なショップを見つけた。

多分、オーロヴィルアシュラムが経営するショップだと思う。

ビーズを編んだタイで、現地の値段で3千円だったから、かなりの高額だけれど、

これだけのセンスと技術なら、とんでも無い安い値段でした。

この他にも2千円前後の物もあり、3~4本位販売していたので、

全部買っても良かったと、後から思いましたね。

他に何が売られていたのか、覚えていませんが、白人が対応していました。


エルナクラムも太陽燦々と、明るく楽しかったけれど、

ポンディシェリはビールもあり、大きな市場もあり、

お洒落なショップもあって、インドじゃないみたいでしたね。

ここから、マドラスを経てカルカッタ。

私のインドもカルカッタで終わりです。

続く

追記 明日、箕面市ミカリギャラリーの敷地内で、雪姫鳥shopをオープンしています。

   午前10時頃からいます。


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1987年インド紀行 vol. 13 コダイカナル

2018-07-21 07:30:37 | 

  

コモリン岬を早朝出発した。

指定席をとっていたがガラガラで、運転手さんに好きな席に座っていいよと、言われました。


マドライには有名な寺院があるけれど、ちょうどコダイカナル行きのバスがあり、

到着は遅くなっても、何とかなるだろうと、乗り継いだ。

案の定、着いた時には暗くなっていたが、

客引きに、自炊できて安くて滞在できる民家のような貸室はないか?と尋ね、

良い感じの家に案内され、聞くと日本人の利用が多いようでした。

家の半分が2部屋に別れて、貸室になっていた。

トイレも水も外だけれど、室内に炊事場があった。


コダイカナルはタミル語で“森の贈り物”という意味があるようです。

気候が一日に春、夏、秋と変化すると聞いていた。

中心には湖があり、周囲の別荘は小さな宮殿のようでした。

この頃で大型オーブンの電化製品が、売られていたり、ベンツだったかな、外車が往来していた。

イギリスに留学している子女達の避暑地にもなっていたようです。

チベット難民も多くいて、露天商をしていました。

市場には豊富な野菜と鮮やかな花が売られ、

毎日の買い物と散歩が日課になり、3週間位を過ごしたと思う。

こんなに洒落た家ではなかったけれど、雰囲気はこんな感じでした。

霧が多く、幻想的な神秘な世界だった。

今思うと、十津川村と似ていますね。

ネパールの暮らしが記憶に残り、十津川を気に入りましたが、

潜在的にこの、コダイカナルがあったのかもしれません。


コダイカナルには宣教師も多く、教会が経営するバザーや本屋さんもありました。

ここのインターナショナルスクールは歴史が古く、

1901年に全寮制の学校が設立され、グローバルな教育がされています。

これは、そのショップで購入したコースター。

地元で取れる大麻を糸にしたヘンプで作られている。

ボビンレースの技法と思えるが、技術のレベルがかなり高いですね。

私はこの地で、麻紐でバッグを編んだりしていた。

プシュカルで思いついた編地を、ここで完成させ、コダイカナルと名付けた。

このコースターもクロッシェでレプリカを作りたいと思い、

そのままになっていたけど、今が編むタイミングなのかもしれませんね。


1984年にはマザーテレサ女子大学も設立されています。

このような山奥の村でも、文化水準が高くグローバルな教育がされています。

世界中から人が来るので、十津川村もこうあってほしいと、願います。

直感力を養いAIを学ぶのに、過疎の地域は適していると感じます

続く

追記 今日と明日、箕面市のミカリギャラリー敷地内の雑貨屋 縁・小屋で

   雪姫鳥shopを11時から18時までオープンします。


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1987年インド紀行 vol.12 ケープコモリン

2018-07-21 07:07:21 | 

インド最南端の町カニャークマリにコモリン岬はある。

ベンガル湾、インド洋、アラビア海と三つの海が交わる場所、

インド人にとっても有名な観光名所。

コダイカナルへ向かう途中に立ち寄っただけの私は、何も知らずに、普通の宿に泊まった。

翌朝、ドアを叩く音や、何やら叫んでいる声、太鼓を鳴らしているよう、

何事か?火事か?とにかく外へ出る、パニックにはなっていない様子。

宿の主が何か言っているので、とにかく屋上へ出た。

夜明け前なのに、屋上にも海岸にも多くの人が出ていた。

日の出を見る為に、皆ここへ来ていると分かった。

太陽が海から昇り、海に沈む、唯一の場所と知られ、インド人にとっては巡礼地でもあった。

そんな訳で、私も有難く、朝陽を拝みました。

岬から、ちょっと離れた岩に浮かぶ寺院があり、ここも巡礼者が行く。

私もせっかくだからと行って見た。

インドの宗教家スワーミー・ヴィヴェーカーナンダーが、

1893年12月24日に、海を渡り、この岩で3日間瞑想した。

それで記念の岩となり、寺院になって、瞑想もできる場所もあった。

私はそこの、土産物売り場で、この写真を購入した。

私は、何故かこの写真に魅せられた。

彼女が誰なのか、知らなかった。

ただ、旅をしながら、時々、この写真を見ると、心が落ち着いた。

このインド紀行を書き始めて、初めて、彼女の事を知り、何故、私が魅せられたのか、

今なら分かるように思うので、不思議ですね。

彼女はサーラダー・デーヴィー、インドの宗教家、霊性指導者のラーマクリシュナのパートナーです。

ヴィヴェーカーナンダーがラーマクリシュナの弟子なので、彼女の写真が売られていたのです。

彼女は生涯をクリシュナの教えの為に捧げ、弟子達にも尽くしたようです。

誕生日が私と2日違い、何だか考えてしまいます。

そもそも、インドへ旅する人は、何かの教えを求めたり、

哲学的に考えたり、思想を深めたい人が多く、ビートルズもそうでした。

ツレもそうでしたが、私のように、ただ、何となくインドへ行ってしまった者にとっては、

インドの価値がわからなかったのかもしれない。

あれから、30年ツレと一緒に過ごし、個人的にも社会も様々な事がありましたが、

ツレの思想はいつしか私の思想になっています。


彼は、多くの宗教家や思想の本を読み、自分なりの哲学を持っています。

特定の宗教に拘りませんが、基本的には仏教心なのかと思います。

親鸞の教えだったり、岡倉天心の心だったり、

東洋的なマインドと、西洋的な技、和魂洋才のような信念を持っています。

落合陽一さんと共有できる文化が多いのも、似たような思考なので頷けます。

彼はコンセプトアーティストなので、何かを残す人ではないし、

それを職業にする気もありませんが、私は彼に何かを感じた、外人を何人も見て来ました。

ツレとの出会いは、深いえんだと今は思います。


インド紀行を書いたのも、今後の自分を知りたかったのかなと。

今年の末に還暦を迎え、変わるだろう私の生活は、編み物を通して、

時代の移り変わりや価値観を、文化を共有しながら共に考えて行きたい。

多様性や繋がる意味を、一緒に試行錯誤して行くのが、私の仕事のようです。

ケープコモリンへ行った意味を、今頃になって感じてますが、長くなりました。

読んで頂けたなら、感謝です。

またバスで、マドライに向かいます。

続く

追記 今日と明日、11時から18時まで、箕面市のミカリギャラリーと同じ敷地内

   雑貨 縁・小屋で雪姫鳥shopをオープンします。

   暑い時ですが、お出かけのついでにお立ち寄り頂ければ、嬉しいです。

   箕面駅から徒歩5分位で、カフェもあります。 


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1987年インド紀行 vol.11 ウーティからエルナクラム

2018-07-20 22:50:23 | 

OOTY 私はウッテイと呼んでいたが、ウーティと言うようです。

ムンバイから夜行バスだったように記憶しています。

バンガロールに着いて、その日にウーティ行きのバスに乗った。

この時の様子は、以前のブログ分け合うに書いています。

そもそも、何故ウーティに行ったかというと、

ネパールで知り合った旅人家族の奥さんのお勧め場所でした。

後に行くコダイカナルと、ウーティを目的に、私はインドの旅のルートを決めました。

その頃読んでいた、日本人が書いたインド滞在紀も、ウーティがお勧めでした。


軽井沢が好きでしたから、何となく想像できました。

インドなら他に遺跡や名所旧跡もたくさんあったけれど、

私は場の雰囲気を味わうのが好きなので、ウーティを楽しみにしていた。

安宿が見つからなかったのと、イメージとは違っていたのが、正直な印象でしたが、

チベット人との交流が何よりの思い出となりました。

天候も良くなかったと記憶するので、屋内で楽しめる場が見つけられなかった。

ウーティから高原列車に乗った。

テーマパークにあるような、窓の無い車両で、遠足の子ども達と乗り合わせ、楽しかった。

どこかの駅で、乗り変えたように思うが、行き先は海辺の町、コーチンのエルナクラムでした。


どうやって安宿を探したのか?

庭があり、雰囲気の良い個室を借りて、プシュカル以来の自炊をした。

エルナクラムはインドらしくないお洒落な雰囲気でした。

街には西洋風のマーケットもあり、電化製品など、普通に売られていた。

さっそく、ケロシンストーブ用のオイルを買いに行くと、

チケットがいると言われたが、旅行者だし、何とかごまかして少し売って頂いた。

気候も良いので、水シャワーは温水になり、何だかインドも悪くないなと良い気分。

人の気分は、天気で変わるものですね。

南インドにはスナックも多く、屋台のローティはとっても美味しかった。

お皿は使わず、バナナの葉を代用していた。


この街の忘れない思い出は、結婚式に遭遇した事。

人だかりで何かのイベントかと思い覗きこんだら、カメラを向けられ、インタビューを受けた。

花婿、花嫁に祝福の言葉を贈り、ウーティから来たと言うと、新婚旅行で行くと言っていた

ライトを向けられ、ビデオに撮られたけど、中でごちそうを頂いた。

とても食べきれないほど、種類が多い。

スイーツも数え切れないほどあった。

次から次へと、バナナの皿の上にバケツ中の料理をよそってくれた。

振舞うのが結婚式なのか、誰でも食べれるようでした。

インドは結婚式を挙げた事が、結婚の証のようでした。

5日間は過ごしたと思う、楽しかったエルナクラムを後に、バスで南端のケープコモリンへ行く。

続く


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1987年インド紀行 vol. 10 ゴア

2018-07-20 21:57:25 | 

1987年4月の初旬だったと思う、

ゴアのパナジに着いて、バスでアンジュナビーチに向かった。

ここは、有名なフリークスの集まる聖地。

さぞや、ユニークな人達に出会えるかと期待したけど、シーズンも終わり、人もまばらでした。

ビーチ近くに宿泊し、ちょっとノンビリした気分。

フリーマーケットやパーテイの情報も入ったけれど、あんまり気乗りしなくて、3日位でパナジに戻った。

この頃から、トランス音楽は流れていたのかな?

 

インドのビザは、前年の8月に日本でとっていた。

6ヶ月以内に入国して、3ヶ月の滞在ビザなので、延長しなくてはならない。

パナジで申請すると一週間かかると言われた。

そんなにかかるの?とびっくりしたが、4日目くらいには出来ていたと思う。

こんな事なら、ビーチに行く前に申請すれば良かったと。


街をウロウロすると、教会が多く、ヨーロッパのような雰囲気があった。

魚カレーも美味しく、インドのイメージとは違って、ヨーロッパの雰囲気も。

ポルトガル領だった頃、ゴアとリスボンは航路があり、往来も盛んだったという。

知り合ったインド人も、親戚がポルトガルにいると言っていた。

ゴアの教会群と修道院群が、ユネスコの文化遺産に登録されたのは、1986年。

この頃すでに、世界遺産になっていたのに、全く気がつきませんでした。

パナジの役所にポスターなどなかったように思うし、宿の人からも、何も聞かなかったように記憶する。

世界遺産と騒いでいるのは日本だけなのか?

それとも当時は、そんなに関心がなかったのだろうか?

日本の拝金主義も凄いと感じる。

続く



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1987年インド紀行 vol. 9 ムンバイ

2018-07-20 14:51:25 | 

インド門が象徴のムンバイ、昔はボンベイと呼んでいた。

インドの4大都市、デリー、カルカッタ、マドラス、そしてボンベイ。


早朝、海辺の道路をバスは南下していた。

私の目に飛び込んできたのは、左手に広がるバラック。

貧しい人が多いインドだが、これほど同じ区域に集まっている光景は見た事なかった。

そして更に驚かされたのは、その区域が過ぎるとテニスコートが存在し、ジョギングする白人もいた。

ボンベイは混沌とした都会でした。

ムンバイのタージマハルホテル、宿泊しなくても、ロビーに行き、レストルームを使わせて頂いた。

やはり日本人、貧乏旅行者でも、汚い格好でないなら何も言われない。

格調高い、趣のあるホテルだが、2008年の同時多発テロの舞台になった。

何時何処で、何が起きるか分からないものです。


ムンバイもサルベーションアーミーを、利用した。

ドミトリーで、ダニがいると噂があったけれど、2泊したように思う。

ムンバイの街もウロウロしたけれど、あまり記憶がない。

3月も終わりに近づき、しだいに暑くなり、歩いても疲れるので、ビーチのあるゴアに移動する。

続く


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1987年インド紀行 vol. 8 プネー

2018-07-20 09:23:29 | 

当時はプーナと呼ばれ、思想家バグワン・シュリ・ラジネーシのアシュラムがあった場所で、

1986年は本人が滞在し、世界中から、彼の思想に共鳴する人が集まっていた。

現在はオショウ・コミューンに成っているようです。


ラジネーシに興味があったのではないが、ツレの薦めもあり、

道を求めるという事が、何なのか、そう人達に興味がありました。


1982年、当時バンクーバーのユースホステルで、ボランテァをしていた頃、

オレゴン州にあったラジネーシのアシュラムを目指して、家出した日本の若者に合った。

青年は有名大学を卒業、一流企業に就職、全ては親の引いた路線で生きていた。

青年はバグワンの本を読み、書置きだけ残して、家出したと言う。

その頃、ラジネーシの信者はオレンジの服を着て、写真をペンダントにして首からさげていた。

その後、青年がどういう人生を歩んだかは、存じませんが、

日本でも、かなり多くの人がラジネーシから影響を受けていたと思う。

オウム真理教は、この組織を模倣したとも言われているが、

武装する教団はおかしい、オウムを政府が真似ているよう。


グルジェフ、クリシュナムルティ、ラジネーシなど、

神秘思想家と呼ばれているが、人は誰もが導いてくれる指導者を求める。

私達はそういう人をグルと呼んでいるが、私にとってのグルはツレでした。

彼も思想家で、常に生きるとは、人間とは何かを考えていた。


プネーの駅から、アシュラムまではリキシャーを利用しないと、歩ける距離ではなかった。

アシュラムでは、ヨガや様々なクラスがあり、時代の繁栄か、日本人が多かった。

どうみても、豊かに育った若者達に見えた。

とにかく、この目でラジネーシ本人を見るまでは、滞在しようと思い、

講話のある日まで、5日間位、高いのを我慢して、近くの安ホテルに滞在した。

聞くと、マンションや貸家を数万円で借りて、長期滞在する人もいた。

私にはこのアシュラムが、現実感のない理想の社会で、

それは幻想のような、夢の中にいるような、そんな顔の人が多かったと感じた。

入信している人が多いようだが、私のように信者でなくても、規定の金額を支払えば施設に入れた。


ラジネーシは匂いを嫌うと言い、講話の前に、入り口でスタッフが匂い検査をする。

とても大柄の人でした、深い眼差しと、彫りの深い顔。

講話は英語なので、ほとんど理解できなかった(事前に本も読んでないから)。

ただ、私はじっと彼を見て、彼のオーラを感じようとしていた。

真実を知りたかったら、ここから離れなさいと言っているようでした。


講話が終わると、泣き出す人や、笑い出す人もいました。

私は、ひとつの信仰に向かって、徒党を組むような体質に向いていないと、つくづく感じました。

人生の答えは、誰もだしてはくれない。

自分で捜し、見つけ、答えは、自分で出すしかないと思いました。

それは、早いとか遅いとかではなく、人それぞれにタイミングがあると思う。

何て悟ったつもりに、なっていただけですが。

この時から30年、自分も求道者のような人生になりました。


プネーからは、夜行バスでボンベイに向かいます。

続く


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1987年インド紀行 vol. 7 ウダイプル

2018-07-20 07:02:38 | 

ひと月以上も過ごしたプシュカルを離れたのは、3月を過ぎていたと思う。

バグアン・ラジニーシのアシュラムのある、プーナを目指し、途中にある、ウダイプルに寄った。

ここの湖上に浮かぶレイクホテルは、映画007の舞台にもなり、美しく有名でした。


客引きに案内された、小ぎれいな安ホテルには、日本人も多かったと記憶している。

近くに広大なボタニカルガーデンがあり、その種類の多さに驚いた記憶があります。

湖上ホテルへは、観光船のような船で往復し、ドリンク料金も含まれ紅茶とクッキーをロビーで頂きました。

シーズンオフなのか、人も少なかった。


ここで、私は忘れられない体験をしました。

戻るまで時間もあり、そんなにウロウロするほどの興味も無かったので、ロビーでのんびりしていた。

すると、外国人が新聞を読みながら、座っていた。

ボーイがグラスビールを運んで来た。外国人は口をつけずに立ち去った。

どれ位の時間がたったであろう?周囲には誰もいなかった。

私は、無性にビールが飲みたかった。

そして、何気なくそのソファに座り、新聞を読むふりをした。

そして、新聞で隠れるように、ビールを飲んだ。

美味しかった、中サイズの洒落たグラス一杯のビール。

もし誰かに聞かれたら、エクスキューズミーと言って、

とっても喉が渇いていたので、という事に決めていたけれど、誰もその場には来なかった。

まるで、私がビールをオーダーして、飲んでいるかのようで、後から来た人は、気に留める様子もなかった。


帰りの船の時間になり、パレスを後にした。

この一杯のビールがなければ、ウダイプルは、それほど記憶には残っていなかったと思う。

エジプトでも、高級ホテルのロビーに座っていても、自然に溶け込んでいた。

日本人だからと他国の人に言われたけど、時代も変わり、今はどう思われているのだろうか?

続く

 


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1987年インド紀行 vol. 6 プシュカル その2

2018-07-20 06:41:53 | 

プシュカルでの生活は、毎日が新鮮で楽しかった。

アンドレは超ベジタリアンで、シルクは身につけないし、ドラゴンの模様の紙さえも、使用しない。

寺院内の敷地に、野菜まで作っていた。

井戸から水をくみ上げるのに、自家発電機を使っていたり、

ソーラーでクッキングの出来る用具を作ってみたり、意欲のあるカナダ人でした。

今頃、どこで何をしているだろうか?日本の原発事故を、どう思っているのだろうか?


ツレは窓を開くと下に湖のあるホテルの個室を借りて、優雅に過ごしていた。

小さな街なので、ご近所さんみたいな感覚でした。 

シャワーやトイレは共同だから、高くはないので、人気のあるホテルのようでした。

時々、尋ねては、シャワーを無断借用したりもしました。

体調も少しずつ回復し、マサラドーサぐらいなら食べれるようになった。

鉄板でクレープのように、生地を焼き、中にジャガイモのカレー煮みたいなものを挟んで巻きます。

三角にして、揚げたのがサモサですね。ランチに良く食べました。


人間というのは、不思議な生き物です。

あんなに不安だったインドが、もう楽しくて、楽しくて。

それは何とか生活を立て直し、無我夢中で、なりふり構わず、生きているライブ感ですね。

ツレの事など、どうでもよくなったのですね。

心配したり、不安になる余裕などなく、体調を治す事に懸命でした。

生きがいのある仕事があって生活できれば、幸せを感じるのと同じです。


ムラのチャイ屋には、毎日のように行っていた。

顔見知りも出来、ジャパニと呼ばれていて、野菜も頂いたりした。

コミュニュティに入ったのではないけれど、同じ空間に住んでいる親しみが、孤独を癒してくれた。


お寺の屋上には、孔雀が散歩して、朝もの凄い声で鳴いたり、別世界でした。

唯一、猿が怖かった。しっぽの長いマントヒヒのような猿に狙われていました。

入り口で鍵を開けようとして、持っていた大根を下に置いた瞬間、見事に持っていかれました。

私が出ようとすると、数十匹の猿が周囲から、私を見ています。

怖くて、一歩も進めなくなりました。

大声を出すと、寺の主が猿を追い払ってくれ、私に棒を持たせてくれた。

棒を振り回して見せると、近づいては来ません。

いろいろと、学習しましたね。


ターリーというカレーの定食のような、メニューがあります。

ツレとの最後の晩餐は、ホテルのガーデンレストランの、ターリーでした。

私はまだカレーが食べれないので、チャパティを少し頂くだけでしたが、

このターリーが食べれるようになったら、プシュカルを出ようと決めていました。


ツレと再会するのは、4ヶ月後のバリ島でした。

そして、私は体調が戻ると、アンドレに、使用していた物を渡し、ウダイプルに向かった。

続く


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