雪姫鳥の独り語

雪姫鳥の山暮らし、日常に感じる事。
雪姫鳥のニットの紹介、旅した国の回想。
食べ物や子育て、雪姫鳥のエコライフ。

1987年インド紀行 vol. 5 プシュカル

2018-07-20 06:21:16 | 












小さな湖、プシュカル湖の周辺を囲むように、町がある。

プシュカルは聖地でもあり、11月は巡礼者やラクダフェアの為、溢れるような人になる

私はこのプシュカルで、2月から3月にかけて、1ヶ月以上も過ごした。

それは、携帯もパソコンも無いこの時代に、導かれるような出会いから、始まりました。


数日間は安ホテルで、過ごしていた。

長逗留するには、もっと良い場所を捜そうと思ってもあては無かった。

体力は落ちていても、気力はあったので、街をウロウロしていました。

当時は湖周辺も静かで、一軒のお気に入りのチャイ屋があった。

ちゃんとした店ではなく、近くの農家の若者が、自作の小屋で商売をしていた。

ムラという青年が片言の英語が話せるので、旅人や地元の人も、よく集まっていました。


散歩途中で、顔を合わせたカナダ人も居ました。

アンドレはプシュカルが大好きで、カナダとプシュカルを往来している完璧な、ベジタリアン。

プシュカルはピュアーベジタリアンの街でも有名でした。

彼に私の事情を話すと、ついておいでと、すぐ近くのお寺のように広い場所へ案内した。

巡礼者の宿のような場所で、その屋上に一室があった。

彼が使っていたのだけれど、同じ屋上の反対側にある、もっと広い部屋に移ったので、

気に入れば、ここを借りれると、私に言いました。

神の助けかと思いましたね。

コンクリートの何も無い部屋は、6畳より広かったかな?

寺の主にあいさつし、一ヶ月借りる事にした、値段は覚えてないが、かなり安かったと思う。


さっそく、カーペットや電球、部屋鍵、下の井戸から水を汲むので水がめなど、生活に必要な物を揃えた。

シャワーは無かったので、最初のホテルに頼み、少々のお金で借りられた。

用を足すのは、インド人同様、水を持って、近くの空き地で問題はない。

有難い事に、プシュカルには蓮根やオクラなど、野菜が豊富でした。

アタという全粒粉でチャパティを作り、ニンニクや玉ねぎを胡麻油で炒め、

野菜たっぷりのスープを作って、自炊生活を始めました。

続く


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1987年インド紀行 vol. 4 ジャイプール

2018-07-19 09:24:59 | 

ラジャスタン州の州都でもある、ジャィプルはピンクシテイとも呼ばれ活気がありました。

カラフルな絹や綿の織り布が溢れていて、私にはインドのイメージぴったりの街。


ツアーバスが着いたのは、広いホテルのガーデンでした。

ちょっと優雅にカフェでも行こうというツレに逆らい、私は近くのドミトリーに落ち着いた。

彼は貧乏貴族のような感覚があり、贅沢はしないのだけれど、ゆったりした感覚が好き。

私はどちらかと言うと、のんびりが苦手でした。

せかせかしても状況は同じなら、少しでも優雅に、、、今ならそうしますね。


プシュカルに早く行きたい気持ちはあるが、身体がどうにも動かない。

数日間、ジャィプルで休んでから、移動する事にした。

かなり、衰弱していたので、ツレが見かねて、安ホテルの個室を捜してくれた。

彼は旅慣れているので、部屋捜しは得意で、交渉も上手い。


シャワーやトイレは共同だけれど、屋上の一室が空いていた。

ジャィプルの街中で、便利な場所にあった。

そして、私はとうとうベットから起き上がれなくなった。

痛いとか苦しいのではなく、体力が低下して、衰弱していたのだろう。

餓死というのは、ああいう状態で、食べる物がないまま、静かに眠るように死んで行くのだろう。

普通に歩いたり、身体を起こすには、筋力が弱り、体力がないと自分ではできません。

私の体重は55k前後でしたが、ネパールのトレッキングで、2~3kは落ちていたと思う。

それが二週間足らずで、おそらく40k以下に減ったと思う。

正確に量ってはいませんが、元気になって、バンコックの体重計に乗った時、40kでしたから。


ツレが野菜を調達して、スープを作ってくれた。

彼の世話には意地でもなるかと、強気でいたけれど、食事療法しかなかった。

今、考えると病院にいけば、簡単でした。

旅行保険などかけていませんでしたが、先進国ではないので、それほど高額でもなかったでしょう。

その頃の私は、彼の思考に近づく事が、自分の今後に繋がると、賭けのような感覚もあり、

マクロビオッテックを実践していた彼に習い、菜食に近い食事で、旅をしていました。

信仰のようなものもあり、死への恐怖はなく、食事で治す思いが、強かったのだと思う。

インドは菜食の国なので、野菜は豊富にあるが、どんな野菜でもカレーにする。

塩だけの野菜スープは、胃に優しかった。

トイレに直行する事も無く、回復は、思ったより早かった。


ツレは数週間は、動けないと思ったそうだが、数日で動けるようになった。

相変わらず、口論は続いていたけれど、それだけ元気で、気力もあるという事でした。

マハラジャの宮殿だった、パレスも見学し、回復祝いにアクセサリーや布地の買い物も出来て、

最後の晩餐はチャイニーズを、食べました。

そして、アジメールにバスで行き、プシュカル行きに乗り換え、

バスが着くと、彼はじゃあね、と言って去って行きました。

プシュカル、ここから、私のインドが始まります。

続く


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1987年インド紀行 vol. 3 タージ・マハル

2018-07-19 08:58:19 | 

1983年に世界文化遺産に登録された、タージ・マハル。

王が王妃の死を悼んで建設した、大理石の霊廊。


バナラシの駅までは、リキシャーで行った。

身体はかなり疲れていた、こういう時はつい誰かを頼りたくなる。

ツレに切符の手配を頼み、列車の中も外も、人に溢れていた。

人の多さは中国で慣れていても、外人専用のシートではなく、インド人同様に席を確保する。

彼に荷物を見ておいてと、言われたにもかかわらず、出発前のどさくさで、小袋を盗まれてしまった。

大きなリュックには注意していたが、脇に置いた小さな布袋が、気づかない間に持って行かれた。

中には醤油と味噌が、入っていた。貴重な品だったが、仕方ない。

彼には叱られたけれど、ぼーっとしていて注意力が散漫になっていた。

一人旅なら緊張もするが、誰かいると、つい他人任せになってしまう。

盗んだ人は、何だこれと思ったろう、私にとってはお宝だったけど、、、


アーグラーの駅から、タージ・マハルの近くのホテルへどう行ったか記憶にない。

彼の後をついていったので、自分自身の意思で行動していなかった。

今思うと、思考停止状態。他人任せで点しか見えていない。

観光地なのと2泊位だから、普通の安いホテルだったと思う。

翌日はタージ・マハルの中を見学したけれど、これもあまり記憶がない。

ただ、周囲に何もなく、広々とした場所にある建造物という印象と、正面からの美しさは、確かに覚えていた。

近くの街でも、少しウロウロしたけれど、体力の低下で、気分は沈んでいた。


ツレは楽天家だけれど、私は心配性で、体調の事やこれからの事を考えると不安でたまらなかった。

病気は強くなれるチャンスと言い、彼は私に厳しかった。

哲学も思想も持っていない私は、インドで初めて死生観のような事を考えさせられた。

だいだい、私が彼の旅費を出しているのに、何で助けてくれないのか?

何でインドに来たのか?これからどうなるのだろうか?不安でそんな事ばかり考えていた。

 

アーグラーからジャイプールまでは、ツアーバスで行った。

路線バスよりは楽だった。ジャイプールはピンクシティと呼ばれ、街全体にピンクの建物が多い。

目的地のプシュカルは、ここからバスで、アジメールへ行きそこから、プシュカル行きに乗り換える。

このジャイプールで、私はとうとうダウンしてしまった。

続く

 


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1987年インド紀行 vol. 2 バラナシ

2018-07-19 06:57:54 | 

ヒンズー教の聖地バラナシ、以前はベナレスと呼んでいました。

このガンジス川のほとりに、マニカルニカー・ガードと呼ばれる火葬場があり、

ここで焼かれるのがヒンズー教徒にとっては、輪廻から解脱する最高の喜びのようです。

貧しい者は、薪が買えないので、お金のある人と、一緒に焼かれると聞きました。

巡礼者も多く、沐浴する姿は日常にあり、その水を持って帰る人もいると言う。

焼かれた死体や灰は、そのまま、ガンジス川に流される。生と死が混沌としてる街です。


街は迷路のようで、日本語の矢印をそのまま辿り、安宿を見つけました。

屋上の個室が空いていて、日当りも良く、やっと落ち着いた。

それでも、お腹すいて、食べると、超特急のように、すぐ下す。

できるだけ刺激のない食事をと思うが、ここはインド、カレーや香辛料の無い食べ物などありえない。

しばらくすると、それが当たり前のように、食べたら用を足す感覚に慣れてきたが、体力は落ちた。

シャワーを浴びる度に、どんどん瘠せていくのが分かる。

まあ、いいかと開き直るだけ、元気になっていた。


バナラシは意外と楽しかった。

ずっとネパールにいたので、何だか都会に来たようで、人の多さも心地良かった。

相変わらず、下痢は治まらないけれど、さあ、これからどうしようと、思案していた頃、

ガンガーに移って4~5日くらいだろうか、ツレに再会した。

別れて間もないのに、朝のガンガーで彼を見つけた時、何だか懐かしかった。

それより、何より、自炊道具と味噌、醤油が欲しかった。

ネパールのカトマンズには、ナチュラルフードストアがあり、そこで味噌や醤油が買えた。

スエーデン製のケロシンストーブのコピー商品が、カトマンズで売られていて、

多分、インド製だったと思うが、重宝しました。

その後、日本でキャンプ用に購入し、

ネパールで買ったケロシンストーブは帰国するまで愛用し、1989年にネパールへ行った時、売りました。


静養するなら静かな場所がいいと、アドバイスを受け、ツレとプシュカルまで、同行することにした。

口論するのは、目に見えていたけれど、このままずっとバナラシで過ごすのも、疲れる。

常に喧噪の中にいるようで、元気なら良いけれど、確かに田舎のほうが良いかもしれない。

そして、電車でタージマハルのあるアーグラーに向かった。

続く


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1987年インド紀行 vol. 1 インドの洗礼

2018-07-18 21:43:27 | 

今年は、私とツレの事がTV朝日ポツンと一軒家に出たり、

平成最後の暑い夏が、インドを思い出させ、旅の記憶を今の心境で、書き換えます。

 

1986年8月末に神戸を鑑真で発ち上海へ、中国、チベットを経てネパール、

慣れない二人旅に、初めてのアジア。カルチャーショックを感じる余裕もなく、ツレとの関係に疲れていた。

翌年の御来光を、トレッキングの途中のプーンヒルで仰ぎ、もう、二人旅には限界を感じていた。

27歳の私は、将来に不安を感じていても、結婚対象になる人も居なかった。

経済的に自立して居ても、自分が何なのか、分からなかった。

今でいう、意識高い系の女子は少なく、東京に居た友人も結婚で故郷に帰って行く。

その頃、国分寺にあったほら貝で、ツレと出会い、インドへ誘ったのは私でした。

彼の旅費100万円を用意し、彼と世界を旅しようとひらめいた。

今、考えると、現実逃避だったのかもと思う。

彼となら一人旅より安く、経験した事の無い世界が見えるような気がした。

それは、私の直感のようなモノだったと思う。


旅の途中で28歳になり、ツレとは口論が耐えなかった。

全てが違うと言ってもいいほど、思考が異なっていた。

一般常識では考えられない、価値観や文化がツレにはあった。

それを求めていても、自分の我に振り回されていた。

ただ、食に関してマクロビは理にかなっていて、ツレの経験や知識は新鮮でした。


1月の中旬、パートナーが先に発ち、私は2~3日送れて、ネパールのポカラを発った。

目指すは聖地ベナレス、長距離バスに乗り、陸路で向かった。

国境の町、スノウリに一泊した。バス代に宿代も含まれていたように思う。

日没には時間が早いので、ブラブラしながら、食堂らしき所で、茶を飲んだ。

チャイではなく、ただの紅茶でしたが、この紅茶が変でした。

飲むのをやめれば良かったのに、喉が渇いていたし、生水ではないので、油断した。

その日の夜から、腹具合が変になり、下痢が始まりました。

腹痛はありませんでしたが、飲食をすると、もう我慢ができません。


翌日はベナレスまで、直行。お腹は空くし、喉は渇くし、気分は最悪。

親切な白人からは、話しかけられ、おまけに、食べ物を差し出される。

もう、一人になりたいと思い、事情をはっきりと伝えた。

バスに揺られたからか、胃にまだ残っていたのか、バスが止まる度に用を足す。

幸い、長いワンピースを着ていたので、インド人同様、外でしても問題なかった。


バスがベナレスに着いたのは、夜になっていた。

宿も決まっていないので、サルベーションアーミー(救世軍)の宿に行く事にした。

安宿からすれば高いが、ホテルよりは安いし、安心できる。

バスが止まると同時にやってきた客引きに、その宿に連れて行ってもらう。

ドミトリーにベッドを取り、とにかく寝た。

数時間すると、寒気がきた、エジプトでも経験があるので、焦りはなかった。

スタッフに余分に毛布を借りた、個室に同じ料金で良いと勧められたけれど、断った。

動くのが辛いので、寝れば大丈夫だし、経験があるというのは、心強い。

朝になると、熱は収まったが、体力がかなり落ちていた。

何か食べないとと、街へ出て、食事をした。すると、もう我慢できない、また下痢になる。

治まるまで、飲まず喰わずでいなくてはいけないのか?

味噌・醤油・自炊道具はツレにやってしまったが、彼はまだベナレスにいるはず。

とにかく、ガンガーに移動しなければと、3日目に気力で動いた。


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湯の山温泉

2018-04-30 09:46:45 | 

旅の最終日

早朝から走ると、大きな鳥居をくぐる

愛知から岐阜を通過して

湯の山温泉に向かう

以前は自分の所在地が分からないと

不安になって、それが

パニック障害のように

何となく方向性だけでも

不思議と大丈夫な自分に驚く

湯の山温泉は寅さんの映画のロケ地

かなり昔だから、その形跡は無かったけど

箕面の滝散策のような雰囲気

旅館やホテルも小規模で

登山者に人気があるのか

早朝から歩く人を見かけた

少しひなびた感じもあるけれど

何だか郷愁を感じる

ところが、高架道路を建設中

この道路が湯の山温泉に直結するようだ

道路下には巨大なリゾート施設

アクアイグニス

お洒落な建築で温泉もある

道路下の景観が何とも言えないけど

湯の山温泉とこの片倉温泉

和と洋のコントラストが面白い

ベーカリーも日本人向け

大きなイチゴのハウスもある

田園地帯がアメリカナイズされた

商業地帯になるより

癒しの空間の方がマシかなと思った

国道25号の亀山に向かい

いつもの帰路で十津川に戻ると

気温が30度

春夏秋冬が一日で感じるような気温差

10日間の仕事旅

半分車中泊も楽しく

体力、精神力、気力も安定し

何よりMacBookを持ったことで

個人と繋がるユニットビジネスが

私でも可能となり

今後の10年が楽しみになった

今年のゴールデンウィーク

今日と5月4・5・6と道の駅の出店予定

皆さまも良い休日を

 


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合掌造り 白川郷と五箇山

2018-04-29 20:58:40 | 

白川郷は描いたイメージと違っていた

第二駐車場の近くはのどかな雰囲気だけど

メインの入り口は観光地化され

大型バスに中国人

何だか集落に入らず

写真も撮らずに、五箇山に向かった

五箇山には相倉集落と菅沼地区の

二つに合掌造りが世界遺産

久しぶりにカメラを何度も押した

人も少なく、タイムトリップしたよう

私は古い農家で育ち

高校卒業まで茅葺き屋根で過ごした

懐かしい想いと

古い因習が重なり

子供時代の記憶が次々と蘇った

過去があるから今がある

人は誰もが陰なモノを抱えている

古き良さに新しい未来があると

改めて自分に声かけた

 


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荘川桜

2018-04-29 20:17:04 | 

 先週の日曜日に十津川へ帰り

今日、明日は道の駅で出店

観光地巡りして、立場が逆に

高山からR156で白川郷に向かう途中

荘川桜に出会う

景色も何となく和から洋に

何だかカナダのレイクのようだけど

ダムに沈んだ村に出来た、人造湖

水没する荘川村のお寺の庭にあった桜を

事業主が何とか残せないかとの思いから

移植して、今に至っている

久しぶりにお洒落な景色に出会えた

多くの犠牲の元に今があるけど

今の経済重視より

心ある事業かと思う

進化したテクノロジーなら

自然の力を持続可能なエネルギーに

変えることは可能だろう

未だ原発の終結を先送りする政治に

未来は無い

 


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旅の途中 飛騨高山

2018-04-20 19:51:27 | 

安曇野で身体のメンテンスして

松本からR158で高山へ

立山連峰の頂は雪

中央アルプスの落葉樹に感動

杉檜と違い、スケールの大きさを感じる

サスペンスドラマ好きな私には

飛騨高山はTVで見慣れた景色だけれど

初高山の町並みは

外人さんが多く、小京都の街並みも

何処かで見たようにも思う

明日は初白川郷

郡上八幡も行こうかと思案中

昨日のトレランの下見の白馬も

行く先々で桜に出迎えられて

花酔い気分です





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旅の途中

2018-04-19 12:02:36 | 

美麻で休養し

染めのsolosoloさんと仕事

デザイナーのまいかさんと

新しい商品企画

アイデアがどんどん出て来て

私の得意分野を引き出してくれる

パートナーは染め作家

料理人を経ての染め

ご縁が深そうで驚くことばかり

美麻は桜が五部咲き

標高1000mは軽井沢と同じ

信州の春は和みます

何だか還暦は第二の青春のよう

季節は春から夏へ


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ひとり旅の復活

2018-04-17 08:56:17 | 

今日は曇り

琵琶湖経由で北上し

初の琵琶湖に感動するも

気持ちの向上は無い

何処かと似ていると、別の感覚がある

幹線道路は企画された量販店

ここは何処の世界?

春日井市でご縁をつなぎ

慣れたR19を北上

木曽付近は桜が満開で

レンギョウや木蓮も重なり花街道

ゆっくり考える時間もあり

旅の復活のような気分

鈍行列車の旅に始まり

世界中を飛行機で

長距離バスや列車も体験し

今は車中泊の一人旅

パソコン持ってコンビニ入り

カフェしながら、情報収集と発信

デジタル化時代の手仕事は

情緒ある貴重な生業

玄米おむすびを持ち歩き

気温差にも対応できる

スーパーな体力に感謝

30代の苦行がようやく身となる

旅は学習するツールのよう



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今年はバモスで出かけよう

2018-01-20 18:04:07 | 

5時を過ぎても、薄っすら明るいのは嬉しい

今朝は霜が降りていたけれど、

何だか春の匂いがした

年末に愛車となった VAMOS

スペイン語のバモスはやって来るという意味

英語だと COME ON

中古車だけど10年以上は乗れるし、20万k以上乗りたい

長野に行くならと、四駆を勧めてくれて、捜してくれた

2台続けてお世話に成る、榊本モータースに感謝

荷物を整理すれば、どこでも寝れるし

ゆっくり走れば、燃費もまあまあ

今年はこれで行動範囲を増やしたい

銀座で個展出来るくらいの、技術はあるけれど

お金持ちの趣味や、金儲けの道具にされたくない

とは言え、生活もあるので、どこまで自分でやれるやら

クライアントも増えてきたので、流れに任せよう

青春切符で電車旅も良いけれど

寝泊り自由だし、お湯も沸かせるし、充電も出きる

長旅なら玄米おにぎりと、味噌と梅干しは欠かせない

珈琲はコンビニで良いし、焼き鳥もたまには楽しい

ノートパソコンを買えば、準備完了

19歳で一人旅に出た私の、節約旅

駅で寝たことも、ヒッチハイクも楽しかった

今年はバモスで寅さん気分

 

 


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信州の桜

2017-04-28 09:23:52 | 

毎年、特別なお花見はしなくても

山暮らしなので、桜は楽しめるけれど

今年は例年より咲くのが遅く

晴れの日も少なく、雨で散ってしまった

松本から名古屋への道中

塩尻から高遠を経て、R153で南下

高遠の桜は満開

吉野の縮小版のような桜の饗宴

 

何だか極楽気分だけど

ちょっと人工的

 

桜があるだけで、絵なります

十津川の山より

杉・檜が少なく

R19より、車も商業施設も少ない

高速道路も速くて便利だけど

時間が自由な事は

何と贅沢かと実感

 

 

 


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秋月

2014-05-04 17:02:22 | 

黒田長政のお墓のある秋月

1979年の5月に、九州を一回り旅しました

お世話になった人を訪ねて福岡に行き、連れて行って頂いたのが

小京都と言われる秋月

昨夜、BSの寅さんを見ていたら、秋月が舞台になっていた

昔ながらの風情で

何だか、寅さんの映画のシーンのようと、当時思った

映画は81年の上映なので、同じ感性が嬉しかった

黒門や眼鏡橋

古い校舎は、今どうなっているのかな?

歴史など知らない私は、黒田長政って誰?でしたが

今年の大河を見て、やっと繋がり、何だか嬉しかった

私の息子は、明日から大河のロケ

山中を走るシーンのよう

もう、35年も前に旅した秋月

もう一度訪れたいと思う


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バックパッカーズ 松本の宿

2013-10-26 11:29:54 | 

松本の展示から、はや二週間

宿泊は、松本城近くのゲストハウス

古民家を利用した、シェアーハウスのような宿

展示でも、非日常的な毎日でしたが

夜は、第二幕が始まったような、そんな毎日でした

海外からの個人旅行者、日本の旅人

山小屋でバイトしていた山ガールや、これから縦走に向かう女子

世界一周を楽しみに働いている、旅ガール

日本の女子も逞しくなったと、何だか昔が懐かしかった

久しぶりに英語を使ったけれど、意外と通じた

たぶん、感性が近いので、言葉ははっきり理解できなくても

何となく言っている事が分るので、お互い会話が続いた

カナダ英語と指摘され、より嬉しかった

新幹線も自由に乗れる、JRのフリーパスを利用して

松本から名古屋、熊野古道へ向かう、山好きが多かった

最近は、朝食付きで四千円代のビジネスホテルもあるようだけど

旅に出会いや、人生の転機を求める人は

ゲストハウスの旅が楽しいですね

何だか先輩気分で、旅の記憶が蘇りました

皆さん、旅は学習です

これからも、良い旅をエンジョイして下さいね

 


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