論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
逹巷黨人曰、大哉孔子。博學而無所成名。子聞之、謂門弟子曰、吾何執。執御乎、執射乎。吾執御矣。
《翻訳》
達巷〔たっこう〕の党人〔とうじん〕 曰〔い〕わく、大〔だい〕なるかな孔子〔こうし〕。博学〔はくがく〕にして名を成す所 無し。子、之〔これ〕を聞きて、門弟子〔もんていし〕に謂〔い〕いて曰〔のたま〕わく、吾〔われ〕 何〔なに〕をか執〔と〕らん。御〔ぎょ〕を執らんか、射〔しゃ〕を執らんか。吾は御を執らん。
《現代語訳》
〈あるお弟子さんがまた、次のように仰られました。〉
達巷の党人が、次のように話しておられました。
なんと立派なお方だろうか、孔先生は。広く学を修められてはおるが、名を馳せるほどの一芸を得てはいないのだからな、と。
この話を聞いた孔先生は、お弟子さんたちに対して、次のように仰られました。
〈その党人は、この乱れた世にあって、〉この私が政務に携わり、いかにして一芸をもって名を馳せろというのだろうか。
〈それでもあえて政務に携わるとすれば、それほど罪深くはない、〉馬術の達人として名を馳せようか。〈それとも、弓矢で敵を射殺して、〉射の達人として名を馳せようか。
〈いやいや、やはり〉私は、〈罪深くはない、〉馬術の達人として名を馳せたいものだな、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句を語訳するにあたっては、魯国を離れ、民に仁徳を広めるための旅をしている孔子への、党人からの皮肉ともとれるような発言に対する、孔子が述べたことばとして語訳してみました。
ちなみに一芸とは六芸〔りくげい〕の中のひとつのことで、礼(礼式・礼法)・楽(楽経)・射(弓術)・御(馬術)・書(書経)・数(算術)の中からいずれか一つを極めることを、『一芸を達する』といい、党人はこのことをもって孔子に対して、「六芸、いずれにおいても名を馳せるに至らず、どれも中途半端ではないのか。それでいて弟子を多勢従えて、仁徳を広めるなどとは、なんとご立派なお人よの」という皮肉だったのだと思われます。
なお、孔子の場合は、礼・楽・書・数の芸には長けていたと考えられますし、さらに君主への忠誠心をもって大司冠という大任をまかされ、魯国の政務に携わることができたのでした。ところが、それでも魯国の乱れを救うことができないことを悟った孔子は、やがて野に下ることになります。この語句は、そんな孔子の苦悩の旅の思い出ばなしとして、弟子たちが語り合っているのでしょうね。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考