~過去、多くの"極悪人"と呼ばれてきた人と自分自身なんてものは、さほど大きな差などない~
わたしは自身のブログでも、多くの方々に対してその人格を否定するようなことを申し上げてきましたね。まずもって謹んでお詫びせねばなりません。
じっくり考えてみますと、極悪人だろうと聖人・賢人だろうと同じ人間であります。
共に人の子として生まれ、共にこの大地の恵みに育まれてきました。天や地には人間に対しての区別などありません。極悪人だろうと聖人・賢人であろうとも何も変わらないのです。
これは知識豊かな人だろうと、わたしのような学のないものだろうと天や地は平等であるというふうにも考えられます。
元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は、このようなことを仰られています。
「地球全体の規模でいえば、人のもつ知識というものはほんのわずかなものです。ほんのわずかな知識を補うためには感性を養うことが大切なのです。」と。
さらに氏は、地球上すべてを知る、ということをひとつの円にした場合、実際に知られていることというのは、その欠片ほどもない、という旨も述べられていました。
まさにその通りだと思いました。そしてよくよく考えます。はたして、そんな欠片ほどもない知識の違いだけで人々を区別するようなことがあっていいのでありましょうか、と。
たしかにこうした違いは、人類の歴史になにかしら大きな影響力を及ぼすことになるというのは事実であります。それは宗教・科学による文明発達、戦争・革命による文明衰退といった歴史を人類は何度も何度も繰り返してきました。おそらく人類は、この先何百年何千年もこうした流れをぐるぐると辿ることになるでしょう。人は2500年も前の孔子・キリスト・釈迦の教えというものに回帰してみたり、また時にはルソーやマルクスの教えに回帰してみたり、またヒトラーや始皇帝に回帰するような動きも見受けられたりもします。
結局人類はそうした流れのなかでぐるぐる回り続け、宗教や科学を発達させ、そしてそれを破壊し否定するだけなのです。
わが国の現状からいえば、戦後の物質的豊かさのなかでこころの有り様というものは軽視されてきました。それは政治家や財界人による不正を招くことになり、庶民のなかからは凶悪犯が続出します。(一部在日外国人の仕業だという人もいてるでしょうが)戦後70年のうちわたしが生きた40年のあいだだけでも相当数の不正政治家、凶悪犯というものが世間を賑わせてきました。近頃では舛添元都知事や野々村元市議、相模原でおきた大量殺人の実行犯であります。
わたしはこうした不正政治家や凶悪犯の人格を否定してしまいましたが、ではわたし自身はどうなのか、ということであります。おそらく一歩誤れば、この者たちとおなじ境遇に立たされていたのかも知れません。いまはこうして多くの方々ともお話ができたりお食事ができたりもしますが、5年先10年先のことなどわかる由もありません。
以前、武田鉄也氏が演じたシーンで「お前に人権なんてない!」という動画をご紹介したことがあります。それは無差別に多くの人命を奪った犯人に対して氏のセリフだったわけでありますが、まさにその通りだと思いました。無差別だろうとなんだろうと人の生命を奪うことなど決してあってはなりませんからね。そして多くの庶民はそうならないために必死で日々日常を暮らしています。
ですが、この無差別に多くの人命を奪った犯人が、生まれもった使命感のようなもので事件を犯してしまったのでしょうか。もしそうだとすればその人格は否定されなければならないでしょう。ですがなにかしらきっかけ(動機)があったからこそ、犯してはならない罪を犯してしまったわけであります。おそらく相模原の大量殺人実行犯もそうでありましょう。その動機というものが気になるところではありますが、それは本人のみが知ることであります。
その本人のみが知る動機を、知識人たちがあれこれ詮索しその人格を否定するのです。なかには薬物だの、精神疾患だのいう知識人もいました。そんなものが本当に動機に繋がっていくのでありましょうか。
罪は罪として、重い刑で処罰されなければならないのは至極当然のことであります。そしてその動機を深く探り再びこのような悲劇が起こらないようにしなければなりません。ところがその犯人の人格を否定すようなことばかりであります。
さらには障害者に対する差別意識、そんなものは健常者ならば誰もがその胸に秘めていることであります。病気になりたくない、普通に歩きたい、普通に働きたい、普通に恋愛がしたい、と。ですがなにかしら障害をもって生まれてこられた方々もいます。そして事故や有事で障害をもつことになってしまった方々もいます。そうした方々に対する支援は大切であるなんてことをいちいち言われなくて、多くの庶民の胸の内にあることもまた確かなことです。
また、お年寄りを大切にしなければならない、女性を大切にしなければならない、そんなことは当たり前の話しであり、いちいち言われなくて多くの庶民の胸の内にはあります。
日本の経済、それは労働者なくしては成り立ちません。また経済そのものは慈善活動だけでは成り立ちません。お金が回ってはじめて経済は成り立つからであります。経済そのものを否定してしまえば国家そのものが崩壊してしまいます。国家が崩壊してしまえば福祉もくそもありません。いずれが良いのかは分かりませんが、わたしたちは日本に生まれ、その多くが日本人としてその生涯を終えます。たとえ健常者であっても不幸な人生を歩まなければならない人は世界の中には多く存在するわけでありますから、ですからこの日本に生まれただけでも幸せなことでありましょう。
ですがその日本を否定し、そうした庶民の胸の内にあるものをわざわざに声にし、そこに労働者を差し向けビジネス化してしまったことに大きな問題がある、そんなふうに感じてなりません。
わたしはこれまで社会人となってからも、なにかしら知りませんが「福祉の充実」「高齢者にやさしい社会」「差別をなくそう」と謂う政治家や個人に対して違和感を覚えてきました。その後も建設会社で働くようになりますと老人ホームが至るところで建設されるようになりました。なかには医療法人が施主でないものもあり、『ん?この老人ホームの親会社は何の仕事しとんやろ?』とそんなふうに感じたこともありました。ですが時は高齢化社会、少子化問題、失業者の削減などなど問題が山積み状態であり、その対策に追われあの手この手と政府や自治体は躍起になっていましたから、それ以上あまり深く考えないようにしました。
当時、多くの国民もそうした問題が山積した社会のなか、自身の暮らしを守るため必死だったでしょうから、深く考えることもなかったでありましょう。
話しがまたとんでもないほうへ向かいそうになりましたが、結局なにが言いたいのかといいますと、凶悪犯や不正政治家を生み出したのは、なにも考えてこなかった己自身であるということであります。面識もなく、その存在すら知らない者が犯した罪をなぜ自身のせいにするのか、でありますが、この国は名目上〈民主主義〉であります。それを多くの国民が容認しています。〈民主〉とは国民が主体となることを意味します。ですから政治・経済・教育・防衛あらゆるところに国民がその責任を負う義務があるというのがそもそもの〈民主主義〉であります。それに反して〈社会主義〉は国家そのものが責任を負うシステムでありますから、国民はなにも考えず国家の言いなりになっていれば良いのであります。
簡単にいいますと、国民が主体=民主主義であり、国家が主体=社会主義であります。
そのどちらが良いのかは知りませんが、ですがたしかにこの国は〈民主主義〉を掲げているのです。自治体にしろ、選挙で国民に選ばれた人が首長となります。これも〈民主主義〉であります。民主主義を掲げる国家の国民であるならば、いかなる立場であろうとも問題を深く考えねばなりません。それが日本人としての最大の義務であります。そして考えないことは非国民としての立場を明らかにせねばありません。ですから「選挙にいかない人には何かしら処罰を課せないといけない」という人もいますが、わたしはそういう意見に対しては賛成であります。
『だったらそこまで考え、投票に参加しているんだからお前の責任なんてないよ』と、わたしの中のもうひとりの自分がそんなふうに問いかけてきます。たしかに深く考え投票にまで参加しているのですから、なにも自分を責める必要もないでありましょう。しかし結果世の中でなにが起きているのか、であります。
拉致された被害者も救えず、そして竹島や北方領土さえも取り戻すことができず、尖閣に支那公船が大量に迫ってきているというのに何も行動を起こせず、親殺しや子殺しも無くならない、なにも変わることがないのが実状でありましょう。そしてそんなことを横目にバラエティーやワイドショーといった娯楽に目がくらみ何も考えようともしない、そもそもそうした非国民すらも自分のなかで容認してきたわけでありますから、そんな自分を責めることに何の問題がありましょうか。
そして日の丸、君が代は日本の象徴であります。皇室を敬うことは日本国民としては当然のことであります。そして日本の伝統や文化・ふる里や家族を愛することも日本国民ならば当然のことでありましょう。このように己自身を"真の日本国民"という位置づけで捉えるならば、〈なぜ取り戻すことができないのか〉〈なぜ無くならないのか〉〈なぜ改善・改正されないのか〉をさらにさらに深く考えなけれなりません。そして考えることの土台にあるもの、それこそは、"深い反省"によって成立するのであります。
わたしは学者でもなければ、知識人でもありません。ですから『こうすれば良いんでは』とかいう案を世間様に述べるつもりはありません。ですが真の日本国民として、これまでを深く反省(自虐史観ではなく自虐思観)する人々が増え、またそうした感性(馬渕睦夫氏が仰られた)を活かし、わが国の政治・経済・教育・防衛などに反映させていく必要があるということだけは述べたいと思います。
これまで他者を否定している己自身にも邪のこころが芽生えていたわけであります。それは和のこころを取り戻したいと願う気持ちとは矛盾したものになりますからね。(わたしがもし矛盾したようなことをブログで発したならば、そのときは遠慮なく御指摘いただければ幸いであります。)
個々人の反省や懺悔の大切さを説いてこられた、孔子やキリストや釈迦の教えというのは、本当に本当に有難いものですね。
御免・・・
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