改めて思うことではありますが、いくら考えたところで何も結果は得られず、それどころか、さらに新たな"謎"が湧き出てきます。
率直な話し、「実に楽しい」
「誰かが言ったからではなく、自分で考える」、そうわたしに諭してくださったある御人のお言葉というものが、自分にとって本当に有難いものだったことを知りました。
いくら考えようともその答えなどはなく、むしろもっと有意義な時を過ごせばそれで良いのかも知れませんが、そのような人生をこれまで30年以上も経験してまいりましたからね。もう飽き飽きしております。
いま現在の自分というものにも、そのうち飽きがくるのでありましょうが、考えれば考えるほどに新しい"謎"が湧き出てくるわけでありますから、日々、新鮮な気持ちを抱かせていただくことにも繋がっているともいえます。ですから「楽しい」と思えるわけであります。
『結局のところは、「和のこころ」なんだろ?』と、もうひとりの自分というものが問いてきますが、『当ったり前やんけ!』なんですよね。
そうした軸になるものがあるからこそ、人は考え続けるのだと思います。そして、これまで多くの思想家や哲学者たちというのは、自分が考えた理想の世界をみることもなくこの世を去っています。もし生きているあいだに理想の世界を実現したいのであれば、世の独裁者ともなれば良いだけの話しでありますし、またお山の大将的な存在になれるよう努力すれば良いだけの話しであります。
ところが、日本の仏教界においては過去、「私くしこそが一番正しいのだ」なんてことをいう人はありませんでした。それは聖徳太子だけではなく、空海(真言宗)・最澄(天台宗)・法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)・道元(曹洞宗)・栄西(臨済宗)・日蓮(日蓮宗)・一篇(時宗)といった八大開祖といわれる人たちがまさにそうであります。例外としましては、御釈迦さんが仰られました『天上天下唯我独尊』といわれものがありますが、過去の日本仏教ではあまり語られることはなかったのでないだろうかと思われます。
そして2600年以上にも続く皇室においてでもそうでありますね。「朕こそが一番正しいのだ」なんて仰られた天皇というのは過去おあせられなかったはずであります。それは天皇も国(臣)民も共に同じであることを意味します。
そして、論語の孔子もそうでありました。
こうした仏教・神道・儒教の考え方というのは、永い時を経て『日本のこころ』『和のこころ』というものを成熟させてきたのだと解釈しております。
わたしは、そこに何の分け隔てもなく物事を考えていければなぁと考えています。どこのお寺でもお参りさせていただき、そしてどこの神社へでも参拝させていただきます。さらには古く支那人の思想にも感銘を抱く所存であります。
まさに「自由人」だと自負しております。
社会のためだとか、日本経済のためだとか、そんなことは金銭で買われた知識人共が考えれば良いだけのことであります。
そしてそんな知識人ごときに振り回されることもなく、自分自身で深く考え、そして自分本意のままに生きていければいいな~、なんて想う今日このごろです。"奴隷"はまっぴら御免でありますからね。
御免・・・
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