和貴の『 以 和 為 貴 』

炎が静かに消える・・・(再投稿)


 
(2014年09月02日投稿)


戦後六十九年が経過し、戦争を知る日本人が年々少なくなってきました。さすがに老化の衰えには勝てず、戦後の吾が國の発展を支えてきた人々の炎が、静かに消えていくのはなんとも寂しい限りであります。

戦争に敗れた結果、戦前教育を受けてこられた方々は日本人としてのプライドをズタズタにされ、永く沈黙の途に閉ざされていましたが、近年の日本人の質の低下、秩序の崩壊などを見るかぎり、やはり戦前教育は間違っていなかったと強く感じるのであります。
 
確かに戦前に比べれば現在の吾が國は豊かであります。食べるものに困らず、寝床に困らず、着るものに困らず、世界の國々と比較してもその差は歴然でありますが、こうした豊かさの根本を作り上げたのが戦前教育を受けてこられた人々のお陰であるということをきちんと理解しなければなりません。


戦後まもなく吾が國は米國主導の下、憲法改正及び教育改革を徹底的に施されることになりました。新しい國のカタチ、そして新しい日本人を創出するためです。學校では「新しい日本人」を創出するため日教組による戦後教育が着々と施されてきたのです。
  
「新しい日本人」とは、元来日本人が最も恐れた自己中心的(個人主義)な人間であります。

そうした日本社会の変革を横目に見ながらも、焼土と化した日本を蘇らせるために、戦前教育を受けてこられた方々は黙々と働いてこられたのです。


そして現在、米國が創出した「新しい日本人」である団塊世代の人々が中心となり、新しい國のカタチが形成されようとしているのです。私は丁度、団塊世代の子供世代にあたるわけでありますが・・・。

子供が親に説教するなんて何事か!と言われるのかも知れませんが、戦後を生きぬいてきた人々が命懸けで築いてきた日本的民主主義体制をいとも容易く破壊し、社会主義や共産主義へ貶めようとするは人の行為とはとても思えません。

國家國民のため、我々子孫のために必死に働いてきた人たちを敬ずして日本に未来はないと感じてなりません。


はっきりといいますが、貴方方団塊世代がいくら日本を良くしたい、世界を良くしたいと思っても、それは叶わないどころか、余計に世は乱れ國は乱れます。貴方方が今やらなければならないことは、きちんとした反省であります。己自身を顧みること、そしてその先にあるのが貴方方の両親や祖父母に対する感謝へと繋がっていきます。
それを否定したならば今後貴方方は、次の世代にゴミ同然の扱いをうけ、日本の歴史に不名誉な世代として後世に語り継がれることになるかもしれません。


 
 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 
◇以下、私のGREE日記より・・・

 
小さな食堂に入った私は、相席となった御歳八十六歳のお爺さんと色々お話しすることが出来た。  

そのお爺さんは、戦前に廣島県内の海軍基地に所属し整備兵だった。そして回天特攻隊員たちを見送ったそうだ。
  
私はお爺さんに訪ねた。

「俺ごとき若造がこんなことを聞くのもなんですが、お爺さんから見て今の現代人に足りないものは何ですかね?」

『戦争中にも善い悪いはあったけど、やはり教育ですね。特に現代の若い人には修身教育をもっとよく學んでほしい。』

「教育勅語ですね。」

『教育勅語知っとるんかね?』

「はい。まだまだ奥深くまでは知りませんが・・・。」

『戦争に負けて、儂らの受けた教育は失敗だったと謂われ続けてきとったが・・・、親を大切にし、家族を大切にし、友を大切にする・・・。そんな当たり前のことが出来んようになってしまった現代の若い人たちにも、修身教育の中身をもっとよく知ってほしい・・・。偉そうに言うて悪いんやけどな・・・。』

「有難う御座います。もうあと何年もすればこの國から戦争を体験された人はいなくなりますからね。だから今のうちに色々話を聞いておきたいと思いまして・・・。」


そのあとお爺さんと一緒に教育勅語を朗読してみた。
お爺さんは何十年ぶりだったらしく、所々忘れがちだったが、なんとか最後まで朗読することが出来、満面の笑顔だった。そんな名も知らぬお爺さんの想いは、言葉にこそしなかったが、何となく私の胸に響いたように感じた。



そしてお爺さんは、先に亡くなられた奥さんが眠るという、
お墓にお参りするため、小さな食堂を、静かに出て行かれた・・・。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇


このお爺さんとの出会いというのは、なんと言っていいやら、言葉に言い表せないものがありました。

そんなお爺さんの想いというものを、これまで無我夢中で追い求めてきました。

多くの戦友を失い、結果として国は敗れ、あの戦争に一体なんの意味があったというのでしょうか。結論としていえば、そこに尽きるわけであります。

そして、この記事を投稿してから2年が経ちました。

敗戦してなお、国は守られることにはなりましたが、失ったものを取り戻すことというのは、残念ながら不可能と認識せざるを得ないな、と実感しました。



あのお爺さんの後ろ姿に、最後の日本を見た想いであります・・・(悔しいですが)



わたしはこれから先も、反日日本人として生きていくことになりますが、どうせあと○十年後には、この世には存在していませんからね。

それまで、の~んびり過ごしてまいりますねヽ(´▽`)/






↓↓モチベーション維持にご協力お願い致します。m(_ _)m

コメント一覧

ゆぅすけです。
onecat01さん、こんにちは!
いえいえ、気分を害するなど、勿体ないことであります。とても貴重なご意見だと、重く受け止めております。

さて、国體の本義を引用してしまいますが、
『抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて・・・』
と、このように明記されておりますように、"個人主義"といわれるものは、西欧思想の(自由権や幸福権など)の考えを本とするものである、と解釈しております。翻りまして、"利己主義"とは、人間が生きていくためにはどうしても必要とする権利(衣・食・住)を追求する考え方であると解釈しております。

ですが、これまで深く考えてこなかった部分もありますので、わたしの過去の記事では、個人主義と利己主義の使い方の濫用がありましたことは事実であります。

この場をお借りしまして、お詫びいたします。


長渕剛氏がこのような歌を歌われていました1990年ごろ、まさにこの頃にいまのような保守的な波が国民のあいだで沸き起こっていれば、現在の北朝鮮問題や尖閣問題、皇室典範を含む憲法改正などの論議ももう少し違っていたのかもしれません。

ですが、ほとんど多くの国民は、こうした言論に否定的でありました。

こうした流れのなかで、現在の自分自身の立ち位置というものを考えたならば、やはり現代日本人からすれば、わたしのような復古主義者(実は温故知新派なのですが)は、反日でありましょう。

1990年ごろのわたしといえば、まさに自分の自由権や幸福権ばかりを追求し、明けても暮れてもそればかりでありました。
このような者がどんな悲惨な事に巻き込まれようとも、それは自業自得であります。
そのような者たちのことまで、心おおらかにいれるはずもありませんからね、所詮は人間なのですから・・・。

ですが、無邪気に遊ぶこどもたちを見ていると、そんな気持ちもすっ飛ぶのではあります。

人を殺すこともできない、ましてや人を騙すことすらもできない、そんな自分であります。

戦争を体験されてこられた人々も同じだったはずでありましょう。殺したくもないものを殺し、憎みたくもないものを憎み、そんな心の葛藤というものは、わたし如きがそう易々と理解できるはずもありませんが、少しでも理解したいという想いからこれまで励んでまいった次第であります。

ゼロか100しかない自分自身ではありますが、これからは世の中の情勢に揺さぶられることもなく、心穏やかに日々を過ごしてまいりたいと思います。

本当に有難うございました。
onecat01
言葉は大切に使いましょう
ゆうすけさん。

 貴方の今回のブログを、悲しい気持ちで読みました。

 自分のことしか考えない、身勝手な人間のことは、個人主義者とは言いません。個人主義者と言いますのは、自分を大切にすると同時に、相手の人格も尊重し大切にする人間のことを言います。
 貴方が言われているように、戦後に増えた自分勝手な人間は、「個人主義者」でなく、「利己主義者」あるいは「エゴイスト」と言います。自己中心的で、周りを無視する利己主義者と個人主義者を、一緒に語ってはいけないと思います。

 さて、貴方のように、国を大切にする人間が、どうして「反日日本人」となるのでしょう。「反日」とは、自分の生まれた国を憎み、故郷や親やご先祖様を足蹴にするような人間なのです。

 国を愛するあまり、時の政府に反抗する人間は、反日では無く、「憂国の士」なのです。

 また団塊世代が、戦後の日本を作ったと思われているようですが、彼らは一つの要素でしかありません。敗戦後の教育を受けて育ち、日本の歴史や文化への敬意を失っているだけの世代なのです。
戦後の日本を形成するのに、大きな力を発揮した歯車だったと思いますが、団塊世代を、実態以上に評価してはならないと思います。

 日頃の真摯な貴方と、今回のブログは落差がありました。貴方の中にあるものは、まだこれから、大きく変化していくのかも知れません。

 長淵さんの歌を初めて聞きましたが、私は彼を愛国者とは思いませんでした。「日本よ、アメリカに溶けてくれるな。」と叫んでいる彼の姿が、アメリカに溶けてしまった歌いぶりであり、服装であり、違和感がありました。

 もし本当に日本人の魂を歌うのなら、民謡や演歌をアレンジして、日本らしく歌えば良いのでないかと、残念な気がしました。

 沢山批評を致しましたので、気分を損ねられるのかもしれません。どうでも良い、そこいらの瘋癲ブログなら、このようなコメントは入れません。真面目で、一途な貴方に惹かされ、ついつい余計な口出しをいたしました。
ご容赦ください。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「雑記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2024年
2023年
人気記事