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和貴の『 以 和 為 貴 』

【新札の顔】 渋沢栄一? それとも聖徳太子? それとも…? ①


【新札の顔】 渋沢栄一? それとも聖徳太子? それとも…? 


2021/03/02  PRESIDENT Online

鵜飼 秀徳 浄土宗僧侶/ジャーナリスト

【 記事中から一部抜粋 】「1万円札の顔」は2024年に現在の福澤諭吉(1835~1901)から「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一(1840~1931)に代わる。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は、「社会が疑心暗鬼になって差別が生まれるなどの歪みが生じているコロナ禍では、1984年まで流通した旧1万円札の聖徳太子(574~622)が打ち立てた理念や哲学こそ再評価されるべき」という――。



          
鵜飼氏は、現役バリバリの僧侶さんで、私と同世代だということで、少し気になり記事を読んでみた。タイトルには、『渋沢栄一じゃない』とはあるが、これは、3年後の2024年度から一万円札の顔が、現在の福沢諭吉から渋沢栄一に変更することに対する鵜飼氏の、「それは違うのではないか」という思いである。


渋沢栄一といえば、著書『論語と算盤』が有名であり、近代日本における資本主義経済の父ともいうべき大人物である。しかし、私は渋沢栄一という人物のことをあまりよく知らないし、『論語と算盤』すら読んだこともないわけだから、とやかく述べるつもりもない。


         
渋沢栄一(ウィキペディアより)


さて、シナの古い書物である『論語』は私にとってはバイブル(聖なる書物)のひとつ、といっていいほどであるから、当然、渋沢栄一が次の一万円札の顔になることに対しては何の違和感もない。しかし鵜飼氏は、『じゃない』と断言するのである。


で、記事をさらに読み進めていくと、聖徳太子の紹介に入っていく。つまり鵜飼氏は次の一万円札の顔は、『聖徳太子』が相応しいというのだ。


          


鵜飼氏も私も、聖徳太子が一万円札の顔だった頃に生まれ、幼いながらにしては共に聖徳太子への親しみの念はあったと思われる。特に鵜飼氏の場合は、実家がお寺ということもあって、私なんかよりもさらに親しみを感じていられよう。

さらに鵜飼氏は、聖徳太子の功績を紹介され、日本各地の『太子』と名の付く名刹なんかも紹介されていて、とても為になる。


ところで、僭越ではあるが、私も鵜飼氏と同様、現在の腐敗した日本社会を救う道は、日本人の原点回帰だとも思うわけであるが、しかし、それを現代の日本人が容易に受け入れられるとは到底思えないわけで、ここはワンクッション置くつもりで、明治の偉人・渋沢栄一でも良いのではなかろうか、とも思えてくるのである。

鵜飼氏に反論するわけではないが、『論語と算盤』は読まなくとも、渋沢栄一の心奥底にも聖徳太子の、『和を以て貴しとなす』の精神は遺されていたであろうし、なによりも、聖徳太子の十七条憲法の条文の作成にあたっては、孔子の、論語の名句が採用されていたことも指摘しておきたい。(ご存じだっら堪忍…。)


聖徳太子は、十七条憲法を作成する過程にあたり、臣下の、公務の遂行を妨げるいくつもの人心の中の邪心部分について、その解決策に相当に苦慮されていたと想像することができ、条文の随所には、太子の長年の苦悩…、それがそのまま書き加えられている。
(青文字は飛ばしてくれてよい。)


例えば、十七条憲法第15条には、「およそ人、私あれば必ず恨みあり。憾みあれば必ず同〔ととのお〕らず。同らざれば則ち私を以て公を防ぐ。」(※1)とあり、現代語訳してみると、「およそ人は、私心が有れば必ず恨みの感情が生まれる。気持ちに迷いが生じれば必ず心が穏やかではなくなる。このような感情に囚われた私心では公務遂行の妨げともなり得る。」と。

また、十七条憲法第4条には、「上 礼なきときは下ととのわず。下 礼なければ以て必ず罪あり。 」(※1)とあり、現代語訳してみると、「上が真心なきときは下の秩序が乱れ、下が真心なければ道理・道徳に反してしまう。 」と。

十七条憲法第1条には、「またさとれる者少なし。ここを以て、あるいは君父にしたがわず、また隣里に違う。」(※1)とあり、現代語訳してみると、「しかし、その道理や真理を心得ている者は少ない。その結果、父母を敬うことができず、自然を大切にすることもできない。 」と。

十七条憲法第14条には、「嫉妬の患い、その極りを知らず。ゆえに、智おのれに勝るときは則ち悦ばず、才おのれに優るときは則ち嫉妬む。」(※1)とあり、現代語訳すると、「嫉妬に侵されし心は、その限度を知らぬ。ゆえに、我れより知識の勝れている人あらば喜ばず。我れより才能の優れた人あらば嫉妬する。  」と。(これら以外の条文にも、太子が苦悩されたであろう痕跡が綴られているわけだが、長くなるので割愛する。)


以上のように、太子自身が苦慮されていた内容の条文ではあるが、時を千年以上も遡って、孔子やそのお弟子さんらは、会話の中で次のように述べられている。


『論語』学而第一の冒頭から孔子が仰られる。

人 知らずして慍〔うら〕みず、亦〔また〕 君子ならずや。 」(※2)
「人が自分の存在を認めてくれなくても、怨むことなく、自ら為すべきことを努めてやまない人は、なんと立派な人物ではないか。」と。

すると有子(=お弟子さん)が、孔子のいう "君子" について考えを申した。

「其の人と為りや、孝弟にして上を犯すを好むの者は鮮〔すく〕なし。上を犯すを好まずして乱〔らん〕を作〔な〕すを好む者は未だ之れ有らざるなり。 」(※2)
「その人柄が、家にあっては親に孝行を尽くし、兄や姉に従順であるような者で、長上に逆らう者は少ない。長上に好んで逆らわない者で、世の中を乱すことを好むような者は少ない。 」と。

続けて有子が申す。

「君子は本を務む、本 立ちて道 生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か。 」(※2)
「何事でも、まず本を務めることが大事であります。本が立てば、進むべき道は自〔おのず〕から開けるものです。したがって孝弟は仁徳を成し遂げる本でありましょうか。」と。

また、孔子は仰られた。

「巧言令色、鮮なし仁。 」(※2)
「ことさらに言葉を飾り、顔色をよくする者は、仁の心が乏しいものだよ。」と。

それに対して曾子(=お弟子さん)が申す。

「吾 日に我が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交りて信ならざるか、習わざるかを伝〔つた〕うるか 。」(※2)
「私は毎日、自分をたびたび省〔かえり〕みて、よくないことは省〔はぶ〕いています。人のためを思って真心からやったか、友達と交わって嘘いつわりはなかったか、まだ習得しないことを人に教えるようなことはなかったか。 」と。


以上、これら以外にも、論語には太子が抱えていた苦悩というものを、説き明かしてくれる名句はいくつもあり、おそらくだが、太子は日本古来から続く神道のみに限らず、大陸より伝わった佛教をも限定せず、孔子の論語も深く熟知されていたことは明らかだ、といってよいのではないか。

このことからも、聖徳太子が制定された十七条憲法の条文には、の要素がたっぷりと盛り込まれていることは、のちの世の、石田梅岩や二宮尊徳などの多くも伝えているわけで、明治期の近代化された日本であっても、渋沢栄一はじめ、多くの名のある偉人たちは、『和を以て貴しとなす』の精神を引き継いでいたということは、否定しようもない事実だといえる。


勤めて私心の草をくさぎり 米麦を培養するが如く
工夫を用ひ 仁義礼智の徳性を養い育つ可し

二宮尊徳 夜話一三三



つづく・・・


(※1)四天王寺編「聖徳太子と四天王寺」の訳文より 
(※2)伊與田學氏の「論語 一日一言」より

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