斉の王子・墊(てん)に、"士の道"について尋ねられた孟子は、こう答えられた。
「志を尚(たこ)うす」と。
「高尚な志をもつことだ」と。
"高尚な志とは"と、さらに尋ねられた孟子は、こう答えられた。
「仁義のみ。一(ひとり)にても罪なきを殺すは、仁に非(あら)ず。其の有にあらずして之を取るは、義に非ず。居 悪(いず)くにか有る、仁 是れなり。路 悪くにか有る、義 是れなり」と。
『孟子』(尽心上篇)より
「仁義に徹することだ。たった一人でも罪のない人間を殺したら、そこに仁はない。自分の所有物でないものを奪い取るのは義ではない。自分の拠って立つ信念は何かといえば、それは仁である。進むべき道はどこかといえば、それは義である」と。
さらに孟子は、「生を舎(す)て義を取らん。〈中略〉故に患(うれえ)も辟(さ)けざる所 有るなり」と。
『孟子』(告子上篇)より
「〔命と義のどちらかを選ばないとするならば〕私は生を捨てて義を取る。よって、死を憂える思いが避けられないのだ」と。
このように、古代支那においての「士」というものは、実に崇高な志を以てその任を全うすることが求められており、まさにそれは死をも覚悟し、仁義に徹して政(まつりごと)に取り組まなければならないことを意味していた。
そして中世のわが国では、石田梅岩という人が孟子の教えを踏まえてこのように仰られている。「武士たる者は、このこと〔前述文〕をじっくりと吟味すべきである。だが世の中には、武芸に励むだけが武士の道、と心得違いしている者も多い。真の志がない輩は、士の中に入れるべきではない」と、武士としての心構えについて厳しく論じておられるのだが、当時の武士たちもそのことを重々承知しており、その後も武士道として、世界に誇れる精神文化を築き上げていくことになる。
さらに梅岩は武士だけでなく、商人にも通ずる道として、崇高な志を以てその職を全うさせていかなければならないと考え、『都鄙問答』『倹約斉家論』の著書を遺し、さらには、「自分の本心を見つめ、人間性を磨く修養学」としての石門心学思想を生み出し、後世現在に至るまでのわが国における経営学などに深く影響を与えることとなった。
なんといっても石門心学の思想の根幹は「この世のすべての生命体の本性は善」とする"性善説"である。つまりは、人間に限らず天理・道理に従い生きるもの全てが善というのであるから、まさに日本古来の神道にも通ずる考え方だと筆者は感じている。というよりも、孔子や孟子の儒教を古代日本的なものと融合させていったものとも考えられ、さらにはお経を読んだり禅をくむことで自戒するという意味においては、やはり同じ性善説として佛教にも通ずるものがあったといえる。
結局のところ人間というのは他の生命体とは違い、「生きるために最低限与えられた権利」とする"利己"意識というものが、高度な文明になればなるほど行き過ぎた方向へと陥りやすい。しかし、行き過ぎた利己意識を戒めることができるのもまた、人間特有のことでもあると考えた梅岩は、日本古来からの神道と、大陸から伝来して以降その神道と融和し続けてきた儒教・佛教の教えというものを、広く商人や庶民にも学ばせる必要があると考え、無料で塾を開き多くの人々に説法を説くようになった。
こうした梅岩の活動は、後の人々がさらに発展させ、寺子屋制度を磐石なものとし、日本各地で子供たちにも高度な道徳教育が施されることとなった。江戸末期における識字率の高さが当時の世界の国々のなかでも圧倒的だったのは、まさに梅岩はじめ江戸時代初期から中期にかけて活躍された人々の功績ともいえよう。
さて、現代わが国における"士"の意味合いというものが大きく変わってしまった。孟子や梅岩が仰られたような「崇高な志をもち、命をかけ任務に励む」なんてことを現代社会のなかで物申せば、鼻で笑われかねない。
しかし、「士」とは「さむらい」と読むこともできる。さむらいとは「侍」であり、侍とはつまり「武士」である。そして、時代がいくら変わろうとも、「士」とつく職種にかける想いというものは変わることはあってはならないことであり、いくら鼻で笑われようともこのことだけは、絶対に譲ることができない。
弁護士に「あなたはこの任務に命をかけることができますか?」と問い、その返答如何でその弁護士に仕事を依頼するか否かの選択権を一般庶民は有していることを多くの国民は知るべきである。
これは弁護士に限っての話しではなく、介護福祉士・税理士・会計士・(司法)行政書士・消防士・建築士・代議士、さらに医師や教師なども広義においては「士」と同種の扱いを受けることもあり、これら職種につく人たちに求められることは他の一般職種につく人たちよりも遥かに大きいといえる。
弁護士は儲かるだとか、建築士になれば仕事が増えるだとか、代議士になればあらゆる特権が得られるだとか、医師になればモテるだとか、僧侶になれば食いっぱぐれがないだとか(おまけ)・・・阿呆の極みである。
最後に、孟子や梅岩が仰った「高尚な志」とは、"世のため人のため"である。これはわが国古来の「公の精神」とも重なることであり、公・民分け隔たりなく、全ての人々が崇高な志を掲げ日々日常を頑張っていこうとすることで、そこに不平等・不公平という概念はなくなっていくことを意味する。
そして、不平等・不公平がなくなれば、争いもなくなる。
今回、「士」を知ろうとすることで、この国の永い歴史に触れ合えたことは、筆者にとって何よりの喜びである。
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