論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
子罕言利、與命、與仁。
《翻訳》
子 罕〔まれ〕に利〔り〕を言うとき、命〔めい〕と与〔とも〕に、仁〔じん〕と与にす。
《はじめに》
さて、これまで現代語訳をしながら、私がどうしても解せないでいたことがありました。それは、なぜ諸侯らは戦争をし続けるのだろうか、とです。
孔子が活躍した当時のシナ大陸の時代背景を考えますと、『春秋戦国の世』という名に相応しいまでに戦争が続いていましたから、そのために多くの民が犠牲となったり、貧困が続いたり、と、そのような状態からいつまで経っても抜けだせず、孔子が望むような平安楽土のような世には結びつかない状況下にあったのです。
また、この頃のシナ人はというと、人肉を喰らうという習慣もあったそうですが、これについては、少しばかり当時のシナ人たちの名誉というものを擁護してみようかなと思います。
当時は戦争によって、多くの民や兵がその犠牲となっていました。しかしその屍は、野に放置され、やがては鳥や獣に食い荒らされてしまいます。しかしながら、そうした鳥や獣に食い荒らされるくらいならば、貧しくしている民の腹を満たすことにおいて、私は同情の気持ちにさえかきたたされてしまうのです。もちろん、人肉など喰らわずとも腹を満たすことができるのであれば、それが最善であることはいうまでもありません。
けれども、当時は乱世です。戦争をしたくなくとも、いつ夷狄〔いてき〕という名の蛮族が中原〔ちゅうげん〕に攻め入ってくるかもわからない状況を考えれば、戦力増強や兵器の開発などを謀る必要があったのやも知れず、そのために諸侯はあえて戦いつづけていた、と考えることもできるのではないでしょうか。そのために多くの人民が犠牲となりましたが、しかし、「死してなお、誰かの役に立つならば、喰われて本望だ」とする考えが発展し、人肉を喰らうという習慣ができたのではないでしょうか。
また当時は、宋国という諸侯では、民が貧しさのあまりに赤子を交換し合い喰らっていた、という逸話もあるようで、このような惨状を想像すれば、如何に当時が乱れた世であるかは、私たち戦争を知らない現代人にとっては、想像をはるかに超えたものともいえましょう。
そんな中、当時、孔子は争いをもっとも嫌う人物のひとりだった、といってもよく、もし仮に、孔子が天子という身分であったならば、おそらく現在のように文民統制をきちんと定め、民が犠牲とならない方法でもって、蛮族からの侵略に備える方法を見出していたのかも知れません。
そうなれば、シナの歴史、というよりもこの東アジア地域の歴史さえも大きく変わっていたのやも知れない、とそんなふうに感じて仕方がないのですが、もはや歴史は繰り返されることはあっても、戻ることはありませんからね。
なお、論語を現代語訳していて、そうした当時の時代背景なんかも深く考えさせていただくことで、人間同士が争い合うことの愚かさ、というものを、改めて知ることにもなった気がいたします。
子罕 第九
《現代語訳》
〈あるお弟子さんが、次のように仰られました。〉
先師(=孔子)は罕に、利己的なことをお話されるときがありましたが、そのときは、人として生きるために必要最低限のことのみで、その際、〈天地の恵みによって、〉生かされていることへの感謝の心を忘れてはならないのだよ、というものでした。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句を語訳するにあたっては、『利』を、いわゆる「利己的」としたものです(※ 一般的には自分のことしか考えない人のこととありますが、私はこれを個人主義と認識しております)が、その際、天地の恵みによって生かされていることへの感謝の心を忘れてしまうと、不仁へと陥ってしまう(=仁を与にしない)として、孔子が弟子たちとの対話のなかで『利』を語るときにおいては、細心の注意をはらいながら語っていた、というふうに捉えることもできます。
※ 関連ブログ 子 罕に利を言う
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考