日々草創

「清く、楽しく、気持ち良く」、、、アホのままでもいいんです。

幸せの法則

2009-05-20 | 日記
人は誰でも幸せになりたいと思っている。

そんな事は当たり前の事であって、誰もが簡単に幸せになれれば争い事もないだろうし、自ら死を選ぶ人もいないだろう。
なにより“幸せ”という言葉自体なくなってしまうに違いない。
ではどんな違いで、幸せな人と不幸な人に分けられてしまうのだろうか。

現状の社会で、不治の病を煩っている訳でもなく、容姿・体型や、親族・友人が世間一般的で、仕事・年収が平均的だったとしても、その現状を幸せと思う人と、それだけでは幸せじゃないと思う人がいる。
ようするに、それら全ては物質的・環境的な問題ではなく、全て心の中の問題だといえよう。
よって、どんな状況下だったとしても、それを幸か不幸か左右するのは、その現状を“楽しい”と思うか“楽しくない”と思うかに掛かっているのだ。

しかし厄介な事に、人は何をする時でも最初はネガティブな方へ考えてしまうもの。
人間には地球上のすべての生物が持っている本能のほかに“理性 ”という物があり、その理性によって様々な物事を考え、未来の事までも予測し行動する事が出来る。
本能だけでその現状を全て受け入れてしまえば何も恐くはないのだが、その先で失敗した時の恐さを予測してしまい、その不安によって行動に移せなくなってしまう。
そして人間らしい人ほどその理性が過剰に働き、もっと先まで考え、もっと不安になり、俗にいう“ネガティブ・シンキング”ってやつに陥ってしまうのだ。
“楽しい”と、考える状況が出来なくなってしまう根源である。

それ等をポジティブに変える為には、その「不安」自体を根本で変えてしまう必要がある。
ネガティブな状況から「楽しい」と考えを変える思考。
ポジティブ・シンキングである。


以前、僕の親友に脳の発育が進まない病気の息子“コウちゃん”が生まれた。
それは奥さんが妊娠して幸せ絶頂期だった頃、エコー診察によってその病気が発覚したのだった。

二人は産まれるまでの間、大きな不安と少しの希望で時を待っていた。
しかし案の定、生まれた子供は鼓動が弱く、顔を見る間もなく集中治療室へ直行してしまったのだ。
長きに渡る集中治療によって数カ月後には無事退院できたものの、その後も幾度となく手術を繰り返し、少しずつだがコウちゃんの成長の妨げとなるべく原因の治療を続けていた。

しかしそのような子供の殆どは脳が発育せず、寿命が短い事を二人は知っていた。
でも諦める事なく、少しでもコウちゃんの身体が良くなるよう二人は最善の努力を惜しみなく注いでいたのだ。
退院して家にいる時は、泣くだけで鼓動が乱れて命の危険があるくらい一時も目が離せない。
当然、遊びに外出する事はおろか、寝る事さえもままならない状況。


そんな話を聞いた時、誰もが不憫に思い、哀れんでしまうだろう。
実際に僕も当初はそのような気持ちを持っていた。
しかし、幾度かその家族と接しているうち、そのような考え方は間違っているのだと気付き始めたのだ。

二人にしか判らないだろうコウちゃんの喜んでいる仕草。
しかしそれが僕にも判ってきた頃、その喜ぶ仕草を引き出す為に夢中になっている二人の存在に気が付いた。

そしてコウちゃんが喜んでくれた時、気付けば僕も一緒に喝采していた。

コウちゃんが喜んでくれるのなら、寝るのも惜しまない。
コウちゃんが喜んでくれるのなら、他に何もいらないのだ。

そんな日々が続いていたある日、突然コウちゃんはこの世を去った。
訃報を聞いて僕が駆け付けたときコウちゃんはまだ暖かく、親友の膝枕でいつもよりもずっと安らかに眠っているようだった。
その時、コウちゃんは5歳だった。

もし2人がネガティブに考えていたら、それまでの出来事は不幸もいいところだ。
しかし親友は僕にこう言った。

「コウちゃんは僕の家に幸せを運んでくれた」

僕もそう思った。
親友夫婦共々が、自分を犠牲にするのも苦にならないほどコウちゃんを愛していた。
そしてコウちゃんは他の誰よりも愛され、そのコウちゃんの笑顔に二人は歓喜した。

その家庭には、他のどこよりも多くの愛情が飛び交い、楽しさに満ち溢れていたのだ。
こうして、3人は幸せになったのだ。

現状を全て受け入れ、立ち向かう事によって、全てがポジティブに変わり楽しくなる。
きっとそれはどんな事にでも当てハマるのだろう。

チーターもこう言っていた。
「幸せは歩いてこない。だから歩いて行くんだよ」

そう、幸せは待っていても訪れない。
前向きに努力を続ける事で、楽しくなり、近付ける。

その結果、幸せになっていくのだと思う。

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