お久しぶりです。どこかで呼ばれたような気がしたので久しぶりの投稿です。
観光立国推進本部というところがなんかおかしなことを云ってるようです。
日本を5つのブロックに分けて時期をずらして休暇を取得するようにするそうです。ちょっとむかついたけど、よくよく考えたら小生にとっては特に目くじらを立てる必要がありませんでした\(^o^)/
政権が自民党だった頃もとんでもない話は聞かないわけではありませんでしたが、民主党に変わってからは特にとんでもない話をよく耳にするようになったと思います。いろいろなしがらみがあるでしょうが、民主党云々の前に日本って根本的に非効率的な気がしないでもありません。
「内需拡大、内需拡大」と景気対策を云いますが、それは正しい判断なのかと思います。内需を拡大することは、個々にたまったお金を市場に流通させてることで、景気がよくなるということなのですが、そもそも生活に不必要なお金がたまってしまうことが問題なのではないでしょうか。これは資本主義をもとにしている場合は仕方のない現象なのかもしれません。経済学者のカール・マルクスは「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義しているようです。悲しいことか悲しくないかは、その人の置かれた立場によるかもしれませんが、それが資本主義なのです。また、日本は明治維新以降は資本主義社会のようですね。
資本主義の対局に位置するのが、共産主義でしょうか。だがしかし、共産主義というものは、過去の共産主義国家を見る限り成功しない方式のようです。その失敗の主たるところは、人々が得る安心感にあるようです。共産主義は、生産手段を私的所有から共有所有に変えて、労働者からの搾取をなくそうという方式であり、その低い段階である社会主義という段階、すなわち、生産物及び資本を人々へ分配するという段階が人々への安心感を与えたようです。今の日本は定額給付金などの配布を実施していますが、あるいみ社会主義的な流れではないでしょうか。
そのような失敗例のある方式を日本が採用する方向にあるのであれば、由々しき問題です。日本が本来進むべき未来とはどのような未来なのでしょうか。いえ、だったのでしょうか。日本という国家が実施すべきであった政治について少し過去から考えてみたいと思います。
国家の役割は人々をまとめ、道を示すことにあると思います。まとめるということは治安を維持することもありますが、人々が進むべき道を示し導くということであります。国家の形態としては君主制と共和制がありますが、どちらが取り立てて優れているということはないと小生は思います。君主が進むべき道を示すことはわかりやすいでしょうが、失道した場合、過去の例よりその結果は決して良いものではありません。
失道とは、小野不由美の小説「十二国記」で使われる用語で、国を治める王が天の意に背き、道を失うことを指します。ここでは、本来あるべき政道を誤ることとしましょう。
共和制は多くの人が進むべき道を決めることで、右往左往することはあるかもしれませんが、ひとりの情報で道が決められるよりは、複雑化した社会を動かしていく上では、合理的かもしれません。しかし、共和制であるとしても、失道の危険はありますし、なかなか方向性を示せないというジレンマが発生するかもしれません。現在の日本は、このなかなか方向性を示せない状態なのでしょう。
過去の日本でも多くの公共事業が実施されてきました。平安時代の遷都も公共事業になるでしょうし、安土桃山時代、江戸時代の城下町を造るということも公共事業と呼べるでしょう。近代日本では鉄道網、電話網や郵便網の普及も公共事業でしょう。しかしならが、電力網の普及は民間が主体でした。しかしながら、原子力事業などは国の援助がないわけではありません。道は政治が主体となって示さなくても、民間で見つけ進んでいくことも可能ですが、疲弊した社会では、政治が道を示すことが大きな役割を担ってきます。このような場合、政治は国民の目を他国へ向けること、すなわち、戦争や紛争などで切り抜けようとするのですが、国際社会が発達した現在では、その様な解決策は不条理ですし、そもそも失道です。世界は2度の戦争の惨禍にみまわれたことを考えると、政治がこの疲弊を平和裏に脱したことがあったでしょうか。そう考えると、経済の疲弊に対する国民の憤懣を外に向けるのではなく、内需に向けるということは良い案なのかもしれません。国の外へ国民の意識を向けるよりも内へ留めておくということは、265年続いた江戸時代の鎖国制度を思い起こさせます。
近年あった経済活動の活発化というなれば、IT革命と呼ばれるものがあるでしょう。電子計算機の性能が飛躍的に発達し、インターネット網が整備されたことで、人々の生活は一変しました。携帯電話網の普及もIT革命に含まれるでしょう。その主たる変化は民間主導で起こりましたが、切っ掛けは政治の副産物のような学術分野からおこったと言えるでしょう。1995年からおおよそ10年間のIT分野の発展は素晴らしいものだったと思います。特に日常生活には関係ありませんが、医療などの分野も進んでいるでしょう。皮肉なことに、このIT革命という現象は、情報社会を一変させ、世界が情報を共有するという状況を生み出しました。内へと向けたい国民の意識は、外へ外へと向かうこととなったのです。
経済活動を活発にするために、新しい製品を普及させるというのは、効果的なことだと思います。これからは太陽光発電でしょうが、私にはひとつ疑問があります。電力会社では力率調整をしていますが、あれってどうなってるんでしょうか。現場の技術者が涙を呑んでるのではないかとか思ってしまうのですが、いかがでしょう。新しい製品が生まれ、普及することで経済活動が活発化し、生活が便利になることは良いと思いますが、そのようなイタチごっとは必要なのでしょうか。必要だとしても、それにあくせくと追われるようでは、間違っていると思います。しかも、富める者は益々富むのです。
この疲弊した経済状態を脱却する術はあるのでしょうか。そもそも経済は疲弊しているのでしょうか。
国の状態を計るために、経済の状態が挙げられますが、本来、経済が疲弊したことが国民の生活が悪化したことと直結することは不合理だと思います。経済の状態は資金の流動量で示されたりもしますが、ある程度の生産活動が終了した為に経済活動が沈静化したというのであれば、正常な社会制度が機能していれば、大きく手を加えなくとも、自ずと経済活動は正常化するでしょうし、周期性を持つか定常状態となると考えるのが理想ではないでしょうか。定常状態だと株取引で稼いでいる人は上がったりになるかもしれませんが、お金の移動だけで儲けているということも、納得のいかないところです。ただし、公共投資と同じで民間の資金の流れも重要だと思います。
富める者とはいったいどういうことなのでしょうか。
「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」が資本主義ですが、富める者とは資本家なのでしょう。人生は3億円あれば、十分に一生を生活していけるでしょう。生活費が余れば、余ったお金は投資資金となる。生涯の収入が3億円を超えると富んでいると考えれるだろう。
日本国民が1億2000万人だとすると、3.6京円あれば、全国民が暮らしていけるわけである。日本の国内総生産は500兆円であるからして、72年働けば良いということになる。適当な計算だが、それなりの年数がでているところが驚きでしょう。日本の生産活動はいたってまともだと思われるのに、明らかに苦悩に立ち向かわなければいけない人が存在する理由を考えてみたい。
最低限の生活をおくろうとすると月15万円あればやっていけるだろう。年間で考えると180万円となる。にも関わらず基礎控除は65万円である。夫婦2人で子どもが2人だとすると、月30万円で、年間では360万円となると思われる。あくまでも最低での話であるが、質素な生活をおくっていけば、家屋の修理を含めてもなんとかなるだろう。ただし、新築を購入する場合は、もう少し必要かもしれない。サラリーマンの平均年収が450万円程度であるから妥当な数字だと思われるが、平均値であるので実際は分散が考慮されなければならない。
お金を持っている人はお金を沢山使うという考え方はあっているのだろうか。
お金というものは、普通の人が持った場合、ある程度の生活費を消費するとそのまま使われなくなると思われる。使われないお金が銀行やタンス貯金となってしまうために、現在の日本は内需拡大をうたっているわけである。しかしながら、使ったからといって、その大半は資本家の元へと戻ってしまうというより、使えば資本家の元へ資金が集約され、労働者への恩恵はそう多くないだろう。
具体的な資料などないので水掛け論になるかもしれないが、続けたいと思う。
土地が3反あるとする。これを貸すと月50万円程度のお金がはいる。特に生産的な活動をしているわけでもないのに、このような収入があり、これは通常の所得税率で処理される。7反程度の土地があれば月に100万円ということになり、税金を納めたとしても、30年で3億円の収入があることになる。まさしく資本主義である。
小生が何を云いたかったのかというと、内需拡大路線でいこうということである。
さぁみなさんはこの文章を読んで日本がどれだけ非効率的かわかったでしょう。これからは居酒屋で馬鹿ほどオーダーして食べ残しなんかしちゃだめですよ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます