ラヂオ惑星モルファス

民族の高潔さ・・・「街場の日韓論」



コロナ肺炎禍が日本を覆って以来、我が国の政治家、行政庁、政府などへの絶望感が深まる一方ですが、ブログを書くには余りにも日々の変化などもめまぐるしく、毎日そうした絶望感と自分自身のまとまりのなさで、きちんと書くことができないでいます。
本当はまとまった読書の名目には至極いい機会だと思いますが、なんと図書館もコロナ以外の理由・・・空調工事・・・で半年間開架式閲覧室は使えなかったのですが、工事終了でもコロナのためにリクエストした本以外の貸し出しは行わなくなっていました。
とはいえ、40~50歳代以降、推理小説や海洋冒険小説以外はあまり読まなくなっていたことも確かですから、大きな口は叩けませんね。

そんな中、借りてきたのは『街場の日韓論』(内田樹編、晶文社刊)です。「戦後最悪の日韓関係」などとマスコミでは言い立てていますが、ふと気づくと日本人は本当に近現代の歴史を学んでいない・・・ということです。あるいは江戸時代もまた正確に学んでいないと思いますが・・・。
受験競争の中で明治維新から世界大恐慌あたりまでは通り一遍の年号暗記で触れられていたかもしれません。が、それまでですね。
2年ほど前から、日本の近現代史に興味を持ち、様々な本を拾い読みしてきました。本来は、自分のテーマの沿った体系的な勉強が必要なのでしょうが、興味の赴くまま(残された少ない時間であるがゆえに)読んできました。その中で、新聞の小さな書評欄に出ていたこの本を図書館から借りてきました。
アンソロジーですので、異なる筆者の「街場の議論」それそれに感想はありますが、今回は山崎雅弘氏の「韓国のことを知らない日本人とその理由」という文章の感想をいくつか挙げてみます。
初めにかなり衝撃的だったのは、ベトナム戦争における韓国軍の残虐行為を取り上げた韓国映画「ホワイトバッジ」に関する話でした。
次に衝撃を受けたのは、日本語のガイドブックに乗せられていない「学びの施設」というくだりでした。
そして印象的だったのは山崎さんが「自国の負の歴史を正面から見据えて反省する行為は屈辱ではない。むしろ、高潔な誇り高さを伴う。』と述べたことです。

右派の政治家や国粋的な議論を展開する人々が頻繁に使う「自虐史観」という言葉があります。
しかし、山崎さんが指摘する通り、自らに都合の悪いマイナスの事実を事実として正確にとらえていこうとすることは「自虐」でも何でもありません。そのとおり「高潔」な行為だと思います。
ひととき会津藩の「什の掟」が話題になったことがあります。生活習慣的な部分は現代に合わないところもありますが、日本人の本来持っていた高潔さを示す部分「嘘をついてはなりませぬ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ、弱いものをいじめてはなりませぬ」のはいつでも通用する事柄でしょう。しかし、明治以降の皇国史観や帝国主義がはびこり、その一方で科学的西洋合理主義も思想として根付くこともなく・・・日本人が持ち続けていた高潔さが失われ、自己中心的になり夜郎自大に陥ってしまったのではないでしょうか?私たちは、いつの間にか国民一人一人が(最近の我が国の政治・行政状況を見てもわかるとおり)「民族としての高潔さ」を失ったように感じます。

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