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先日こんな話を書いたのだが、その時予告したことを…。
森永ラブとは東京23区を中心にMAXで50店舗弱しか存在しなかったという
「おいしさわけあおう 森永ラブ」がキャッチフレーズの
幻のハンバーガーショップだ。
おそらく1970年代終期に1号店(銀座だったか?)が出て、
80年には20店以上となり、最大で多分50店舗程度、最終的には40店舗程度で
姿を消すこととなった。
その背景は森永の人間ではないので詳細不明なのだが、
森永キャンディストア事業部というのがあり、
その中にレストラン森永やこの森永LOVEがあったはず。
森永はそのキャンディストア事業部丸ごと売却することとなる。
売却先は一時撤退してまた再上陸を果たした米国のバーガーキング。
今回は解らないが、初上陸のときは合弁会社という形で日本代理店として
西武商事からJTがその営業権を得た。(JTというのも現在ある意味旬だわね)
それが1996年のことだが、5年後の2001年春にはあっさり日本撤退となるのだが、
BKとJTの出資比率が50%ずつという一見均等でよさげなものが、
対等だけにさまざまな衝突は避けられず終わることとなったようだ。
そもそも1号店は西武商事とのコンビで出して解消してJTと組んだが、
米食の国日本において、もろこしと肉の米国の戦術は通用しない。
その辺でBKのマーケティングが甘かったと言わざるを得ないだろう。
まったく敵対的買収だったと思われる当時の森永LOVE買収劇は、
森永に勤める、元勤めていたものたちを筆頭に、
絶対的信者とも言える贔屓にしていた顧客までもを纏めて大いに落胆させ
それでも強引に展開を開始したくせにこの哀れさには失笑してしまった。
まぁ既存の小規模な同業者を抱え込むことは、店舗拡大には手っ取り早いがね。
そんなバブリーな波に飲まれた森永LOVEはバーガーキングを経て
最終的に売却されたロッテリアか1stキッチンに現在は姿を変えている。
そんな経緯がある森永LOVEだが、ウィキペディアを調べても
バーガーキングの前身扱いで、リダイレクト掛けられている為に
森永LOVEの情報を記述することが出来にくい状態になっているせいでか
全く情報が無い。
全く別物なのでリダイレクトを外して情報保有者に盛り込んでもらいたいところ。

そしてこの画像は映画バブルへGO!のもの。六本木店の再現だ。
でもこれは晩年のもので90年前後の体裁。
80年代の体裁はブルーベースではなくオレンジベースだった。
文字の黄色とロゴは一緒だけど。
これはあの首都高を走るとSQUAREの文字が見えるスクエアビルの隣にあった。
ということは斜向かいには瀬里奈もある。
そこは六本木通りから一つ入った路地で、通りではなく路地裏にあるのだった。
スクエアビルとは複合施設雑居ビルでB2~10Fまで大半がDISCOで
私もネペンタやキサナドゥなどに行ったものだ。
確か4Fはカラオケスナックだったと思ったが、
その辺のそれとは違い、六本木だけに歌ってウマいと段位が与えられる。
初段保持者の私はその賞状もまだどこかに眠っているはず。
その店はショータイムには一見普通の男の2名のオカマが
歯にアルミホイルをくっつけて、ピンクレディーのピンクの林檎をかけて
それに合わせて踊り、最後に濃厚にキスをするというものがあった。
その店は確かサンジュリアン。燦珠莉庵とか書いたかな?
まぁ六本木交差点の三菱銀行の脇の階段にたむろってる黒人に
果てしなく追っかけられたことがあり、
つかまったら掘られるかボコボコにされるかどっちかだと思うので
それ以降あまり行かなくなってしまったが…。
そこから程近い外苑東通りに面したビル内しゃぶしゃぶ屋の
「ガキ大将」に勤める友人が「何で来ないんだ!」と怒っていたが、
黒人が怖くて行けんかった…。
以下は拾い物で小さいのを纏めたもの。
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そんな時代にあちこちの東京の繁華街を彩ってきたLOVEだが
一応ここで全店紹介しとく。途中でなくなった店は殆ど解らないが。
23区内
池袋店 (豊島区)
池袋南店 (豊島区)
市ヶ谷店 (新宿区)
御茶ノ水店? (千代田区)
学芸大学店 (目黒区)
北千住店 (足立区)
銀座店 (中央区)
銀座三丁目店? (中央区)
久我山店 (杉並区)
五反田店 (品川区)
芝浦店 (港 区)
渋谷店 (渋谷区)
渋谷文化通り店 (渋谷区)
新宿センタービル店 (新宿区)
新橋店 (港 区)
成城店 (世田谷区)
三軒茶屋店? (世田谷区)THANKS情報提供により追記
高田馬場さかえ通り店(新宿区)
豊島団地店? (北 区)
中野店? (中野区)
日本橋三丁目店 (中央区)
幡ヶ谷店 (渋谷区)
原宿店 (渋谷区)
プラザビル店 (港 区)
三田店 (港 区)
六本木店 (港 区)
同23区別
足立区 (1店)(竹の塚か綾瀬にあっても良かったかと)
荒川区 (町屋や日暮里にあっても良かったかと)
板橋区 (高島平にあっても良かったかと)
江戸川区 (環七の一之江か葛西にあっても良かったかと)
大田区 (蒲田や羽田空港にあっても良かったかと)
葛飾区 (金町にあっても良かったかと)
北区 (1店)(赤羽や王子にあっても良かったかと)
江東区 (門仲や大島にあっても良かったかと)
品川区 (1店)
渋谷区 (4店)
新宿区 (3店)
杉並区 (1店)(高円寺にあっても良かったかと)
墨田区 (錦糸町か亀戸にあっても良かったかと)
世田谷区(2店)(下北沢や豪徳寺にあっても良かったかと)
台東区 (上野や浅草にあっても良かったかと)
中央区 (3店)
千代田区(1店)(アキバにあっても良かったかと)
豊島区 (2店)
中野区 (1店)
練馬区 (江古田か桜台にあっても良かったかと)
文京区 (後楽園にあっても良かったかと)
港区 (5店)
目黒区 (1店)
東京都下
国立店 (国立市)
久米川店 (東村山市)
桜ヶ丘店 (多摩市)
田無店 (田無市)当時
調布店 (調布市)
八王子横山町店 (八王子市)
東久留米店 (東久留米市)
神奈川
伊勢佐木町店 (横浜市中区)
大船店 (鎌倉市)駅は半分横浜市栄区だが店舗は鎌倉市
鎌倉店 (鎌倉市)
上大岡店 (横浜市港南区)
菊名店 (横浜市港北区)
港南台店 (横浜市港南区)
桜木町店? (横浜市中区)
綱島店 (横浜市港北区)
東神奈川店 (横浜市神奈川区)
藤沢店 (茅ヶ崎市)
南林間店 (大和市)
埼玉
上尾店 (上尾市)
東大宮店 (大宮市)当時
本川越店 (川越市)
千葉
船橋ららぽーと店 (船橋市)
他
こんな感じで「?」がついているのは記憶に曖昧なため。
北区の豊島団地にあったのは間違いないが、サテライトと言ったか、
正規の店舗ではなくこじんまりとしたまた別のもの(オーナー制?)だったし、
桜木町は関内の駅前にあるくせに桜木町だったような記憶がある。
伊勢佐木町だったのでは?とも思うが反対側にあったはず。
ちなみにこの辺では顔が真っ白で映画にもなった伝説の女性が居た。
実は私もその人を行った時に見て大変驚いた。
白いドレスを着たドウランで真っ白な顔に目の周りが大きく真っ黒な老女。
この人の話は奥が深すぎるのでしないが、
その人が写っているものをネットでいただいたが、そこは修正して店内の様子だけ
にしたものがこれだ。
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手書きの絵のようだが、テーブル周りは本物。
ホットのカップは画像のものは晩年のタイプだが、
従来この真っ白に赤文字で「LOVE」と書かれていて、
持ち手は本体にペタッとしているが、客に出すときには持てるように
折り曲げられていた。冷めないように表面加工されていてモケモケした感じ。
普通にツルンとしていて持ち手がないのが各サイズのコールドドリンクのカップ。
冒頭画像はイメージで描き起こしてみたそれのロゴマーク。
実際バブルでGO!の画像での体裁でLOVEと描かれていたが
そこまで丁寧にはメンドいので再現出来なかった。
イメージカラーが濃オレンジで文字が黄色だがカップは濃オレンジ文字だった。
カタカナの「ラブ」は両方とも最後左に払うのではなく、下方に垂れるデザイン。
そしてこのトレーを見る限りは比較的新しいものだとわかる。
このオレンジは1981年に導入されたもので。それ以前はツルンとした
肌色っぽいトレーだった。
オレンジのそれは表面がザラザラした石垣模様のような状態になっていて、
乗せた商品が滑らないようにと言うことだったのだろうが、
拭いたり掃除するこっちにとってはその目に飲みこぼしなどが詰まって
非常に嫌な代物だった。
そんな私が居たのが東京最北端店舗の北千住店。
大半の23区内の店には小ばかにされていた下町のハズレの店だ。
逆にそっち方面には全く無いためにわざわざ来る客も多く、
かなり繁盛していた。
ぶっちゃけ私に会いに来る女の子も相当居た。
・・・いや、ムカつくだろうけどこれ事実で、ファンクラブもあったし
バレンタインにはチョコを持ってくる子も居れば、
有名だから名前を出せないがある芸能人の中学生の妹も私目当てに来ていた。
2Fのレストラン森永の女の子たちにもキャー言われるし、
当然バイトの女の子たちは争奪戦を繰り広げてくれた。
そんな人生のモテ期ピークをこの高校生の時期に迎えるのだった…。
そういう意味でもいろんな男女とのいろんな絡みがあったりして
当然色恋沙汰もいろんな組み合わせがくっついては離れたりして、
忘れようにも忘れられない印象深い時代とその場所だった。
店長や社員たちとクローズ後に飲みに連れて行ってもらったり、
フェロー同士でのイベントや旅行などもあった。
なので金八先生を見る度にいろんなことを思い出すよ。
先週の神社なんて、神社だけにあんな思い出が…。( ̄Γ ̄)あ、ヨダレ
そんな話はともかく、当時バイト料が420円!何だこの激安振り!!
都心よりは基本からして少し安かった。でも当時は400円台が常識。
買収の頃にでこそ500~600円台になった程度だ。
その後全体の自給が10円上がって430円になり、
ハートマークがついて450円になり、もう一つついて480円で終わった。
ハートマークとはフェローの格であり、ある程度の項目をクリアでき、
MGRらに認められたものは本部申請されて昇格するのだ。
私はレジまでも何でも出来たのだが、コンパクターと言う
ごみのプレス機の所に行って良くタバコ吸ってたからなかなか昇格せず。
ハート1個でフェロージュニア、2個でフェローシニア、3つでフォアマンだ。
晩年のユニフォームは茶系の少しましなものになったが、
当初は白地に緑のストライプで左胸辺りを縦にファスナーで閉じるチープなもの。
私はパテが切れ掛かるとその格好で千代田線に乗って大きな冷凍庫がある
銀座店まで何度と無く借りに行かされたもんだった。
電車の中ではみんな見てくすくす笑ってたな。マヂハズい…。(///∇///)
当時のメニューは確か初期が…
ハンバーガー 80円
チーズバーガー 100円
フィッシュバーガー 120円
カツバーガー 120円
デラックスバーガー 180円
ベーコンエッグマフィン120円(朝のみ)
ツナマフィン 120円
ピザマフィン 120円
ホットアップルパイ 120円
フライドポテト S 80円 L120円
ディッシャーアイス 100円
ミルク 80円
ホットコーヒー 80円
ホットココア 100円
コーンポタージュ 100円
アイスコーヒー S 100円 L130円
サンキストジュース S 100円 L130円
コカコーラ S 100円 L130円
シェイク各種 120円
その後に(上記の価格改定で20円ずつ程度UP)
チキンバーガー 150円
フルーツカクテル 120円
コールスロー? 120円
ソフトサラミマフィン 150円
リブステーキサンド 230円
他
確かこんな感じだったと思う。
ベーコンポテトパイとかあったような・・・。
これ以降のライスメニューやパスタは引退後なんで知らない。
その時思いっきりドン引きしたっけなぁ。
しかしまぁホントにバイトが仲が良すぎて客が不快感を感じるほどだったと思う。
もちろんきちんとやっているが、無駄話が多かったよ。
そして前回言った裏メニューが「ババマフィン」だ!!
よくウォーマーの中に入りっぱなしで売るには至らなくなったものは
WASTEと言ってキッチンに下がって来る。
(ウエストウエストと言ってたので腰とか西だと思ってるフェローも多かろう)
それは本来廃棄なのだが腹空かし世代には文字通り格好の餌だ。
その時はツナが下がってきていたのだが、
私が珍しくミートのパテの焼きが甘くて、形を壊してしまった。
その肉は売り物には出来ない。
ミスは少ないのでそれが腹立たしくなってターナーでミンチにしてやった。
でも捨てるのは勿体無いのでウエストのツナに挟んでみた。
そしてそれを食ったところが・・・・・・・果てしなくウマい!!
一緒にやってた大学生のバイトが「ぜっとし!これウマすぎるよ!!」というと
カウンターの女の子やMGRまでもが来てみんなで一口ずつ試食。
全員が絶賛したのは言うまでもないが、MGRには最後に「お前何やってんだ?!」
と怒られたのは言うまでもない。(だからハートがなかなか増えない)
そして大学生のバイトが「ぜっとし、これの命名は?」というので
見た目があまりにも汚らしかったのでババマフィンとつけた。
ババとはある地方でジャイアント馬場というと巨大なう○こと言う意味で
とても笑えると言うものなのだが、そういう意味のババだ!(一応食いもんだぜ)
その後MGRの目を盗んで何回かこっそりそれを作った。
月に1回ぐらいのペースで落下ロスのカウントを付けて。
全部出来たてババマフィンは相当ウマかったなぁ~。
こんなのもあった。
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当初の社員たちで店長は畑さんだったが
1年も経たないうちに本社SVになってしまい、当時の石井SVに代わってか?
と思ったがこっちには来なかった。
副店長格の木村さんは私を見るたびにエロい笑みを浮かべ
「ぜっとし~。お前俺のオカマの友達にホント良く似てるよ~」
「お前オカマになれよ~」が口癖で、女だけでなく男にも狙われていた私だったが
唯一の千葉の店舗ららぽーと新設時に行ってしまった。
確か住まいも柏とか我孫子だったと思ったので好都合か?
上記のららぽーとを見ても木村とあるので間違いなくあの人だと思う。
そして癒し系な小太りだった若山さんは酔って女子フェローに絡んだ客に
腕を掴んで静止させたか何かして店外でその客に横っ面張られてた。
直ぐそこに交番があるのだが、雑踏の中って目の前でも判らないもんだな。
我々は交番には行くなと静止されてたんだけど。
その人は私が藤村MGRが別れた後に付き合っていた忍とその後付き合った。
結婚したと言う噂もあり、その頃住んでいたのが私の今の最寄り駅だが
もう居ないのか、居ても会わないのか全く出くわすことがない。
確か銀座店に行ったんではなかったかな?その後直ぐ辞めたけど。
先ほど出た藤村さんは当時22歳で一番若いMGRで兄貴のようだった。
その分甘えと言う舐めてかかったりした部分もあったのだが、
ある日彼の指導法に「僕はそんなことでは叩かれたよ」というので
「だったら叩けばいいじゃないですか!?」といったらマヂ叩かれた。
でもその後私が冷静になって詫びてわだかまりもなくなって仲良くやってたが
国に帰って農業を継ぐのだといって私が在籍中にやめていった。
途中に石野さんというこれまた少し小太りの30歳そこそこの人が来たが
鳴海のおばさんの学会勧誘に困惑し(私も軽く巻き込まれた)
それのせいかどうかはわからないが直ぐに居なくなった。
そして「早くしてくださ~いよ~」が口癖の背の高い斉藤さんは
芝浦店に移動になったがその後待遇が悪いとか?で辞めた。
面白かったのは石井SVが来て、フェローが休んで穴埋めできなかったことで
斉藤さんもキッチンに入ったりしてたのをSVも手伝ったことがあったのだが、
SV「斉藤君、ミート焼きすぎだろ?!」
斉「ドレスが遅いんですよ。ドレスが。」(ドレス:バンズにソースなどを付ける)
SV「・・・たまには言うこと聞け!」
というようなやり取りをする人で、これは笑い話で語り継がれてた。
そういや石井SVといえば、何回か来たことあるのに、その日はFS(ハート2個)に
なったばかりでその審査に来られると誰かが脅したせいで、
私のお気に入りの有美子がパニくって泣き出す始末で、そんなの見たこと無いので
大変驚いたことも印象深い。彼女とは今も時々会ってる。
そして畑さんの後には北川さんという人が店長で来た。
目白に母と住んでる当時40歳ぐらいで独身の人。
この人にペキマンという22歳のパンチの男が可愛がられていて
それと仲の良かった私も一緒に良く飲みに連れて行かれた。
その後この人が「?」の桜木町店に移動になり一度呼ばれていったことがある。
その時に「桜木町だけど駅は関内だよ!?間違えるなよ」といわれた記憶がある。
なので伊勢佐木町なのかも知れないが駅向こうにもあったのだと思った。
この人はその後退職して高田馬場のある喫茶店でフロア責任者的な仕事になった。
そして一番最後にMGRとして来た村上さんだが、
この人は国士舘上がりで縦に凄く厳しく、
私の誰にでも変わりないなれなれしい様が許せないほど嫌いだったようで
ある日村上さんがOPで上がった後に飲みに行って店に戻ってきて、
私がクローズで入っていたのだが、事務所にアイスキューブを取りに行くと居て、
お前は生意気だとしてこの野郎呼ばわりされてパンチ食らった。
酔ってたので気にしないなりにも正直それ以来嫌いになったな。
北千住店の担当者で名前がある。
北川さんが移転した後はこの人が店長になったのだった。
私は北川さんが店長で居たときに18歳になり辞めたのだけどね。
ここでのバイトで1年8ヶ月は相当長く居た。
それは居場所もあったし、誰からも認知されていたし、尊敬と愛情を感じたし
モテまくったし、楽しかったし、出来ればこのまま時が動くなりにも進まず
誰もが年を取らないままにここでずっとこうして居たかった。
だが進学や就職など新たな扉を誰もが開け、誰彼問わず一人、また一人と
仲間が消えていく中に大きな寂しさを感じ、自分ももう居るべき場所でないのだと
ピーターパンシンドロームから目覚めたのだった。
この話は書けばきりがないのでこの辺で。またの機会があれば。
森永ラブとは東京23区を中心にMAXで50店舗弱しか存在しなかったという
「おいしさわけあおう 森永ラブ」がキャッチフレーズの
幻のハンバーガーショップだ。
おそらく1970年代終期に1号店(銀座だったか?)が出て、
80年には20店以上となり、最大で多分50店舗程度、最終的には40店舗程度で
姿を消すこととなった。
その背景は森永の人間ではないので詳細不明なのだが、
森永キャンディストア事業部というのがあり、
その中にレストラン森永やこの森永LOVEがあったはず。
森永はそのキャンディストア事業部丸ごと売却することとなる。
売却先は一時撤退してまた再上陸を果たした米国のバーガーキング。
今回は解らないが、初上陸のときは合弁会社という形で日本代理店として
西武商事からJTがその営業権を得た。(JTというのも現在ある意味旬だわね)
それが1996年のことだが、5年後の2001年春にはあっさり日本撤退となるのだが、
BKとJTの出資比率が50%ずつという一見均等でよさげなものが、
対等だけにさまざまな衝突は避けられず終わることとなったようだ。
そもそも1号店は西武商事とのコンビで出して解消してJTと組んだが、
米食の国日本において、もろこしと肉の米国の戦術は通用しない。
その辺でBKのマーケティングが甘かったと言わざるを得ないだろう。
まったく敵対的買収だったと思われる当時の森永LOVE買収劇は、
森永に勤める、元勤めていたものたちを筆頭に、
絶対的信者とも言える贔屓にしていた顧客までもを纏めて大いに落胆させ
それでも強引に展開を開始したくせにこの哀れさには失笑してしまった。
まぁ既存の小規模な同業者を抱え込むことは、店舗拡大には手っ取り早いがね。
そんなバブリーな波に飲まれた森永LOVEはバーガーキングを経て
最終的に売却されたロッテリアか1stキッチンに現在は姿を変えている。
そんな経緯がある森永LOVEだが、ウィキペディアを調べても
バーガーキングの前身扱いで、リダイレクト掛けられている為に
森永LOVEの情報を記述することが出来にくい状態になっているせいでか
全く情報が無い。
全く別物なのでリダイレクトを外して情報保有者に盛り込んでもらいたいところ。

そしてこの画像は映画バブルへGO!のもの。六本木店の再現だ。
でもこれは晩年のもので90年前後の体裁。
80年代の体裁はブルーベースではなくオレンジベースだった。
文字の黄色とロゴは一緒だけど。
これはあの首都高を走るとSQUAREの文字が見えるスクエアビルの隣にあった。
ということは斜向かいには瀬里奈もある。
そこは六本木通りから一つ入った路地で、通りではなく路地裏にあるのだった。
スクエアビルとは複合施設雑居ビルでB2~10Fまで大半がDISCOで
私もネペンタやキサナドゥなどに行ったものだ。
確か4Fはカラオケスナックだったと思ったが、
その辺のそれとは違い、六本木だけに歌ってウマいと段位が与えられる。
初段保持者の私はその賞状もまだどこかに眠っているはず。
その店はショータイムには一見普通の男の2名のオカマが
歯にアルミホイルをくっつけて、ピンクレディーのピンクの林檎をかけて
それに合わせて踊り、最後に濃厚にキスをするというものがあった。
その店は確かサンジュリアン。燦珠莉庵とか書いたかな?
まぁ六本木交差点の三菱銀行の脇の階段にたむろってる黒人に
果てしなく追っかけられたことがあり、
つかまったら掘られるかボコボコにされるかどっちかだと思うので
それ以降あまり行かなくなってしまったが…。
そこから程近い外苑東通りに面したビル内しゃぶしゃぶ屋の
「ガキ大将」に勤める友人が「何で来ないんだ!」と怒っていたが、
黒人が怖くて行けんかった…。
以下は拾い物で小さいのを纏めたもの。

そんな時代にあちこちの東京の繁華街を彩ってきたLOVEだが
一応ここで全店紹介しとく。途中でなくなった店は殆ど解らないが。
23区内
池袋店 (豊島区)
池袋南店 (豊島区)
市ヶ谷店 (新宿区)
御茶ノ水店? (千代田区)
学芸大学店 (目黒区)
北千住店 (足立区)
銀座店 (中央区)
銀座三丁目店? (中央区)
久我山店 (杉並区)
五反田店 (品川区)
芝浦店 (港 区)
渋谷店 (渋谷区)
渋谷文化通り店 (渋谷区)
新宿センタービル店 (新宿区)
新橋店 (港 区)
成城店 (世田谷区)
三軒茶屋店? (世田谷区)THANKS情報提供により追記
高田馬場さかえ通り店(新宿区)
豊島団地店? (北 区)
中野店? (中野区)
日本橋三丁目店 (中央区)
幡ヶ谷店 (渋谷区)
原宿店 (渋谷区)
プラザビル店 (港 区)
三田店 (港 区)
六本木店 (港 区)
同23区別
足立区 (1店)(竹の塚か綾瀬にあっても良かったかと)
荒川区 (町屋や日暮里にあっても良かったかと)
板橋区 (高島平にあっても良かったかと)
江戸川区 (環七の一之江か葛西にあっても良かったかと)
大田区 (蒲田や羽田空港にあっても良かったかと)
葛飾区 (金町にあっても良かったかと)
北区 (1店)(赤羽や王子にあっても良かったかと)
江東区 (門仲や大島にあっても良かったかと)
品川区 (1店)
渋谷区 (4店)
新宿区 (3店)
杉並区 (1店)(高円寺にあっても良かったかと)
墨田区 (錦糸町か亀戸にあっても良かったかと)
世田谷区(2店)(下北沢や豪徳寺にあっても良かったかと)
台東区 (上野や浅草にあっても良かったかと)
中央区 (3店)
千代田区(1店)(アキバにあっても良かったかと)
豊島区 (2店)
中野区 (1店)
練馬区 (江古田か桜台にあっても良かったかと)
文京区 (後楽園にあっても良かったかと)
港区 (5店)
目黒区 (1店)
東京都下
国立店 (国立市)
久米川店 (東村山市)
桜ヶ丘店 (多摩市)
田無店 (田無市)当時
調布店 (調布市)
八王子横山町店 (八王子市)
東久留米店 (東久留米市)
神奈川
伊勢佐木町店 (横浜市中区)
大船店 (鎌倉市)駅は半分横浜市栄区だが店舗は鎌倉市
鎌倉店 (鎌倉市)
上大岡店 (横浜市港南区)
菊名店 (横浜市港北区)
港南台店 (横浜市港南区)
桜木町店? (横浜市中区)
綱島店 (横浜市港北区)
東神奈川店 (横浜市神奈川区)
藤沢店 (茅ヶ崎市)
南林間店 (大和市)
埼玉
上尾店 (上尾市)
東大宮店 (大宮市)当時
本川越店 (川越市)
千葉
船橋ららぽーと店 (船橋市)
他
こんな感じで「?」がついているのは記憶に曖昧なため。
北区の豊島団地にあったのは間違いないが、サテライトと言ったか、
正規の店舗ではなくこじんまりとしたまた別のもの(オーナー制?)だったし、
桜木町は関内の駅前にあるくせに桜木町だったような記憶がある。
伊勢佐木町だったのでは?とも思うが反対側にあったはず。
ちなみにこの辺では顔が真っ白で映画にもなった伝説の女性が居た。
実は私もその人を行った時に見て大変驚いた。
白いドレスを着たドウランで真っ白な顔に目の周りが大きく真っ黒な老女。
この人の話は奥が深すぎるのでしないが、
その人が写っているものをネットでいただいたが、そこは修正して店内の様子だけ
にしたものがこれだ。

手書きの絵のようだが、テーブル周りは本物。
ホットのカップは画像のものは晩年のタイプだが、
従来この真っ白に赤文字で「LOVE」と書かれていて、
持ち手は本体にペタッとしているが、客に出すときには持てるように
折り曲げられていた。冷めないように表面加工されていてモケモケした感じ。
普通にツルンとしていて持ち手がないのが各サイズのコールドドリンクのカップ。
冒頭画像はイメージで描き起こしてみたそれのロゴマーク。
実際バブルでGO!の画像での体裁でLOVEと描かれていたが
そこまで丁寧にはメンドいので再現出来なかった。
イメージカラーが濃オレンジで文字が黄色だがカップは濃オレンジ文字だった。
カタカナの「ラブ」は両方とも最後左に払うのではなく、下方に垂れるデザイン。
そしてこのトレーを見る限りは比較的新しいものだとわかる。
このオレンジは1981年に導入されたもので。それ以前はツルンとした
肌色っぽいトレーだった。
オレンジのそれは表面がザラザラした石垣模様のような状態になっていて、
乗せた商品が滑らないようにと言うことだったのだろうが、
拭いたり掃除するこっちにとってはその目に飲みこぼしなどが詰まって
非常に嫌な代物だった。
そんな私が居たのが東京最北端店舗の北千住店。
大半の23区内の店には小ばかにされていた下町のハズレの店だ。
逆にそっち方面には全く無いためにわざわざ来る客も多く、
かなり繁盛していた。
ぶっちゃけ私に会いに来る女の子も相当居た。
・・・いや、ムカつくだろうけどこれ事実で、ファンクラブもあったし
バレンタインにはチョコを持ってくる子も居れば、
有名だから名前を出せないがある芸能人の中学生の妹も私目当てに来ていた。
2Fのレストラン森永の女の子たちにもキャー言われるし、
当然バイトの女の子たちは争奪戦を繰り広げてくれた。
そんな人生のモテ期ピークをこの高校生の時期に迎えるのだった…。
そういう意味でもいろんな男女とのいろんな絡みがあったりして
当然色恋沙汰もいろんな組み合わせがくっついては離れたりして、
忘れようにも忘れられない印象深い時代とその場所だった。
店長や社員たちとクローズ後に飲みに連れて行ってもらったり、
フェロー同士でのイベントや旅行などもあった。
なので金八先生を見る度にいろんなことを思い出すよ。
先週の神社なんて、神社だけにあんな思い出が…。( ̄Γ ̄)あ、ヨダレ
そんな話はともかく、当時バイト料が420円!何だこの激安振り!!
都心よりは基本からして少し安かった。でも当時は400円台が常識。
買収の頃にでこそ500~600円台になった程度だ。
その後全体の自給が10円上がって430円になり、
ハートマークがついて450円になり、もう一つついて480円で終わった。
ハートマークとはフェローの格であり、ある程度の項目をクリアでき、
MGRらに認められたものは本部申請されて昇格するのだ。
私はレジまでも何でも出来たのだが、コンパクターと言う
ごみのプレス機の所に行って良くタバコ吸ってたからなかなか昇格せず。
ハート1個でフェロージュニア、2個でフェローシニア、3つでフォアマンだ。
晩年のユニフォームは茶系の少しましなものになったが、
当初は白地に緑のストライプで左胸辺りを縦にファスナーで閉じるチープなもの。
私はパテが切れ掛かるとその格好で千代田線に乗って大きな冷凍庫がある
銀座店まで何度と無く借りに行かされたもんだった。
電車の中ではみんな見てくすくす笑ってたな。マヂハズい…。(///∇///)
当時のメニューは確か初期が…
ハンバーガー 80円
チーズバーガー 100円
フィッシュバーガー 120円
カツバーガー 120円
デラックスバーガー 180円
ベーコンエッグマフィン120円(朝のみ)
ツナマフィン 120円
ピザマフィン 120円
ホットアップルパイ 120円
フライドポテト S 80円 L120円
ディッシャーアイス 100円
ミルク 80円
ホットコーヒー 80円
ホットココア 100円
コーンポタージュ 100円
アイスコーヒー S 100円 L130円
サンキストジュース S 100円 L130円
コカコーラ S 100円 L130円
シェイク各種 120円
その後に(上記の価格改定で20円ずつ程度UP)
チキンバーガー 150円
フルーツカクテル 120円
コールスロー? 120円
ソフトサラミマフィン 150円
リブステーキサンド 230円
他
確かこんな感じだったと思う。
ベーコンポテトパイとかあったような・・・。
これ以降のライスメニューやパスタは引退後なんで知らない。
その時思いっきりドン引きしたっけなぁ。
しかしまぁホントにバイトが仲が良すぎて客が不快感を感じるほどだったと思う。
もちろんきちんとやっているが、無駄話が多かったよ。
そして前回言った裏メニューが「ババマフィン」だ!!
よくウォーマーの中に入りっぱなしで売るには至らなくなったものは
WASTEと言ってキッチンに下がって来る。
(ウエストウエストと言ってたので腰とか西だと思ってるフェローも多かろう)
それは本来廃棄なのだが腹空かし世代には文字通り格好の餌だ。
その時はツナが下がってきていたのだが、
私が珍しくミートのパテの焼きが甘くて、形を壊してしまった。
その肉は売り物には出来ない。
ミスは少ないのでそれが腹立たしくなってターナーでミンチにしてやった。
でも捨てるのは勿体無いのでウエストのツナに挟んでみた。
そしてそれを食ったところが・・・・・・・果てしなくウマい!!
一緒にやってた大学生のバイトが「ぜっとし!これウマすぎるよ!!」というと
カウンターの女の子やMGRまでもが来てみんなで一口ずつ試食。
全員が絶賛したのは言うまでもないが、MGRには最後に「お前何やってんだ?!」
と怒られたのは言うまでもない。(だからハートがなかなか増えない)
そして大学生のバイトが「ぜっとし、これの命名は?」というので
見た目があまりにも汚らしかったのでババマフィンとつけた。
ババとはある地方でジャイアント馬場というと巨大なう○こと言う意味で
とても笑えると言うものなのだが、そういう意味のババだ!(一応食いもんだぜ)
その後MGRの目を盗んで何回かこっそりそれを作った。
月に1回ぐらいのペースで落下ロスのカウントを付けて。
全部出来たてババマフィンは相当ウマかったなぁ~。
こんなのもあった。
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当初の社員たちで店長は畑さんだったが
1年も経たないうちに本社SVになってしまい、当時の石井SVに代わってか?
と思ったがこっちには来なかった。
副店長格の木村さんは私を見るたびにエロい笑みを浮かべ
「ぜっとし~。お前俺のオカマの友達にホント良く似てるよ~」
「お前オカマになれよ~」が口癖で、女だけでなく男にも狙われていた私だったが
唯一の千葉の店舗ららぽーと新設時に行ってしまった。
確か住まいも柏とか我孫子だったと思ったので好都合か?
上記のららぽーとを見ても木村とあるので間違いなくあの人だと思う。
そして癒し系な小太りだった若山さんは酔って女子フェローに絡んだ客に
腕を掴んで静止させたか何かして店外でその客に横っ面張られてた。
直ぐそこに交番があるのだが、雑踏の中って目の前でも判らないもんだな。
我々は交番には行くなと静止されてたんだけど。
その人は私が藤村MGRが別れた後に付き合っていた忍とその後付き合った。
結婚したと言う噂もあり、その頃住んでいたのが私の今の最寄り駅だが
もう居ないのか、居ても会わないのか全く出くわすことがない。
確か銀座店に行ったんではなかったかな?その後直ぐ辞めたけど。
先ほど出た藤村さんは当時22歳で一番若いMGRで兄貴のようだった。
その分甘えと言う舐めてかかったりした部分もあったのだが、
ある日彼の指導法に「僕はそんなことでは叩かれたよ」というので
「だったら叩けばいいじゃないですか!?」といったらマヂ叩かれた。
でもその後私が冷静になって詫びてわだかまりもなくなって仲良くやってたが
国に帰って農業を継ぐのだといって私が在籍中にやめていった。
途中に石野さんというこれまた少し小太りの30歳そこそこの人が来たが
鳴海のおばさんの学会勧誘に困惑し(私も軽く巻き込まれた)
それのせいかどうかはわからないが直ぐに居なくなった。
そして「早くしてくださ~いよ~」が口癖の背の高い斉藤さんは
芝浦店に移動になったがその後待遇が悪いとか?で辞めた。
面白かったのは石井SVが来て、フェローが休んで穴埋めできなかったことで
斉藤さんもキッチンに入ったりしてたのをSVも手伝ったことがあったのだが、
SV「斉藤君、ミート焼きすぎだろ?!」
斉「ドレスが遅いんですよ。ドレスが。」(ドレス:バンズにソースなどを付ける)
SV「・・・たまには言うこと聞け!」
というようなやり取りをする人で、これは笑い話で語り継がれてた。
そういや石井SVといえば、何回か来たことあるのに、その日はFS(ハート2個)に
なったばかりでその審査に来られると誰かが脅したせいで、
私のお気に入りの有美子がパニくって泣き出す始末で、そんなの見たこと無いので
大変驚いたことも印象深い。彼女とは今も時々会ってる。
そして畑さんの後には北川さんという人が店長で来た。
目白に母と住んでる当時40歳ぐらいで独身の人。
この人にペキマンという22歳のパンチの男が可愛がられていて
それと仲の良かった私も一緒に良く飲みに連れて行かれた。
その後この人が「?」の桜木町店に移動になり一度呼ばれていったことがある。
その時に「桜木町だけど駅は関内だよ!?間違えるなよ」といわれた記憶がある。
なので伊勢佐木町なのかも知れないが駅向こうにもあったのだと思った。
この人はその後退職して高田馬場のある喫茶店でフロア責任者的な仕事になった。
そして一番最後にMGRとして来た村上さんだが、
この人は国士舘上がりで縦に凄く厳しく、
私の誰にでも変わりないなれなれしい様が許せないほど嫌いだったようで
ある日村上さんがOPで上がった後に飲みに行って店に戻ってきて、
私がクローズで入っていたのだが、事務所にアイスキューブを取りに行くと居て、
お前は生意気だとしてこの野郎呼ばわりされてパンチ食らった。
酔ってたので気にしないなりにも正直それ以来嫌いになったな。
北千住店の担当者で名前がある。
北川さんが移転した後はこの人が店長になったのだった。
私は北川さんが店長で居たときに18歳になり辞めたのだけどね。
ここでのバイトで1年8ヶ月は相当長く居た。
それは居場所もあったし、誰からも認知されていたし、尊敬と愛情を感じたし
モテまくったし、楽しかったし、出来ればこのまま時が動くなりにも進まず
誰もが年を取らないままにここでずっとこうして居たかった。
だが進学や就職など新たな扉を誰もが開け、誰彼問わず一人、また一人と
仲間が消えていく中に大きな寂しさを感じ、自分ももう居るべき場所でないのだと
ピーターパンシンドロームから目覚めたのだった。
この話は書けばきりがないのでこの辺で。またの機会があれば。
記事のフレッシュ感を見極めてのお気遣いありがとうございます。
この記事はいろんな方がいろんなタイミングでいらっしゃって常に生きている状態ですので大丈夫ですよ。
そうですか!下北にもありましたか!?
淡島通り沿い?渋目陸橋とか駒場エミナースのほうまでではないと思いますが。
いや、すずなりから淡島通りの間のどこかにあったような雰囲気ですね。消防署の辺りとかに。
それとも北側の商店街の中にあったでしょうか?
もしそうだったら小さいのでサテライト店ですね。
それにしても幼少期と言われてしまうと、こっちばバイトできる年ですから
最小でも一回り程度は年下の方なんですね。
この話はほぼ同世代の人とだけ会話が成り立っていたので、
違う世代の方が書き込みをなさったことが感慨深いです。
そういえば森永が昔ファーストフード店やってたなーって曖昧な記憶があったのですが森永ラブって言うんですね
丁寧な態度言動での訪問嬉しく思います。
ましてや素敵な記事などとお褒め頂いて感無量です。
ピンクのユニフォームに…ということは女性ですよね?
ピンクでしたっけ?ブラウン系じゃなかったでしたっけ?
私の初期のころは緑と白のストライプなんですよ。
辞めてパスタとかの時代がブラウンになったと思いました。
今までと違ってちょっとおしゃれな。それが最後はピンクでしたっけ!??
さすがに晩年はただの客ですので機会が少ないから覚えて無かったです。
なんとなく可愛い気がするので今一度見てみたかったです。
お好きなメニューを失礼申し上げますが、本文にもあるように嫌だったんですよね。
芸人が新ネタ新ネタと無理やり作らされる物まねやネタはほぼ全部が引くほど寒い。
それと同じで飽きたら行かなきゃいいだけで、創作物に必死になる必要はなかったと思っています。
そういう方向に走ったので短命に終わったと思っています。
その証に、今でも全てのバーガーで一番好きなのは明治サンテオレのコロッケバーガーです。
何十年も前から果てしなく食べたいです。
そのようにたまに期間限定で新メニューを(シェイクみたいに)スポットでやったとしても、
チキンとツナの大人気メニューを軸にどっしりやってればよかったと思っています。
飽きて消える客を追い過ぎなんですよ。
また新しい若者が初めて食べてファンになってくれるのを信じてなかったのでしょうね。
と、自論を展開しましたが、それぞれが好きなものがそれぞれの思い出であり、
他人に否定されることは全くありません。他意はないんですよ。
思い出の彩のアイテムは人それぞれなんですから。
短期間だったとのことですが、晩年は解りませんけど、初期は本当に家族のようでした。
でも他店それぞれの温度は結構違いましたけど、勢いがあった時代ですから共通するものはあったと思います。
出来ることならあの時代にまた戻ってみたいです。こぞってみんなで。
私は市ヶ谷店に1992年頃に少しだけ働いていました。高校生でした。
ピンクのユニフォームに憧れたのとオムレツバーガーや鮭ライスバーガーが好きでバイトを希望しました。
ホントに短い間だったのでフェローの皆さんをあまり覚えていないのが残念です。
素敵な記事、ありがとうございました。
かくうえ私もフェローです。σ(°ン °) ワタシデス
フェスティバルってなんでしたっけ!?
一番に出てくるのがノリダー(カーニバル&)フェスティバルです!!
それほどに思い出しません。
自分の時代にもやってたような気もしますし、
思い出さない分、辞めた以降のものの気もします。
何をどうするやつでしたかね????
そうですか。神奈川のほうなんですね。
そっちのエリアは↑本文の通りに関内しか行ったことないんですよね。
それぞれどんなカラーのお店だったんでしょうか?
場所が違えばフェローの傾向も違うので同じ色じゃないはずですもんね。
ラブフェスティバルってのもありましたね!
大船、鎌倉、東神奈川、上大岡・・・
よくヘルプにいってました
そんなに長くやられてたんですか!?
大学生活の最初から最後までってことですかね?
私も80年からなのですが、高1なので3つ年上っぽいですね。
当時の大学生連中は仲良くしてましたが、生意気なのでSさんには凄く嫌われ、
彼の大学生仲間の呼ぶあだ名を口にしたら、凄まじくヘッドロック食らったりして
お前は生意気なんだよ!未成年のくせに煙草も吸うし大嫌いなんだよ!調子に乗るな!と。
サモアさんがもし一緒だったらどっちだったでしょうか?
銀座店は大きな冷蔵庫があるので(店長も畑さんが北千住から銀座でなり立てだったし)カツとフィッシュのパテを切らせてしまったとき、
私があの緑のストライプのユニフォームのままにオーディエンスに笑われながら千代田線に乗って
お借りしに行ったことがあります。夜20時頃だったかな?
大学生は朝が多いのでシフトは違うかとも思いますが我々の一番近いニアミスだと思います。
でもこのHNは反則ですよぉ~。社員もフェロー全員もそうですもん。 ъ( `ー゜)
そうですか。目黒のほうで随分長いことやられていたんですね。
あーーー!フェローノートあるんですかぁーー!!羨ましい!
私は噂でラブが無くなるって聞いて、でもこの広告にもある村上さんが店長では無くなった時期で、
その晩年の頃にはバイトも社員も知りうる人は誰も居なかったんですが、
それでも私は図々しいので当時のMGRの方に以前のフェローノートがあると思うのですが、
なんでもバーガーキングになると言うことなので、是非譲っていただきたいとお願いに行きました。
先方は買収話があって、先日事務所の整理をしたんですけど、
その様なノートはありませんでした。といわれてしまって、
もう関係者ではないので、事務所や談話室やロッカーを探さしてくれとは図々しいにもほどが有るかと思って、
そうしたい気持ちを殺して諦めて帰った思い出があります。
(ショックだったのでその応対者の顔もそれきりだったのに覚えてる)
記憶の限りでは大学生の絵が上手な人のフェローらの似顔絵や、
女子の恥ずかしい様なポエムや、匿名で誰かが誰かに告白を書いてたりとか、
たまには愚痴もあるけど、キラキラとしたいわゆる青春の甘酸っぱいものがふんだんにありました。
それだけに代表として保管しておきたかったわけでして、
凄く残念で残念で悔しかったので(村上さんが店長の時に無理やり貰っとけばよかった。一応村上さんが持っていることに期待したいけど会うことが無いのです)
そちらの保存されている状況が恨んでしまうほどに羨ましすぎて、
もちろん同時にすっごく良かったですね!保管できてて!とお伝えしたいです。
私は年賀が数名で、2~3年に1度デートのように会う女子1名だけになってしまいました。
当時は30人も40人も集まれば集まったし、暫くはそれもありましたが、
学生たちが社会人になり、既婚者になり、転勤や職責が大きくなるとか
さまざまな変化がその時間をものすごい勢いで奪っていきました。
学校のクラス会なんかどうでもいいけど、こっちは確実に行きたいものでしたので、
もう少しどうにかしたかったです。音頭取りもまとめ役も何人も居たんですけど、
譲り合ったのではなく、上記の理由で距離が出来て行ってしまったんですね。
人生も半分ぐらい過ぎると、居なくなる人も出始めるので、率先してやりたいところですが、
みんなが今更と言って集まらなかったらと考えると怖いので出来ないんです。
なのでそちらは頻繁に連絡を取り合ってるというのは素晴らしいですね。
いつでも召集も掛けようとすれば掛かりますんでしょ?
いつまでもステキな仲間と時を共有できるのも羨ましいです。
どうぞフェローを大切に!美味しさ分け合おう!森永ラブ!
また来てくださいね♪
題名にも書いた通り、森永LOVEは私の青春の中心、全てと言っても良いくらい。
私は高校生から結婚・妊娠後期まで、学芸大学店で働いていました。
SVの方のお名前、フェローノート、フェロー同士の仲の良さ、全て「そう!そう!」と思い出される事ばかりで懐かしいです。
LOVEが無くなる時は、本当に悲しく、当時、SMだった私は、制服は
もちろん、レジ打ちのシート、フェローノート等を頂いて帰りました。
(公衆電話の横に飾られていた、
陶器の犬(かなり大きい(笑))も、破棄されると聞き、頂いて、その後 18年、未だに我が家の庭にいますU+2669)
現在も(年齢差問わず、本当に仲が良かったので)当時のフェローは、頻繁に連絡を取りあっています。
あの場所で学んだ、人との繋がり、接客、全ての事が私の宝物です。
長々と失礼致しましたU+2669
そうですか、受験時期のお供的な小さな支えがラブのテリヤキだったんですね。
それもまた間違いない青春の1コマですね。
でもテリヤキも後発メニューですので、Dividさんは私よりお若いようです。
あれは確かモス→ラブ→マックと模倣が連鎖して行きましたので。
私は東久留米店を知らないんですけど、当たり前ですがどこで食べても同じ味です。
高校受験とすれば中学生ですから、基本地元以外滅多に行かないですよね。
東久留米店の森永ラブしか知らないけど
そうです。6月のオープンでしたね。
高校に入学して2ヶ月で、バイトも探し始めた時期でした。
学校はバイト禁止でしたけど、お構い無しに。
茅場町!?
・・・ってことは紅葉川ですよねぇ~?今は無き。
現在警察署になってますよね。
紅葉川にいってる子居たなぁ。誰だっけなあ??
思えば日本橋銀座界隈って高校無くなってますよね?
移転とか合併とか。
他に京橋も日本橋ももう無いですもんね。一橋は残ってますね。
それにしても紅葉川誰だったかなぁ??
ひまわりさんは個人を特定しない感じですけど、正解を示したいなぁ…。
久保田か小滝か中山だった気がするけど、当時2年か3年だしなぁ。
もし一橋だったら熊倉が居るなぁ。1年だからそこかなぁ?それとも小林?
下の名前だと、忍・安輝子・まゆみ・芳子・ひろみ。
この中に1年は1人しか居ないので正解は居ないっぽいけど、どうかな?
学校辞めちゃったんですか!?
なんか私ら似てますね。
私はそこまでしなかったですが、大学生が1名都合付かず、
ある日のオープンのシフトにMGRが悩んでたんです。
そこを中間だか期末真っ最中の私が名乗りを上げて
「俺が入る」と、「高校生はまずい」と躊躇したMGRを他に居ないじゃんと押し切って入ったことがあります。
どうせ追試受ければいいことだしと言って。
当該MGRも25歳と若かったので、私をOP組みました。
単純に一度ベーコンエッグマフィンを作ってみたかったんですよね。
いつも18時か19時からクローズまでのシフトだったんで。デー番も無かったです。
ということで、LOVE命だった感覚は互いに同じかなと。
これは北千住だけかと思ってましたが、
結構あちこちの店舗でも愛社精神以上に愛している人が多かったようですね。
2番目に若かったMGRが芝浦店に移動になり、みんなで冷やかしに行った時にも
芝浦も学校が近いし学生が多く、みんな千住と同じような感じだと言ってました。
更に似ているのが、北千住は2Fは森永レストランだったんですよね。
今は結構長くベッラベッラですけど。
そこの女子バイトも私のシフト時間に6~7人の集団で買いに来て、
一部一般の女子のお客さん同様に私にキャー言ってたんですよね。
その中で1人気に入った子が居て、その子もその中でもかなり私に熱をあげてたらしく、
伝言が私に伝わって、私も気になっているということで急接近。
だけど互いに(特に相手の)イメージという妄想が相当の悪い男だったようで、
現実はそんなに悪くは無いので(何股も掛けられて振り回されたかったっぽい)
イメージと違うといわれて早々に去って行かれましたよ。∵ゞ(≧ε≦o)
こっちも大人しそうだったのに過激なニーズがある子だと驚いて、
君のイメージも違うと言いましたけど。
アッコの中学の後輩で(ということで2年のときの出来事)
アッコはあの子はやめたほうがいいと思うって言ってたんだよね。
思うと2つの意味があっての言葉だったんだけど。
北千住は金八シリーズの舞台だったし、武田鉄矢は無かったんですとけど、
私らが1年の時は、新八先生をやってたので、
岸田智志とディレクターらしきが午前中に来店し、
撮影許可をお願いしに来たんですよ。
NOと言わせないための岸田さんと、その岸田さんがサインを残して行ったんですよね。
それもバーガーキングに買収されたと同時に廃棄されたと思われます。
新八先生のDVDでも見れば、当時の北千住店が出てくるはずです。
そういうわけで私は映ってないですけど、記憶だとMGRは映ってました。
やだなぁ~ラブの仲間だなんて…我々はそこはフェローと呼ばないと! ъ( `ー゜)
岸田さんのサイン以上にフェローノートがバイト連中の青春が凝縮された宝物でした。
私もバーガーキングになり、フェローノートの受け渡しを願って行ったんですけど、
きちんと探されたのか、されなかったのか、渡してくれそうな空気でしたが
無かったですと突き放されてしまいました。
なかなか今でも見たいほどの、ほぼ全てのメンバーが
ポエムやら出来事やら、告白やら、ちくりやらマンガやら満載でしたのでね。
ちなみに私が銀座店にフィッシュのパテとか借りに行ったのは見てないんですよね?
20時台だとシフトじゃないのかな?何時頃だったかは覚えてないんですよね。
緑の縦じまのあの制服で日比谷線に乗って
(みんなにニヤニヤ見られて結構恥ずかしかった)
フィッシュとカツのパテを借りに行かされたんです。
確か2回ほど。
この話は尽きないですね。また来てくださいね。(^-^)
私と友人はそれこそ高校に入学して知り合い、仲良くなり、それで一緒にラブで働こうってことになったんです^^
高校は茅場町だったので、学校帰りに私は上りで銀座へ、友人は下りで帰宅がてら北千住店へ、と大きく分かれてしまいました
なので、行き帰りだけで若いながらも体力を消耗してました(苦笑) 間もなく私は学校をやめ、ラブ一筋(笑)になりました 二足のわらじがキツイならバイトのほうを辞めればいいのに^^; それからは早朝~昼過ぎまでシフトに入ったので、朝の通勤客のお客さん相手中心みたいになりましたよ
遠い記憶では・・小森のおばちゃま、もんた&ブラザーズのもんたよしのりさんがいらっしゃったのに遭遇しましたが、山田邦子さんが働いてたっていうのは全然聞いたことないです、、、あ、そのときはまだ有名人ではないからわからなくて当然か?
でももう一緒に働いてたかたのお名前は、まったく覚えていません・・私がその早朝~のシフト時代は、大学生のお兄さんお姉さんに囲まれてとてもかわいがっていただきました☆
銀座店があったビルの上の階に当時、トップス&サクソンというカレー屋さん?があり、そこのコックさんがラブにハンバーガーを買いにいらっしゃって、私は15歳ながらコックさんに一目ぼれしてしまい(笑)それをお姉さんたちに報告(笑) お姉さんたちはすぐにコックさんに伝えに行くという、いま思うと本当に幼い子供、でも楽しかった思い出です
そんな頃、ぜっとし様は北千住店にいらっしゃったわけですね~
店は違えど、同じラブの、仲間だったのですね
何十年も超えてこうして語れる場を提供していただき、ありがとうございます
また来ます、失礼します
コメントありがとうございました。
ムダ話なんて何を仰る。本題があって横の話がムダ話です。
これは本題なので無駄はひとつもありません。
ご謙遜を感じて奥ゆかしく可愛いと思ってしまいました。
私と同じオープニングの時期ですよね~。
なんと私ら同じ年じゃないですか~。
千住に友達が入って自分は銀座…。
なんか当時そんな話聞いた記憶があります!!
でも同級生の女子は…安輝子・ひとみと本文にある有美子。
その辺が初期メンバーですねぇ。
シフトが一緒になったことが皆無に近いのが、田崎さんと谷口さんって居ました。
銀座の話は2つ上の忍がよく言ってたんですけど、
よくよく思い出すと、彼女は銀座店でバイトしてて北千住が出来たので、こっちに来たフェローでした。
誰だったかなぁ友達は銀座になっちゃったって言ってたの。
良かったらお友達の名前だけ書いたコメいただけませんか?
コメは私が許可しないとUPされないので、フルネームの本名を晒す事はありません。
このコメントに対する返答がもしあったら、それとは別に書いてくださいね。お願いします。
銀座店って山田邦子さんが居たんですよね。
会ったことあります?その頃まだ居たような??
アイスは私はラムレーズンが好きでした。あとモカ。
そうです!ラブの代名詞はツナマフィンです!!
近年マックが真似してやりましたが、鼻で笑っちゃいました。
私は仕込みもしてたので、レシピも覚えているから再現して作りましたよ。
古い記事は事情により下げたものもあるんですが、このブログでも再現したそれを紹介しました。
千住が地元でしたか。
そういう子は高校1・2年で言うと…
冨美子・まゆみ(真弓?)・悦子・芳子・有美子だなぁ。
他にも居たと思うけど、マッチするの有美子だなぁ。
有美子なら今でも時々会ってますけど。
男子だと松本しか覚えてないなぁ。千住に住んでたやつ。
HNのひまわりさんから女子だと思ってますけど、合ってます!?もしや男子!??
また是非来て下さいね。コメント待ってます。
フト、昔を思い出しバイトしていた森永LOVEを検索しまして、こちらに寄ってみました、突然失礼致します
私は昭和55年の夏に(高校一年生でした)森永LOVE北千住店でバイトしたくて友人と面接に行きました
友人はそのまま北千住店で、私はなぜか“銀座店”へ行くように言われ、あらためて銀座店で面接し働くことになりました
そうですね、当時の時給は400円だったのですね~今更ながらそれでも頑張ってたんですね!
北千住店は友人もいたし、地元だったので何かとよく行ってましたが、いつでもお客さんで賑やかでしたね、懐かしい気持ちでいっぱいです^^
銀座店は場所柄相当な広さと混雑ぶりでしたが、若く元気いっぱいで、楽しく働けました、アイスクリームなんかもありましたよね?^^ 個人的にはツナマフィンが大好きでした、身近にあるハンバーガーショップではツナマフィンが食べられず残念です
もう30数年も前の、でもとても楽しかった時間、ここで振り返ることができました、ありがとうございました!
(無駄話、大変申し訳ありませんでした)
自信のアピールですので信用して追記しました。
どの辺ですかね?
三宿の吉牛の辺りでしょうか?
…やはり記憶が無いんです。
ゆえに新しい店舗で、短い期間の営業だったと思われますね。
そう思うと下北には何で無かったんだろうと、
三茶の部分を下北沢に変えました。
祖師谷や狛江は成城にあるから無いんだと理解できますけどね。
センター街や幡ヶ谷に有ったからですかね?
福島さんという方は存じあげないです。
レストラン事業部の方は鳥羽さんという方だけ知ってます。
店長だったかと思いますが、なかなかの色男でした。
その時代には岸田智史さんのサインってまだ飾ってありましたか?
金八第1期の次にやった1年B組新八先生でロケに来た時に
その許可の謝礼で岸田さんが書いてくださったんですよね。
ラブは人に恵まれたと思える環境ですよね?
私が居なくなってからもずっとそうだったんだと思うと嬉しいです。
私もあの期間にバイトでも携われたことは誇りに感じます。
なにせ後の映画にも外せない要素として出てくるんですから、
時代を作る一端を担ったんだと感じました。
そういえば畑さんに「社員になれよ」と言って頂いたんですが、
MGRたちの愚痴を聞いている限り、やめといたほうがいいかなと思って
ならなかったことを思い出します。
主に休みの不満と賃金の不満ですね。
確かに大卒の初任給は相当安いなぁと思いました。
ぬーぼー・・・スイマセン。覚えてないです。
やはり当時に無かったメニューですので…。
いえいえ、お礼なんてとんでもありません。
私のほうこそコメントいただけてとても嬉しいです。
いつでもお話があればコメントくださいね。
ちなみに私はぬーぼーバーガーが好きでした。また食べたい!
え!?同じ北千住じゃないですか!!
私のほうが先輩ですが。(バイトのクセに)
私はグランドオープンから居ました。
まだ完成していないので銀座店で面接したような気もします。
メイプルベルさんの時代は私は客でそこそこ行っていますよ。
多分カウンター越しに顔を合わしていますね。
もしかしたら「以前のフェローノート、事務所に残ってないですか?」
こう聞いた社員さんがメイプルベルさんだったのかもしれません。
(凄まじく輝いているくだらない内容満載の全フェローの宝物でした)
確か・・・大卒間もないような、
結構顔のいいすらっとした方が居た記憶がありますが、
もしやその方ですか??
パスタとかやってた当時ですよね?90年ごろは。
あのメニューはドン引きでした…。
ツナとチキンで勝負せいや!!と思ってました。
畑さんは大きくて暖かくていい人でした。
高校生の小僧にもそれを感じることができる人でした。
なので次の北川さんが店長で来たときは、
顔がヤクザ顔なのもあって、嫌悪感から入りました。
でも北川さんも面倒見のいい目下にも小ばかにしない立派な人でした。
その畑さんの最後の店長としてのメンバーとして、
SV昇格の歓送迎会を行ったのですが、
その日は我々の飲み会御用達のもんじゃ屋「つばき」で行われ、
当然私も参加しましたし、別れを大変名残惜しんだのを覚えています。
しかもそれだけでなく、その日誰とどんな話をしたり、
誰がどう言う催し物を出し物としてやったかなどまで。
・・・機会があったらその飲み会の様子も書いてもいいかなという感じです。
又何か、思い出話でもありましたら、お聞かせくださいな。
当時村上MGRは店長でいらしたんでしょうか?
そう言うわけで主に東京にしかないほどのイメージで、
実質関東近県に数店(神奈川は多数)あった程度の展開でした。
なので神奈川が最西端のはずですが、
噂では晩年ぽつんと1店のみ京都にあったらしい話。
それなのかも知れませんね。
でも私がいた時代ではなく、別の店状態のものですので、
同じ味と時は共有されていないと思われます。
(多分パスタやライスバーガーの時代)
50年代と書かれてますが、それも終期だと思います。
1980~82年には無かったですので1984年とかかと。
といいつつ実は私は下京区烏丸通下ルの御所のまん前にある
某企業に何度となく行っていて、修学旅行だけでしか
行ったことない程度以上には縁があるのですが、
この時代は修学旅行だけでした。
そのときはまだ三田や銀座にしか無かった時代です。
京都の三条新京極下るのあたりに、確かに在ったと思うのです。
私も昭和50年代に、何度か食べた記憶があります。