最近聖書のなかの詩篇を読んだりなどしている。
非キリスト教徒の僕には聖書そのものは敷居が高く、まだ読めてはいないのだが旧約から引き継がれた詩篇はキリスト教徒には大事なものなんだそう。
昔の聖職者は詩篇の暗記が条件にもなっていたらしく、それくらい価値のあるものだ。
来住英俊さんという神父の方の「詩篇で祈る」という本をきっかけにキリスト教についても少し勉強してみようとなって、この方の三部作の本を買ったがまだ全ては読めていない。
この方の経歴はこれまた面白く灘→東大文Ⅰで神父になるという。
詩篇で祈るというところがミソで詩篇を祈る訳ではない。
詩篇の内容そのものは正直わかりません。
詩篇を学ぶわけでも、解釈する訳でもなく、ただ読むのではない。
詩篇で祈るとは詩篇を使って自身が祈りることである。
ところで僕を含む無宗教の人には祈りってなんやねんわからんわという感じもあるが、目的というのは感情を出すことにある。
詩篇に乗せて自分の感情を出すことにある。
それだったら音楽でも映画でもなんでもいいじゃないかと思うかもしれないが、現代の我々はそういう言葉を失っていることが多い。
これは全く批判ではないが、例えば今流行りのうっせぇわという曲に代表されるように、短フレーズ感情を単にその場その場で発散させるようなものはあるのだが、感情を抉り出すような重々しい言葉はあまりないというか、失いつつある。
詩篇に出てくる詩はまさに切迫な文言が並ぶ。
怒ったり悲しんだり嘆いたり、誰でも思うことが昔の人にもあったんだなも思うと同時にここまで怒ったり悲しんだり嘆いたりすることって現代の人はうまくできていないんじゃないか。
そして詩篇で祈るとは感情の発散とは違う。
祈りは当然神に向かってするものだからである。それは発散はされない。
詩篇をきっかけにそういう気持ちを出してみるのもいいものだなぁと思う。
しかしやはり当たり前のことだがキリスト教徒ではない僕にとっては神が聞いてくれているかどうかということについて確信はない。
だから、なんというか本物のキリスト教徒ほどにはうまくできないと思う。
それでまぁそもそも詩篇の前に詩に興味を持っていて(詩を読もうとして詩篇にたどり着いたのだった)最近は詩集なども読んでみたいと思っている。
今時詩を読むひとはかなりマイノリティらしいが、詩篇で感じたのは詩が一番感情をむき出しにできそうだということだった。
名言のようなものは自分を鼓舞したりするにはまぁいいかもしれないが、それ単体では味気ない。
僕が詩を読むのは詩を解釈したいわけでも面白いからでもなく自分の感情を引き出すとっかかりになるからである。
感情は出さないと心の底で腐る。腐臭を漂わせ、何かをきっかけに溢れ出す。
詩の内容そのものは自分と全く関係のない世界で構わない。
その詩の世界を通して表現された悲しみ怒り喜びに自分の悲しみや怒りや喜びを乗せてみる。
そうすることでようやく自分の感情を吐露できる。
現代人は自分は感情を出してるつもりでも、実はそれほど出してない。というよりもそもそも出す方法自体がなくなりつつあるし、出したとしても出きらない。
急にどっと出したりもする。そもそも感情出すのが下手になってきているのだ我々は。
詩で出す感情とは何かが悲しいわけではない。ただ悲しいということである。
例えば誰かの死を悼む詩があったとして、その詩を読んだ時にその人が死んだことが悲しいなぁと思うことは単なる解釈である。
それ自体に感情移入するわけではないし、誰もできないだろう。(知らない人の死に感情移入していたら精神がもたない)
この詩を書いた人はこの誰かの死をこんなにも悲しんでいるのだというそこがとても大事。
その人が死んで僕も悲しいです、とはならない。悲しんでいるその情景に自分の悲しみを同じ量だけ乗せられる。
詩の中に表現される悲しみの感情に自分の悲しみを乗っけるという営みである。
自分の中で悲しい時はこれ、楽しい時はこれ、辛い時はこれ、みたいな詩を探すのもなかなか楽しそう。
感情は腐る前に出す、それには詩が一番だ!
という詩のススメでした。