雑記zaki

日々の雑記

詩篇のススメ

2021-02-10 21:52:00 | 日記
最近聖書のなかの詩篇を読んだりなどしている。

非キリスト教徒の僕には聖書そのものは敷居が高く、まだ読めてはいないのだが旧約から引き継がれた詩篇はキリスト教徒には大事なものなんだそう。
昔の聖職者は詩篇の暗記が条件にもなっていたらしく、それくらい価値のあるものだ。

来住英俊さんという神父の方の「詩篇で祈る」という本をきっかけにキリスト教についても少し勉強してみようとなって、この方の三部作の本を買ったがまだ全ては読めていない。
この方の経歴はこれまた面白く灘→東大文Ⅰで神父になるという。


詩篇祈るというところがミソで詩篇祈る訳ではない。
詩篇の内容そのものは正直わかりません。
詩篇を学ぶわけでも、解釈する訳でもなく、ただ読むのではない。
詩篇祈るとは詩篇を使って自身が祈りることである。
ところで僕を含む無宗教の人には祈りってなんやねんわからんわという感じもあるが、目的というのは感情を出すことにある。
詩篇に乗せて自分の感情を出すことにある。

それだったら音楽でも映画でもなんでもいいじゃないかと思うかもしれないが、現代の我々はそういう言葉を失っていることが多い。

これは全く批判ではないが、例えば今流行りのうっせぇわという曲に代表されるように、短フレーズ感情を単にその場その場で発散させるようなものはあるのだが、感情を抉り出すような重々しい言葉はあまりないというか、失いつつある。
詩篇に出てくる詩はまさに切迫な文言が並ぶ。
怒ったり悲しんだり嘆いたり、誰でも思うことが昔の人にもあったんだなも思うと同時にここまで怒ったり悲しんだり嘆いたりすることって現代の人はうまくできていないんじゃないか。
そして詩篇で祈るとは感情の発散とは違う。
祈りは当然神に向かってするものだからである。それは発散はされない。
詩篇をきっかけにそういう気持ちを出してみるのもいいものだなぁと思う。
しかしやはり当たり前のことだがキリスト教徒ではない僕にとっては神が聞いてくれているかどうかということについて確信はない。
だから、なんというか本物のキリスト教徒ほどにはうまくできないと思う。

それでまぁそもそも詩篇の前に詩に興味を持っていて(詩を読もうとして詩篇にたどり着いたのだった)最近は詩集なども読んでみたいと思っている。
今時詩を読むひとはかなりマイノリティらしいが、詩篇で感じたのは詩が一番感情をむき出しにできそうだということだった。
名言のようなものは自分を鼓舞したりするにはまぁいいかもしれないが、それ単体では味気ない。
僕が詩を読むのは詩を解釈したいわけでも面白いからでもなく自分の感情を引き出すとっかかりになるからである。
感情は出さないと心の底で腐る。腐臭を漂わせ、何かをきっかけに溢れ出す。
詩の内容そのものは自分と全く関係のない世界で構わない。
その詩の世界を通して表現された悲しみ怒り喜びに自分の悲しみや怒りや喜びを乗せてみる。
そうすることでようやく自分の感情を吐露できる。
現代人は自分は感情を出してるつもりでも、実はそれほど出してない。というよりもそもそも出す方法自体がなくなりつつあるし、出したとしても出きらない。
急にどっと出したりもする。そもそも感情出すのが下手になってきているのだ我々は。

詩で出す感情とは何かが悲しいわけではない。ただ悲しいということである。
例えば誰かの死を悼む詩があったとして、その詩を読んだ時にその人が死んだことが悲しいなぁと思うことは単なる解釈である。
それ自体に感情移入するわけではないし、誰もできないだろう。(知らない人の死に感情移入していたら精神がもたない)
この詩を書いた人はこの誰かの死をこんなにも悲しんでいるのだというそこがとても大事。
その人が死んで僕も悲しいです、とはならない。悲しんでいるその情景に自分の悲しみを同じ量だけ乗せられる。
詩の中に表現される悲しみの感情に自分の悲しみを乗っけるという営みである。

自分の中で悲しい時はこれ、楽しい時はこれ、辛い時はこれ、みたいな詩を探すのもなかなか楽しそう。
感情は腐る前に出す、それには詩が一番だ!
という詩のススメでした。

承認欲求はダメだという風潮はダメだ

2021-02-10 00:46:00 | 日記
そもそも僕たちの存在は他人から来て他人によって承認されて初めて立ち上がる。

親という他人から生まれてきて命名されそれを承認されて初めてヒトになる。

誰も他人抜きで存在することができないというこの事実一つとっても承認欲求を捨てるという主張が馬鹿げた絵空事であることがわかると思う。

嫌われる勇気とかいう本が流行る前に僕も買って読んだことがある。最初から衝撃的ですごいなと思ったが2回か3回読んだらとてつもない違和感が拭えず処分してしまった。
最近になってその承認欲求云々についてなんか書こうと思ったのは、YouTubeでなんか東大理科三類の人が塾で小学生にお話しする動画を見たからである。そこで、他人の期待がなければ頑張る理由もない的なことを言っていた気がする。他人がいないのなら別に何もかもする必要がない。何かしようとするのはそこに他人がいるからだ。

それでその違和感は他の思想やライフハックや哲学にまで広がっていった。
結局のところ生と死を扱わないようなものは僕にはあんまり合わないんじゃないかと思った。
例えば嫌われる勇気の目的論にしたって、誰も目的があって生まれることを選んでいないわけだから土台で失敗している。
土台失敗してるから全体としてこじつけのような違和感にしかならないのである。

思想にしても哲学にしてもある一部分を切り取って、こうだあーだ言うのはそれを理不尽に生み出す/奪い去る生と死を前にしたらなんだかあってもなくてもいいようなちっぽけなものに感じる。
ライフハックも同様。ただ人生の今この瞬間たったこれだけを良くしたいというのはあんまりうまくいくないように思った。
結局人生全体にわたってどうするのかを考えた方が結果的に目の前の小さな現実も変わる気がする。
ボトムアップで目の前のことからやろうとすると何もかも重要に見えて行動が止まる。
ゴールが見えていれば目の前の膨大なタスクも優先順位が決まるし、やらなくていいこともわかる。

しかし他方で夢を持たなければダメだという社会もダメだと思う。
某プ◯ルを見た東野が夢を持たない人間はダメだと言われてるように感じたと言うが、まさに今の社会はそのような風潮がある。
夢を持って大きなことをすべきだ、個性を出してオリジナルで、自分のやりたいように生きよと。
でも本当にそうだろうか?いつからそんな夢を持たなければ生きる価値がないみたいな風潮ができたのか。
結局金である。金をもっと効率よく動かすには夢を持ってもらわねば困る。
むしろ夢を背負って苦しんでる人が多すぎる。いいじゃないか夢を持たない人生でも。

夢と同様に個性もよーーーーく言われる。
日本の教育は横並びで個性が出せないと。
でもね、ある程度ならしてもなお突出するのが個性だと思うんですよね。

例えば太陽の絵を描いてくださいという指示と自由に絵を描いてくださいという指示だったらどっちの方が個性が見えるかと言ったら太陽の方なんですよ。
自由に絵を描いてという指示だとみんな各々普通の絵を描くはずです。みんなが描くようなことを描く。ある人は家族の絵、ある人は動物の絵、それでどれが個性なのか?とは分かりません。絵のうまさはわかるだろうけど。
一方で太陽の絵というとそこには明確な差が出てくる。だいたいは同じような太陽の絵を描くだろうが、こんな太陽の絵を描くのかというのがはっきりと出てくる。
ある程度枠を作りそこからはみ出たものが個性として初めて認識される。
もしその人が個性的ならどんなに枠に入れようとしてもはみ出る。だからこそそのたまに枠が必要なのだ。
枠がなければはみ出ていることに気づくこともない。