雑記zaki

日々の雑記

自殺しないための工夫、子どもの自殺が過去最多というニュースを見ました。

2021-02-19 22:03:00 | 日記
コロナと関係があるのかわかりませんが。

四つの約束という本の中の一つの約束に個人的に受け取らないというのがあります。

あらゆることの問題は自己そのものです。
ダイエットしてる人はデブが嫌なのではありません、私がデブなのが嫌なのです。
病気の人は病気が嫌なのではありません。
私が病気であるのが嫌なのです。
他人が太っていようと、病気にかかっていようとそれが嫌になることはありません。それが身内であったとしても悲しくはなるでしょうが、自分に起きるほどのリアルさはない。

それをまず自覚すべきなのだと思う。
この私という自意識が問題なのだと。
しかしそう簡単にはいかない。現に苦しいし、辛いし死にたいという人にとってはそれは本当にリアルなことである。

行動よりも思考を変えることの方が難しいと書きましたが、自殺においてはまさにそうなんですよね。飛び降りればそれで終わってしまいます。逆に何があっても絶対に死なないぞと考え方を変えるのは容易ではない。

ポジティブに生きようよ〜とか生きていればいいことあるよとか
もっと辛い人もいるんだよとかそんな文言クソほども役に立たない。

一つには人生を有意義にしようという圧もあると思うんで、人生なんか無駄にするくらいで思っとくべき。利益生産性効率、そんなもん全部捨てる。
何かに失敗、親が糞、学校でいじめられる等子どもの悩みと言ったら大抵これくらいだが、然るべき対応を取るべきだ。耐えてはいけない。
これも自分にこだわるから耐えるわけだ。自分はこの扱いでいいと思うから耐えてしまう。
これが他人ならきっとそうは思わないだろう。
警察に通報するなりなんなりするはず。
でも自分ごとだと耐えてしまう。

徹底的に無駄で何の役にも立たない人生大いに結構。図太く生きてみませんか。

ちなみに今日すでに2つほど記事を書いて納得がいかず下書きです。
概念的な話は難しい。

自己肯定感という病

2021-02-19 01:48:00 | 日記
そういえば玄侑宗久というお坊さんの方が書いた本、なぜか途中で読むのを中断していたことを思い出した。
まわりみち極楽論という本。

この人のないがままで生きるとい本も気になっていた。

あるがままではなくないがままである。

努力型の自己啓発と対置されるのがあるがまま系の自己啓発だと思う。
努力が強調されればされるほど疲れてあるがまま系の本に走りがちである。
ただし、あるがままもまた役に立たない。
生まれてからあるがままの状態であったことなんて誰もないからだ。どれをあるがままの自分と呼ぶかは結局その人次第の思い込みに過ぎない。

自己肯定感という話にもつながる。昨今自己肯定感が大事だと言われるが、それもやはり無理があるのではないか。無論自分に価値はないとかそんなこと思う必要もない。だからといって自分が大好き自分が大切だと無理に思い込もうというのも違う。
別に思い込んでそれで幸せなら構わんけど。
でもどっいにしろ思い込みに過ぎないからどっちに振り切っても無駄で。
自己になんか肯定させてないで、他人に肯定されるような生き方をした方がよっぽどいい。
自己肯定感なんていうものは他人に受容されればされるほど上がるのだから、他人抜きで自己肯定感だけを求めてるのは病的である。

ただ仏教的なものを学んだときに思ったのがそれ自体ではあまり楽しく生きられないなぁとも思ったんです。社会的成功と仏教はやはり相反すると思う。
昨今では前にも書いたが生産性や利益のためにマインドフルネスをするという煩悩丸出し仏教も流行っているが。そういう偽物を除くと理論と合わせた上で、社会的な成功に繋がるように教えを活用できるものは無いと思う。
やはり現世利益の部分を考えるには密教も必要なってくると思う。どこまでそれを受け入れるかというのはかなり難しい。
煩悩を煩悩と認識した上で煩悩を楽しむというのはかなり高度。
かといって煩悩丸出しで金!暴力!SEX!などと言って生きることもできないのが俺という人間。
それで生きられる人はそりゃ経済長者になる。金とか女とか地位に本当に価値を感じてそれのために突っ走ることが出来る人は金持ちになれる。残念ながら俺はそうは思えない。普通の人は思えないですよ。そりゃあればみんな欲しいに決まってる。でも絶対になきゃいけないものだまでは思えないと思うんですよね。
なきゃないで別にそこそこ生きていけるわけだし。それが正常なんですよ。

なのでバランスとりながら広げていくのがよく生きるのには必要なのかな。
煩悩に乗りつつそれに乗っていることを意識する。煩悩ばかり追いかけて見失うとそれが手に入らないことに辛くなる。手に入っても入らなくてもどっちも同じだという意識をもってその上で求める。
それが唯一理論と実践を成り立たせるものだ。