まだ25日の午前8時台ですが!
2014年9月13日、石塚観光ボランティアバス ⑧ @ <<仙石線・震災時の東名駅>> @ 石塚観光
ふと。
この過去の記事、
大分以前のものなのに。
忘れられているような記事なのに、
たった数回のアクセスとは言え、
どなたが閲覧して下さったんだろう。
ボランティア専門のブログは、
既に閉鎖してます。
あまり現地の悲しい画像・景観は、
胃分も思い出すことにも繋がるし。
ボランティア活動自体の「そのもの」に対して、
不快に思った方もいたようで、
痛烈な言葉ももらったことありました。
ま、
気にしていられないけど。
僕から言えば?
やるか・やらないか、
なのです。
信念もってボランティアやってたし(少なくても僕自身の気持ち
でもね。
たまーーーーーーーーーーーーーーーーーーに、
抗議のメッセージが届いたこともありましたよ。
何も行動を起こさない人に、
抗議やお叱りをもらったって?
僕からすれば・・・・・・・・、
何もアクション起こさないで「口」だけの人よりは、
正直な言葉で言うと、
マシじゃん!
って言える自信があったんだ。
そのくらいボランティアって、
本気やればやるほど重労働です。
往復のバス車内で休めるけれど、
リクライニングがあるとは言え?
バス車内での往復就寝ですからね。
(中にはお喋りで賑やかな人達が・・・・・・居て眠れなかったりしたけど
常磐自動車道が不通だった数年間は、
東北自動車道経由で片道でも1時間は多くかかった。
片道5時間~(震災直後は道路状況の影響で片路時間)で着くか?
数年後に常磐が復旧したので4時間に?
その「1時間」は大きかったです‼
ほんと。
バス車内は空間も空間だし長時間の着席は、
キツカッタです‼
でも、
今の僕はサービス業へ転職したので、
もうよほどのことがない限り(冠婚葬祭か子供ちゃん関連行事くらいか?
日曜・祝日は休めない業種となりました。。。。
別な意味での心残り、
ボランティア(東北・宮城県への)に参加出来なくなったこと。
ここ数年間自体、
ボランティアへの参加頻度も激減してましたが。。。。
宮城県へのボランティア。
沢山の人と出会い、
数えきれない悲しみを見てきた東北。
沢山の子供達を奪った小学校での悲劇。
道路上に添えられている献花。
道路に建てられている手書きのメッセージ。
脳裏に焼き付いているたくさんの被災地。
飾られていた生前の写真。
ランドセル。
供養の手書きメッセージ。
お地蔵さん。
これだけの年数が経っても過ぎていても、
この2年間はほんの数回程度に足を運ばなくなったけれど、、、、
だからその反動か?
極々「稀」に悪夢にうなされます。
大事な家族を失う夢。
まさか。
これだけ3.11からも年数が経っていて、
この2年間すらボランティア参加頻度が「ほんの」数回程度に、
激減・・・・・・足を運ばなくなった。
時間もお金も自己投資になる訳で、
家族全員で参加していた頃は、、、、、、、
3人の参加費も馬鹿にならないし、
翌日への疲労の繰り越しも、
ほんとキツかったと思うんだ。
こんな言い回しも、
幾度となく話して来ました。
当初。
毎月ボランテイアに参加していて、
人のお役に立つとかそういう以前に、
あの怖さを味わてしまった人達へ、
体感したしまった人達へ、
何かをしてあげたい、
と(こういう言い方も身勝手そのものですが)
その一心かな。
僕が、
僕がですよ??
そんな気持ちにれるなんて、、、、、驚きだけど。
それ以前の僕は、
間違ってもボランティアには無縁で、
募金で良いだろう?みたいな価値観でした。
ほんと。
別人と言っても過言じゃないし、
人は人、
自分は自分。
そう言った人生でした。
困っている人達が他人事に映ってました。
でもキッカケは神様が与えてくれた?
みたい。
全然嬉しくないけど!
関心を持たなかったから、
神様にお灸を添えられたようです。
それはなぜかって?
3.11。
僕も仕事中に(千葉県から茨城県への帰路=海岸線から内陸への「一般道」走行中)
茨城県の神栖市(鹿島港からの津波が数Kの範囲で発生)で高さ10数M以上の津波発生、
営業車で走行中に眼前の津波に『追われました』から。
まさに。
身の毛もよだつ。
とはこういうこと。
全然嬉しくない誰にも経験できない事象です。
ボクシングの試合と比べられないけれど、
今まで体感したことのない(見たことの無い)映像。
恐怖。
肉眼で目の前に押し寄せて来る10数Mの巨大な津波。
左右視野の全てが、
全ての左右の全てが津波なんです。
あの目に焼き付いた津波も、
味わった恐怖も、
幾度と無く悪夢に出て来ます。
3.11のブログも別途立ち上げていたけれど、
今では閉じちゃいました。
被災地の生々しい写真。
現地に添えられている生前の写真。
歩道での献花。
手書きメッセージのボード。
数えきれないくらい悲しいことを見てきたことで、
決して後悔はしてないけど。
まさか?
この精神的にタフなはずの僕が、、、、、、
と思うくらい。
ひょっとしたら?
こういうのをトラウマって言うんだろうか。
被災地と言っても、
茨城県に住んでいるし、
茨城県の被災も地域によって「天と地」だし。
且つ、
僕が住む水戸市は被害に遭った方には、
言葉を選ぶようだけど・・・・・・・・・・・・・・。
同じ被災地とは(東北とは)決して同じ「くくり」は、
ダメなんじゃないかな。
っと思ってる。
東北被災地を見て来ちゃうとね・・・・・・。
(茨城県で被害に遭った方、ごめんなさい)
東北。
被災地。
当時の沢山の写真は、
外付けのHDに保存済。
思い出したように触れてしまったのですが、
ふと。
過去の記事で忘れられて当然なのに、
僅かだけど本日参照数が出ていたので。。。
by おやじボクサー
私も一人で夜の高速を飛ばして小型トラックの車内で体をくの時にして2時間ほどの仮眠、午前中だけのボランティア作業しか出来ず、お昼には現地を発ち帰宅は夜。
24時間往復1,00kmを走る南三陸町へのボランティアを今やれるか?と問われれば不可能でしょうね。
火事場の馬鹿力だったと思います。
まさかあのページへコメント戴けるとは・・・・・、
驚きました。
だからこそ。
驚きました!
でもすっごく嬉しいー‼
このブログでも、
反感(非難)されたりしたこともあって、
当時は凹みましたが。。。
当初の1年間は友人と自家用車で向かっていたので、
まだ運転は交代ですみましたが、、、
単独で向かう勇気が僕には無かったです。
南三陸でしたか?
確かうろ覚えですが、
復興「さんさん商店街」(名前間違ってたらすみません)何度か寄った記憶在ります‼
ボランティア登録での活動(当初)は、
三陸鉄道「東名駅」周辺がメインでした。
その後、「大川小学校」にも許可を受けて(ボラ・バス運営会社さんが)特別に、
整理・清掃で敷地・学校内に入れるようになりました。
何度、入ってもキツイ(心の面で)のが、
大川小学校でした。
海岸線。
等々、
色々な地区を回りましたが、
金銭的・時間・体力の消費、言い訳にしかななりませんが、、、、
50回未満です。
同じくボランティア参加している人などは、
毎週来てましたので、、、しかも県外から。。(茨城県から発着のあるボラ・バスがありました)
こんなブログ見付けて下さって、
本当ありがとうございます‼