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第33 罪人は一刻も早く改心すべき数箇条の理由

2023-01-26 04:46:12 | 心戦
第33 罪人は一刻も早く改心すべき数箇条の理由

 罪人を一刻も早く神に立ち帰らすよう、勧めとなるべき第一の理由は、先ず神そのものの観念である。神は取りも直さず最上の善にして、極めて全能全智全善なるものにてましますに、如何にして人が厚かましくもこれに背き、これに抵抗する事あるべきや。

 罪びとの身として、これを審判すべき全能者と争うのは、愚かの甚だしき事ではないか。ただに愚かなるのみならず、大いなる不正且つ忘恩である。実に何にも成らぬものなる被造物が、造物主に背き、下僕たるものがその主人に手向かい、限りなき恩を受けたものがその恩者に逆らい、子たるものがその父に反するとは、忍び得べきものであろうか。

 第二の理由は、罪人が早く父の家に帰るべき重大なる義務である。放蕩息子が改心して父の家に帰るのは、父の栄誉と成り、家内中の歓喜と成り、隣近所のものにも天使の為にも、大いなる歓喜と成るのである。

 その子は罪を以て己が父に背き、恩を知らずしてこれを悲しましておったが、心の底より後悔して、目に涙を浮かべて帰った時、将来は父の戒めを悉く守ろうとの堅き決心あれば、その喜ばしき志は父の栄誉と成りて、その心を喜ばせ、非常に不憫がらしめて、その子の来たるを待ち切れず、これを入れんとの熱心なる望みを以て出迎えに走り、その首に抱き付き、これに接吻して聖寵の着物を着せ、その賜物を以てこれを富ますのである。

 第三の理由は、己れの利益と云う事である。罪人がもし改心せぬならば、何時か改心する事能わざる時がきっと来ると覚えて、その時には限りもなき地獄の苦しみに処せらるべき事を考えねばならぬ。そう云う時になったら、その最も大いなる苦しみは即ち、罪に誘うた邪慾の渇望が益々増加するを覚えて、一つもその渇望を遂げる事能わず、限りなく自ら招いた罰を受けて、父なる神に打ち棄てられてしまうと思えば、実に震え慄く筈ではないか。

 臨終まで改心を延ばし、あるいは数年数月の後にこれを延ばすのは、口実の立たぬ自負心から起ることで、斯かる決心は実に愚かにして、甚だしき悪心を覆うのである。最も重大なる困難をば、最も弱った時に打ち勝とうと思うのは、道理に乏しき証拠である。何故なれば、罪の中に継続すれば、罪人は日々改心に怠けて来るので、罪の癖は益々増長して、第二の天性となる。そうなった時には、罪人は益々改心の恵みを頂くことを自ら嫌うを覚えて、神を見下げるが如く、愈々これに遠ざかって、被造物の中に、鉄面皮[あつかましく]も悪しき満足を求むるのである。而して神に立ち帰る事を臨終まで見合わせ、日に日に延ばして、終に天主の御憐れみを倦まし、要すべき効き目の助けを断られるようになるのである。

 改心を延ばそうとする決心は、愈々危険極まるという訳が、もう一つある。即ちたとえ罪人は改心し得るとしても、また効き目ある聖寵が得られるとしても、誰も頓死せぬとは請合われず、あるいは口の利かれぬような病気に罹るかも知れぬ。そういう例は実に沢山ある。

 嗚呼、罪人にしてこの書を読むならば、請う、主にしきりに叫んでこう申し上げるが良い、「嗚呼、主よ、我をして改心せしめ給え。然らば我れは改心せん。主は我が主にして、我が神にませばなり」と。 天父に立ち帰るまでは止めずしてしきりに祈れ。またひどく罪を嘆き悲しみ、神の正義を満足せしめん為に、困難を与えられる限り、これを悉く全く甘んじて戴こうと云う志の起るまで、止まずして祈らねばならぬ。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』








第32 不幸にして貞操に反する悪徳に負けた時には何を為すべきか

2023-01-24 22:16:48 | 心戦
第32 不幸にして貞操に反する悪徳に負けた時には何を為すべきか

 もし不幸にして、あるいは悪心の為に、貞操に反する何かの過失をした事があって、過失に過失を重ねざらん事を望むのならば、早く別に糾明を要する事もなく、改悛の秘蹟に依頼せねばならぬ。ここに於て憚る事なく淡白に、その罪を悉く告白して、与えられる薬と示される教訓とを、如何に苦く、如何に辛く見えても、これを承諾して受けねばならぬ。左様にするには、如何なる理由、また如何なる口実[かこつけ]の下にも、決してこれを延ばしてはならぬ。延ばすとまた新たに落ち度を為すようになり、その落ち度がまたまた事を延ばさし、而して落ち度したり、延ばしたりして、終に良心に夥しき罪を帯びながら、告白もせず年月を経るに至る。

 然れば貞操に反する悪徳に対して結論すべき事を、飽くまで繰り返して言うが、即ち落ち度を逃れるには、是非とも逃げねばならぬと云う事である。

 心に起る悪念については、たとえ軽少なるものにしても、あるいは自分の経験によって軽少であると思う理由があっても、悪念の極まるものと同じように、速やかに防がねばならぬ。これも告白して、霊魂の医者には、悪魔の謀り事を明かすがよい。

 もしまた不幸にして、何かの誘惑に負ける事があったならば、程なく告白して、決して無実の不面目の為に止められてはならぬ。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』





第31 貞操に反する悪徳に負けぬよう何を避くべきか

2023-01-23 21:48:19 | 心戦
第31 貞操に反する悪徳に負けぬよう何を避くべきか

 貞操に反する情慾の奴隷に陥らざる為、避くべきものが種々ある。第一に最も避くべきものは、必ず我等を危険に遇わす人々。第二に避くべきものは、是非交際せねばならぬと云うものでなくして、我等を何かの危険に逢わせ得べき人々。第三に避くべきものは、先ず種々の訪問、手紙の往復、進物、または漠然たる交際。何故と云うに、斯かる交わりは追々危険の交わりに成り変り易いからである。第四に避くべきものは、情慾を含む談話、また凡て情慾を起させ得べき音楽、歌、読書などである。第五に避くべきは、被造物に於て求めんとする所の一般の満足、例えば衣服、家具、美食、また種々の物に依って生ずる満足である。

 これを避くる事を知っている人は少ないが、これを実際に避くる人は一層少ないのである。実は斯くの如き満足は、往々正当なるに相違なけれど、だんだん心を傾けて、快楽を求め、これを熱望するように習わせるのである。それで、感覚的快楽の誘惑が起るや、元より人の心に早く感ずるもので、骨髄に染み込み易いものである。それが起れば、心は容易に克己の道を見出さぬようになるが、これは決して怪しむに足らぬ。心が何時も満足する所を求むるに慣れているから、克己と云う事を僅かしか知らぬのである。

 これに反して、許された満足をも避け慣れている人は、許されぬ快楽の誘惑に抵抗する事が甚だ易く、これを聞くばかりで造作もなく逃げるのである。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』








第30 貞操に反する情慾に打ち勝つ法

2023-01-21 21:41:09 | 心戦
第30 貞操に反する情慾に打ち勝つ法

 他の邪慾に打ち勝つには、これを直接に攻撃して、よしやこれに傷つけられたりとも、幾たびも戦いを挑んで、飽くまでこれを打ち伏せるようにせねばならぬが、貞操に反する情慾に至っては、ただにこれを引き起し、且つ挑むべからざるのみにあらず、これを引き起すべきものを注意して、悉く避けねばならぬ。これに由りて見れば、肉慾の誘惑に勝つには、また感覚的情慾を懲らすには、戦うと云うよりも、むしろ避けねばならぬのである。それ故に早く逃げて、遠くその機会に離れるに応じて、きっと勝ちを得るのである。

 然るに我が生活は、規則も正しく、意志も正しく、既往の経験によって見るも、身の堅固なるを覚るに足り、これまでの勝利はなお保証となる事が認められ、また人と交際するにも、親族の由縁[ゆかり]、あるいは義理の為にするに過ぎず、危険と云えば大したものもなく、彼れを見ても此れを見ても、実に安心すべきではないか、それでもなお避けねばならぬかと云うに、然り、奴隷を逃れんと欲すれば、是非とも避けねばならぬ。

 これに答えて云わん、幾多の人がその生涯、罪の機会に逢いながら、これに陥らざりしを以て、これ己れの為に安心すべき訳ならずやと、否、斯かる不用心は、神の判断に任すがよい。また自分が外観[みかけ]を以て物事を判断しては不可[いかぬ]。

 幾たりかの人は、現にその堕落したのが人の目に見えぬと雖も、実は哀れに打ち伏せられているのである。そこで、自分は、神が聖書を以て、あるいは有名な夥しい聖人の伝を以て、あるいは目下日々に我が周囲に見ゆる事を以て、我等に与え給う教訓、及び模範に服従して、逃げねばならぬ。逃げながら、決して振り返って避ける所のものを見たり、また考えたりしてはならぬ。斯かる場合に於て、一目たりとも振り返るのは、危険になるのである。

 しかしもしも危険となり得る何某と、是非とも逢わねばならぬと云う事ならば、その談話をなるだけ速やかにして、短くなるようにせねばならぬ。その時は種々と愛らしき挨拶などをするよりは、むしろ粗相な方が良いのである。何故なれば、そこには罠と云うものがあって、邪慾の火に燃やされる危険があるからである。病の起るを待たずして薬を用いよとは、最も善き格言であって、これを忘れてはならぬ。決して力の及ばぬ時まで見合わせてはならぬ。早く逃げるのが助かりの唯一の道である。

 もし不幸にして何かの傷を受けて、力の弱まることがあったならば、永遠の死を免れる薬はただ一つ、即ち一刻も早く立ち上がって、罪とその結果とを打ち亡ぼしてしまわねばならぬ。聴罪師に少しも包むことなく、軽き過失をも顕わさねばならぬ。何故なれば、斯かる場合に包むのは、それが種になって、必ず蔓延[はびこ]るに至るからである。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』












第29 悔悛の秘蹟

2023-01-20 23:44:52 | 心戦
第29 悔悛の秘蹟

 善き告白をするには、必要の条件種々あり。先ず神の戒め、及び自分の務めについて、詳しく糾明せねばならぬ。様々の罪を見て、たとえ小罪に過ぎざるものであっても、これを犯した事を強く残念に思うて、如何に神の威稜に背いたものであるか、如何に斯くまで善良なる神、斯くまで人を愛し給う神に対して忘恩の沙汰であるかを考え、これに由りて己れを軽んじ、己れに対して憤り、こう己れを咎めねばならぬ、「嗚呼、我れは愚かなる者かな、斯く天主に感謝の意を表すから、神は我が父にてましまし、我れは父のものにして、これに無より造られたるにあらずや」と。

 次に神に背いた後悔に再び立ち戻り、言葉を継いで斯く云わねばならぬ、「嗚呼、我れの造り主なり天父なり、救い主たる御方に背きしは禍なるかな。むしろ世の有りとあらゆる困難を、凌ぎし方が増しなりき」と。

 而して神の尊前に恐れ入り、恥じ入り、それでも赦し給わんとの思召しなる事を信頼して、こう申し上げねばならぬ、「嗚呼、父よ、我れは天にも父にも罪を犯せり。我れはもはや御子と呼ばるるに相応ざれば、何卒下僕[しもべ]等の数に入れ給え」と。

 なお神に背いた事を、益々痛悔する心を起し、以後は承諾して再び罪を犯すよりは、むしろ如何なる困難をも、凌ぎたいとの決心を表し、罪を悉く聴罪師に告白して恥じ入り、深く残念がって、最も真実に、己が罪を陳ずる〔=誤魔化す、嘘をつく〕事なく、他人に罪を負わす事なく、白状せねばならぬ。

 告白して後には、斯くまで罪を犯したるに、自らその赦しを受けんとするよりも早く、神はこれを赦さんとし給う事を深く感謝し、これを機会として、ますます斯く善良なる父に背きしを悔み、以後は同じ罪に再び陥らざる決心を立て直し、これが為に神の祐助[たすけ]と聖母マリア、守護の天使、保護の聖人の助力とを願わねばならぬ。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』