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第38 安心を得るための二つの規則 ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』

2023-02-10 17:26:55 | 心戦
第38 安心を得るための二つの規則

 今まで述べてきたことに己が行状を従わせる人々は、充分安心を得るに足ると雖も、この最終の章に当り、なお二つの規則を示さんとす。もしよくこれを守るならば、この邪な世に於て得られるだけの安和を心に得るには奇妙に益するであろう。

 第一の規則は、不断[たえず]注意して、起るところの種々の望み、心の門を閉じることである。望みと云うものは、元来十字架となるべき材木のようなもので、結ぶところの果[み]は、不安心と云うものである。而してその望みの性質により、また激しさに応じて、一層重くなるのである。この望みの多きに従って、十字架も多くなり、これを組み立てるところの材木は夥しくなる。それに望みを遂ぐるに反するところの困難及び邪魔は、あたかも十字架の腕をなす横木の如くなって、己が望みに身を委ねる憐れなる人は、これに磔られるのである。

 然らば斯くの如き十字架を好かぬ人は、先ずその望みを打ち棄て、もしこれに磔られたならば、これを脱して、十字架より降りるようにするがよい。重ねてこれを言えば、十字架を組み立てる望みがなくなると同時に、十字架もなくなるのである。これを避けるには、別に方法がない。

 第二の規則は、敵の悪しき挙動に遇い、また侮辱を受けた時には、これに心を止めずして、これを受けた種々の場合について、思いを巡らすな。例えば、我れを害した人々の無理なこと、またその人々が如何なるものであるか、自ら如何に思うているかと云う事を、考えるな。斯かる考えは我等の心の中に、憤怒や軽蔑や憎しみの感じを起すのみ。

 斯かる場合に於ては、神の方へ早く駆け込み、専らその掟の事を思い、これに離れざるよう、如何に為すべきかを、考えねばならぬ。これぞ徳を保ち安和を再び得るの道である。

 もし人に対して為すべき事を自ら拒むならば、人々が我等に対して致すべき事を欠くのは決して怪しむに足らぬ。

 もし我等に害を為した人々に対して復讐するのを快しと思わば、先ず前に己れに復讐せよ。何故なれば、己れに対して害を謀る敵は決して己れより勝ったものではないのであるから。

(心戦付録終)

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』










第37 糾明『心戦(霊魂の戦い)』

2023-02-08 13:59:37 | 心戦
第37 糾 明

 よく己れについて警醒する人は、日に三度糾明するを常とす。即ち、朝昼夕である。朝と昼との糾明は省くとも、少なくも夕[ばん]の糾明を怠ってはならぬ。聖書を見るに、神は創造の時、人の為に造り給うた事について、二度もこれを好しとし給えりとあれば、まして人は一度なりとも、神に対して致した事を調べずにいられようか。何時かそれについて必ず厳しき審判を受くる筈であるから、別してこれを自ら調べねばならぬ。

 さて、糾明をする方法はこうである。先ず前に、神に向って、己が凡ての思い及び業をよく知るために要する所の明かりを願わねばならぬ。次に、心の中に、忠実に慎みを守りたるか、また如何に心を持ったかを調べねばならぬ。第三に、今日は神へ仕え奉る折りを一つも怠ったことはないかと省みねばならぬ。ここに逐一詳細にそのことを述べはせぬが、この三点の中に各自のため、その身分の勤め、及びその義務の事は入っていると云う事が明らかに分る筈である。

 もし忠実に聖寵に応じて善を為したことがあるならば、必ず神にこれを感謝して、而して後ではこれを思うな。自分のした事を、あたかも未だ何をもせぬが如くに、再びこれを致そうと、決心せねばならぬ。

 もし犯した怠慢や過失や罪を認めた時には、神の尊前に恥じ入りて謙り、これに背いたことを一心に悔んで、こう申し上げねばならぬ、「主よ、我れ自ら為し得る事を我れは為せり。もし主の手が我れを止め給わざりせば、我れは止まらずして、なお酷き事を為す筈なりき。我れは主の止め給いし事を感謝し奉る。請い願わくは、いと惜しみ給う聖子の御名によって、神たる処置を為し給い、我れを赦して、再び背かざるよう聖寵を与え給え」と。

 終に、罪の償いとして、これを償わんとの心を引き起す為、何か意志の内部の克己の業を、自ら己れに命ずるがよい。斯くの如き業は、大いに神の聖意に適うている。また肉身を懲らす事を忘れず、この種々の贖罪の業を忠実に守らねばならぬ。何故なれば、克己もせず、己れをも懲らさずしては、糾明は空な業に過ぎず、温き心を隠すところの利き目なき業に過ぎまい。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』














第36 敵を愛する事『心戦(霊魂の戦い)』

2023-02-05 12:26:35 | 心戦


 キリスト教的完徳は神の戒めを完全に守るに極まると雖も、「敵を愛せよ」と云う掟は神の聖意に近寄らしむるによって完徳の重[おも]なる基礎の一つであると云う事が出来る。

 もし完徳に至る道を短くせんと欲するならば、注意して、神が「敵を愛せよ」との掟を以て特に我等に何を要求し給うかと云う事を探らねばならぬ。神の嘉し給う所は、我等が敵を愛し、敵を恵み、敵の為に祈る事であるが、これは冷淡にせず、無感覚にせず、実に大いなる熱心を以てせねばならぬ。ほとんど己れを忘れ、一心に敵を愛する事と、敵のためにすべき祈祷とに、身を委ねるほどにならねばならぬ。

 適を恵まねばならぬが、先ずその霊魂については、敵に罪を以て己が霊魂を傷つけるような機会を与えぬようにして、身振り、言葉、また凡ての挙動を以て敵を重んじ、これを愛すると云う事を表して、何時でもそれの為に世話する気のある事を証せねばならぬ。

 肉身上の扶助に至っては、用心と常理とを以て、その場合によって、またその敵の各自の特質、及び地位によって、致すべき程を決めねばならぬ。

 この勧めに従わば、徳と安和とが心に溢れるばかりになるであろう。兎も角もこの掟を守るのは、思うほどの困難になるものではない。人性にとりては甚だ辛そうにあるが、しかしこれを真面目に実行する事を望む人、または復讐を促す自然の傾向を懲らそうと常に覚悟している者には、この掟は守り易くなる。何故なれば、その中に安和の甘味が籠っているからである。それでも弱き性質を助けるために、最も効き目のある四つの方法がある。

 第一、祈祷。敵を愛することをしばしばイエズス・キリストに、自ら敵を愛し給うたその功徳によって、願わねばならぬ。イエズス・キリストは十字架上に於て、先ず敵を覚え、彼らのために祈り給い、次に母を覚え、終に皆の後で御自分の事を考え給うた。

 第二の法は、心の中でこう言わねばならぬ、「主は、敵を愛せよと、我れに命じ給うによって、必ず我れはこれを守るべきものである」と。

 第三の法は、敵が神に造られた時に受けた神の肖像を思い出さねばならぬ。そうなれば彼らに対して、有るべき尊重と愛とを引き立てるであろう。

 終に第四の法は、イエズス・キリストが我等の敵を贖うために払い込み給う給うた量り得られぬ値段を、思わねばならぬ。イエズス・キリストはこれが為に、金銀を用い給わず、御自分の血を以て贖い給うのであるから、この血を無駄にせられる事、及び残酷に踏み付けられる事を、忍び給う筈はない。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』











第35 数多の人が神に背きしを悔まず、キリスト教的完徳を離れて、徳なく暮らしつつある理由

2023-02-02 23:02:54 | 心戦
第35 数多の人が神に背きしを悔まず、キリスト教的完徳を離れて、徳なく暮らしつつある理由

 何故に人がぬるき心を以て眠り、身を罪に委ねて、徳を守るべき義務を省みず、これにいささかも力を出さずにいるかと云うに、その理由が種々あって、 重[おも]なるものは次の如くである。先ず人が我が身を省みず、その心は如何なる立場にあって、心の中に如何なる事が行われ、誰に司られているかと云う事を見ずして、うろうろして、物好きに、ぷらぷらして、無駄に月日を送るから、あるいは正当な事、良い事に身を委ねておって、善徳及びキリスト教的完徳に導く事については、少しも気を付けぬのである。もし時によって、その思いが起り、己が霊魂上の憐れなる状態を合点して、神の声の己れを召して、悔い改める事を勧め給うのが、心の中に聞こゆるならば、これに対して「明日、明日、後から、後から」と答えるばかり。而してその期日は度々延引せられて、終に来たる事なく、罪人は何時を限りともせず、愈々延引するのである。

 ある人は、改心すると云う事と、徳を行うと云う事とは、新人の勤めに極まるものと想像して、終日祈祷を唱うるも、被造物に己れを愛着せしむる猥らな情慾を懲らす事には少しも気を付けぬのである。

 ある人は、道徳の修業に身を委ねても、前に堅き基礎[どだい]を据えずして建築を為し、善徳には各自特別なる基礎のあると云う事を知らぬのである。例えば謙遜の基礎は、自ら僅かなものである、実に何でもないものであると見られ、人にも軽蔑せられ、自分にも卑しきものの如くに思う望みに基づくのである。前にこの根掘りをした人は、後に謙遜の建物となるべき材料と、喜んで受けるようになる。その材料は即ち、世間より蔑ろにされる事、及び謙遜の業を為す機会である。斯かる状態であるならば、軽蔑せられるのを愛する事が益々増加し、その軽蔑の来たる時は、喜んでこれを受け、而して謙遜の徳を得るに至るのである。しかしながら忘れてはならぬ、第一に天主に向って、聖子の卑しめられた、またその功徳によって、度々謙遜を願わねばならぬ。

 たまたま既に述べた事を悉く行う者の中に、単に神を愛する為に、その聖意に適わんとの唯一の目的を以て、これを為さざるものあり。これに由って、徳行を為すと雖も、その徳行は衆人に対し、また凡ての場合に於てするのでない、即ち、ある人に対しては謙遜者となり、ある人に対しては威張るのである。ちょうど人々を重んずる次第、また眼前に在る目的次第である。

 またある人は、真実にキリスト教的完徳に至らんと欲して、専ら力を尽してこれを努むれども、力が足らず、あるいは勉励して巧みなれども、神を頼む事が足らずして、己れを頼み過し、進むよりはむしろ退却するのである。

 終にある人は、未だようやく道徳の道に入ったばかりであるのに、もはや完徳に達したように思う事がある。これは己れについて甚だしき迷いであるが、やはりその自称徳についても迷うているのである。

 故にもし徳に達し、真面目にキリスト教的完徳に至らんと欲するならば、先ず己れを頼まず、神に信頼して、出来る限り善徳、及び完徳の望みを日々引き立て、且つ増して行くように努めねばならぬ。また徳を行う機会は如何なる方法によって来たるとも、一つもこれを失わぬように注意せねばならぬ。なお己れを避けて、しばしば克己の業を為し、改悛の業を何時にしてもやめてはならぬ。

 完徳の道に於て、既に如何ほど進歩してあるとも、日々に事を為す時は、あたかも始めたばかりの如くして、事々に、一つ一つに、さながら完徳はこの一つの業に極まるもののように注意を尽し、次の業をも同じくその通りにせねばならぬ。あたかも注意深きものが、最も重き過失を避けるに注意する如く、我等は軽き過失を避けるに注意せねばならぬ。

 徳に付くのは、徳そのものの為、また神の聖意に適わん為にすべきものである。この方法によれば、何時にしても、身も心も行いも変る事なく、一人であっても、人と共に在っても、陰日向の差別なく、相変わらぬものとなる。ただにそれのみならず、この方法によって、入用の時は徳の為に徳を措き、神の為に神を措くと云う事も知るようになる。徳の為に徳を措くとは、何の徳を選む事なく、一の徳の代りに他の徳を守ることで、例えば熱心に専ら善業を励まんとて、楽しみにしているのに、病気や種々の妨害[さまたげ]の起るのを、よく堪忍するが如き事、即ち奮発などの代りに堪忍、謙遜、従順などを守る事である。また神の為に神を措くとは、直接に神に対する事をやめて、間接に対する事に従事する事で、例えば熱心に祈祷でもするのに、人の頼みに応じて、あるいは人を教え、助け、その世話をする為に、祈祷をやめる事で、何事によらず神の為にこれをする事である。右へも左へも寄らず、後退もするな。程よき所に止まりて、淋しき事、単独なる事、または黙想や祈祷をせよ。神に向って度々渇望する所の善徳、及び完徳を賜らん事を、願わねばならぬ。何故なれば、神は自ら萬徳の泉であって、始終我等を召し給う所の、完徳そのものにてましますからである。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』




第34 神に背きしを現に悔む事を覚えて改心の恵みを求むる法

2023-01-28 07:59:44 | 心戦
第34 神に背きしを現に悔む事を覚えて改心の恵みを求むる法

 既に犯した罪を実際に悔む事を覚えるようにする最も良き方法は、神の広大にまします事を黙想し、またしばしば証明し給うた善良と愛憐[あわれみ]とを黙想する事である。何故なれば、罪を以て背かれ給える神の徳を考え、また神は最上の善にして、得も云われぬ善良なるもの、善にあらざれば為し給わず、今まで善の外に為し給うたこともなく、今も日々に善を為し、友の上にも敵の上にもその恵みを注ぎ、その光明を照らし給う事を思い出し、斯く善良なる神に、我等が理由もなく出来心によって、無駄な無実な楽しみを得んが為に、背き奉りし事を覚えて、この観念に心を止むれば、如何にしても涙に沈まずにはおられぬものである。

 然れば十字架の下にひれ伏して、我等に向って語り給うイエズス・キリストの御声を聞かねばならぬ。即ちこう仰せられる、「我を眺めよ。体中に負うところの傷を一々見よ。この傷を付けしものは汝の罪にして、その罪のために我れは斯くの如く酷い目に遇わされたり。しかしながら我れは汝の神、汝の造り主、汝の愛深き救い主、且つ汝の慈悲に満てる父ならずや。然らば立ち帰りて我れに来たれ。汝の過失を嘆き、我れに背きし(事への)真[まこと]の痛悔を起して、以後は再び罪に陥るよりは、むしろ如何なる苦しみをも受けんと、真心を以て決心し、我れに帰れ。我れは汝の贖い主なり」と。

 次にイエズス・キリストを追懐し、茨を被られたるその頭、葦を握らせられたるその手、傷だらけになりたるその体を見て、こう云われるを聞けよ、「見よ、人を。見よ、得も云われぬ慈しみを以て汝を愛したる人を。その弄ばれたる嘲笑、その受けたる無数の傷、その流したる血は、これぞ汝の贖いの価なり。見よ、人を。斯くまで愛を示され、斯くまで数々の恩を受けたるにも拘らず、厚かましくも汝の背きたる人を。見よ、人を。この人は神の憐れみにして、これの贖いは豊かである。見よ、時々刻々に我が身を、その凡ての勲功と共に、汝の為父に献げる人を。見よ、天の父の右に座し、汝の為に請願して、汝の取次ぎたる人を。嗚呼、何故に斯くまで我れに背くや。何故に我れに帰らざるや。我れに帰れ。我れは雲を散らす如く、汝の不義を悉く払い清めたり」と。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』