カトリック情報 Catholics in Japan

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憐れみの道 シエナの聖カタリナ

2021-09-03 13:35:30 | 対話(聖カタリナ)
この霊魂が、神のあわれみを嘆美し、人類に与えられた恩恵と恩寵とについて語ることについて。

 すると、この霊魂は、酔いしれたようになり、自分をおさえることができず、神のみまえに立って、つぎのように申し上げた。
 ──ああ、あなたの被造物の過失をおおいかくして下さる永遠のあわれみよ、あなたが、大罪を去ってあなたのもとに帰る人々について、「わたしは、あなたがたがわたしを侮辱したことを、もう覚えていない」(22) と言われたのを、驚きません。ああ、名状しがたいあわれみよ、あなたが、あなたを迫害する人々について、「わたしは、かれらにわれみを注ぐことができるように、かれらのために、わたしに祈ることを望む」と言われたのを聞いてからは、あなたが罪を去る人々について言われたことを、驚かなくなりました。
 ああ、永遠の「父」であるあなたの「神性」から発し、全世界をあなたの権力によって治めるあわれみよ、あなたは、あなたのあわれみによってわたしたちを創造されました。あなたのあわれみによってわたしたちを、あなたの「おん子」の血のなかで、再創造されました。わたしたちを保存してくださるのは、あなたのあわれみです。あなたの「おん子」を苦闘させ、生命に対する死の戦いと死に対する生命の戦いとのなかで、十字架の木の上に遺棄されたのは、あなたのあわれみです。そのとき、「生命」は罪の死に勝ち、罪の死は、けがれなき「子羊」の肉体の生命を奪ったのでした。だれが負けたのでしょうか。死です。その原因はなにだったのでしょうか。あなたのあわれみです。
 あなたのあわれみは生命を与えます。そして、義人と罪人とを問わず、すべての被造物に対するあなたの寛仁を、わたしたちに認識させる光明を与えます。
 天のいと高きところにおいて、あなたのあわれみは、あなたの聖人たちのなかにかがやいています。地を眺めますと、あなたのあわれみはそこにあふれています。地獄の暗黒のなかでも、あなたのあわれみは光っています。亡びた人たちは、その過失ほど重い苦罰を受けていないからです。
 あなたは、あわれみによって、あなたの正義をもっとやさしくしてくださいます。あわれみによって、わたしたちを血のなかで洗ってくださいます。あわれみによって、わたしたちをあなたの被造物といっしょに保存してくださいます。
 ああ、愛に狂えるかたよ、受肉されるだけでは足りなかったのでしょうか。その上、死ぬことを望まれたではありませんか。死ぬだけでは足りなかったのでしょうか。その上、冥府にくだって聖なる太祖たちを解放され、あなたの真理とあわれみとを、かれらにおいて成就されたではありませんか。実際、あなたの「いつくしみ」は、真理においてあなたに仕える人々に幸福を約束されました。そして、冥府にくだって、あなたに仕えた人々を苦しみから救い出し、かれらにその所業の実を返されました。
 あなたのあわれみは、あなたを駆って、人間のためにもっと多くのことを実行させました。あなたは、わたしたちの弱さを強め、わたしたちの無知が、健忘症におちいって、あなたの恩恵の記憶を失うことがないように、ご自分を食物として残されました。そのため、あなたは、聖なる教会の神秘的体のなかで、祭壇の秘跡において、ご自分を人間に与え、これにご自分を示されるのです。だれがこれをなされたのでしょうか。あなたのあわれみです。
 ああ、あわれみよ。わたしの心は、あなたを思うと、燃えさかります。わたしの精神は、どちらを向いても、振り向いても、あわれみしか見出しません。ああ、永遠の「父」よ、あなたのみまえで口をきくほど思いあがっているわたしの無知をお許しください。せめて、あなたのあわれみに対する愛が、あなたの「いつくしみ」のみまえに、お詫びになりますように。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)




天へと続く橋 シエナの聖カタリナ

2021-08-30 18:00:31 | 対話(聖カタリナ)
この橋は、キリストのご昇天の日に、天まで達したけれども、地を離れなかったことについて。

 わたしの「ひとり子」が、復活後四十日目にわたしのもとに帰ったとき、この橋は地から、すなわち人間の社会から上昇し、その永遠の「父」であるわたしの右に坐を占めるために、わたしの神的本性の力によって天にあげられた。これは、昇天の日に、天使が、わたしの「子」の「英知」の跡に従って天にのぼるために心は地を去っていた弟子たちに、告げたところである。天使はかれらに言った。「これ以上そこにとどまっていてはならない。なぜなら、かれはもはや『父』 の右に坐しているからである」(16) 。
 かれが天にのぼり、その「父」であるわたしのもとに帰ると、わたしは、「師」すなわち聖霊を送った。聖霊は、わたしの「力」、わたしの「子」の「英知」、そして聖霊自身の「寛仁」をもって降った。聖霊は、「父」であるわたしとわたしの「子」と一体である。聖霊は、わたしの「真理」が世に残した教えの道を固めた。わたしの「子」は、人間のあいだに現存しなくなったけれども、教えとこの教えの上にきずかれた諸善徳とを、かれらに残した。これこそ、この心地よく栄光にかがやく「橋」が、あなたがたのために造った道である。かれは、まず第一に、そして自分自身の所業によって、言葉よりは手本をもって、あなたがたに教えを授け、道を造った。かれは、語る前には実行した (17) 。
 聖霊の寛仁は、この教えを確認した。すなわち、弟子たちの霊魂を強めて、「真理」を信奉させ、十字架につけられたキリストの教えであるこの「道」を告げさせた。そして、かれらによって、不義と誤断との世 (18) を征服した。この不義と誤断とについては、のちに、もっとくわしく説明したい。
 これまで話したことは、わたしの言葉を聞く人々の精神をまどわす恐れのある暗黒を、ことごとく払うためである。かれらは言うかも知れない。「キリストのこの体をもって、ひとつの橋が、神の本性と人間の本性との一致によって、築かれたことはたしかである。しかし、この橋は、わたしたちを去って、天にのぼられた。この橋は、たしかに、ひとつの道であって、わたしたちに、その手本と所業とによって、真理を教えた。しかし、こののち、わたしたちにはなにが残るであろうか。どこに道を見つけたらよいであろうか」と。
 わたしはあなたに言いたい。いなむしろ、このような無知におちいっているすべての人に言いたい。道とは、すでに話した通り、かれの教えそのものである。使徒たちはこれを確認し、殉教者たちは血によってこれを証明し、博士たちはその光明によってこれをかがやかせ、福音著者たちは、愛をこめてこれを書きしるした。みながそろって同じ証しをおこない、聖なる教会の神秘的体のなかで真理を公表した。かれらは、燭台の上におかれた燈明となって、すでに話したように、完全な光明のなかで、生命にみちびく真理の道を示した。
 どのように示したであろうか。自分自身の体験によって証明したのである。それゆえ、すべての人は、望むならば、すなわち、みだらな利己的愛によって理性の光明を消そうとしないならば、真理を認識するために必要な光明を所有することができるのである。かれの教えがまことであることはたしかである。それはあなたがたにとって舟であって、霊魂を、航海を乗り越えて、救いの港にみちびくのである。
 とにかく、わたしは、まず第一に、わたしの「子」を人間のあいだに生活させるために送り、かれを見える橋として、あなたがたに与えた。ついで、この見える橋が天にのぼったときも、教えの橋と道とがあなたがたのなかに残った。そしてそれは、すでに話したように、わたしの「力」、わたしの「子」の「英知」、および聖霊の「寛仁」と永久に一つになっている。この「力」はこの道を歩む者に活動する力を与え、「英知」は真理を認識させるために光明を与え、聖霊は、霊魂のなかに善徳に対する愛しか残さないように、官能的な愛をことごとく焼き滅ぼす愛を与える。
 いずれにせよ、その見える現存によっても、その教えによっても、かれは「道」であり、「真理」であり、「生命」である (19) 。そして、この道は天の高きにみちびく橋である。かれがつぎのように言ったのは、このことを理解させるためであった。「わたしは父のもとから来て、父のもとに帰る。しかし、あなたがたのところに戻るであろう」(20) 。これは、わたしの「父」はわたしをあなたがたのもとに送り、あなたがたが河を脱出して生命に達することができるように、わたしをあなたがたの橋に仕立てた、という意味である。ついで、付言する。「わたしはあなたがたのもとに戻る。あなたがたをみなし子として残しはしない。あなたがたに『弁護者』を送るであろう」(21) 。
 これは、わたしの「真理」を送るであろうと言うのと同じである。「わたしはわたしの『父』のもとへ去る。しかし戻って来るであろう」。これはどういうことであろうか。「弁護者」と呼ばれる聖霊が降り、わたしがあなたがたに与えた教えによって、わたしが「真理」の「道」であることをあきらかに示し、確認する、ということである。
 かれは、戻って来るであろうと言った。そして、実際に戻って来た。なぜなら、聖霊は単独で降るのではなく、「父」であるわたしの「力」と、「子」の「英知」と、聖霊自身の「寛仁」とともに降るからである。だから、あなたもよくわかるように、かれは、見える現存によってではないけれども、すでに話したように、その徳力をもって教えの道を固めることによって、戻ったのである。この道は破損することがないし、これを歩もうと思う者に閉ざされることがないし、堅固で、破壊されることがない。なぜなら、「不動者」であるわたしから発するからである。だから、あなたがたは、この道を、勇気をもって、なんのためらいもなく、あなたがたが聖い洗礼のなかで主としてまとった信仰の光明に照らされて、歩まなければならない。
 以上で、わたしはあなたに、この見える橋とこの橋と一体をなしている教えとを、十分に明白に示した。わたしはまた、これを知らない人々にこの道を示したのは、真理そのものであることを説明した。わたしは、かれらに、これを教える人々はだれであるかを知らせた。それは、すでに話したように、聖なる教会のなかに燈明として立てられた使徒たち、福音著者たち、殉教者たち、公奉者たち、そして聖博士たちである。わたしは、かれが、わたしのもとに帰ったけれども、またあなたがたのもとに、聖霊が見える現存によってではなく、その徳力によって、弟子たちの上に降ったとき、戻ったことを説明した。かれは見える現存によって戻ることはないであろう。ただし、審判の日には、わたしの威光と神的権力とをもって降り、世を審判して、善人には善を返してその霊肉の労苦に報い、現世で悪のなかに生きた人々には永遠の苦罰という悪を返すであろう。
 これから、「真理」である「わたし」が、あなたに約束したことを話したい。すなわち、この道を不完全に歩む者とはだれか、完全に歩む者とはだれか、偉大な完全性に達する者とはだれかを示したい。また、その悪業のために河に溺れ、堪えがたい苦罰におちいる悪人がどのように歩むかについても話したい。
 いとしい子供たちよ、わたしはあなたがたに言いたい。橋の上を歩くがよい。下を歩いてはならない。それは真理の道ではない。それは、わたしがこれから話す邪悪な罪人が歩むいつわりの道である。わたしは、この罪人のためにわたしに祈るようあなたがたに願いたい。かれらのためにあなたがたの涙と汗とを要求したい。かれらがわたしからあわれみを受けるためである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)





永遠へと至る二つの道

2021-08-18 01:32:12 | 対話(聖カタリナ)
この二つの道、すなわち橋の道と河の道とを歩む者は、どちらの場合も、苦労しなければならないことについて。──橋を渡る霊魂の感じる幸福について。

 以上が二つの道である。そのどちらを通るにも、苦労が必要である。ところで、ひとつの通がつくられていて、これを通る者に多くの喜びを与え、すべての苦痛を甘美に変え、すべての重荷を軽くするというのに、水の道を通りたいと思う人間の心の無知と盲目とは、なんと評したらよいであろうか。
 この道では、体の暗黒のなかにありながら、光明を見出し、死ぬべき者でありながら、不滅の生命を見出し、わたしのために献身的に働く者に休息を約束する永遠の「真理」の光明を愛の心情によって味わうことができる。なぜなら、わたしは、忘恩者ではなく、自分に奉仕する者を知っているし、正義であって、各人をその功罪によって処遇し、すべての善業には報いを与え、すべての過失には罰を加えるからである。
 この道を歩む者が味わう喜びは、いかなる舌もこれを語ることができず、いかなる耳もこれを開くことができず、いかなる目もこれを見ることができない。このような人は、すでにこの世から、永遠の生命のなかに準備されている善を味わい、所有することができるのである。
 これほど大きな善を軽蔑し、多くの苦しみに出合う下の道、なぐさめも善もまったくない下の道を通って、この世から、地獄の前味わいを得たいと望む者は、いかにもおろかである。なぜなら、かれらは、その罪によって、至高かつ永遠の「善」である「わたし」を失うからである。
 だから、あなたが嘆くのはもっともである。わたしは、あなたとわたしの他のしもべたちとが、わたしに加えられる侮辱に対して絶え間ない悲しみを抱き、これほど平気でわたしに背く人々の無知と不幸とをあわれんでほしいと思う。
 これで、あなたは、この橋がどのように出来ているか、この橋が、すでに話したように、まことにわたしの「ひとり子」であって、あなたに説明したように、どのように、偉大と卑賎とを一致させているかを見、そして聞いたのである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)




善徳によって架ける橋

2021-08-05 00:32:21 | 対話(聖カタリナ)
この橋は石すなわち善徳でできていることについて。──橋の上には旅人に食物を与える宿泊所があることについて。──橋の上を通る者は生命に達し、下を通る者は亡びと死とにおちいることについて。

 この橋は石で築かれている。それは、雨が降っても、旅人が邪魔されないためである。この石はどういう石か知っているであろうか。それは、まことの堅固な善徳である。この石は、わたしの「子」の受難前には、築かれていなかった。それゆえ、だれも、どんなに忠実に善徳の道を歩んでも、目的に達することができなかった。なぜなら、天はまだ「血」の鍵によって開かれていなかったので、正義の雨が、通行を阻止していたからである。
 しかし、石が切られて、すでに話したように、橋である「言葉」、わたしの優しい「子」の体のうえに置かれた (12) 。すると、かれは、自分の「血」と石灰とを練り合わせて、石を接合した。すなわち、仁愛の力と火とによって、血と「神性」の石灰とが練り合わされた。
 この善徳の石は、かれ自身の上に、わたしの力によって据えられた。かれの上に土台をもたない善徳は一つもないし、すべてがかれにおいて試され、かれによって生命を保つのである。それゆえ、かれによらなければ、かれの跡に、そしてその教えに、従わなければ、だれも、恩寵の生命を通じ与える善徳を保つことができないのである。善徳を成熟させ、これを生きた石として、その血によって接合させて、据えたのはかれである。それは、すべての信徒が、神的正義の雨に阻止されるという奴隷的な恐れを少しも抱かないで、安心して渡ることができるためである。それというのも、信徒はみな、あわれみに守られているからである。このあわれみは、わたしの「子」の受肉によって、天から降ったのである。それでは、天はどうして開かれたのであろうか。かれの血の鍵によって。
 以上話したことで、あなたは、橋がどのように築かれているか、あわれみによってどのように守られているかを、理解したと思う。この橋の上には、聖なる教会の庭園のなかに、宿泊所があり、生命の「パン」を保有していて、これを分配し、「血」を飲ませる。それは、わたしの被造物である旅人たちが、その旅のあいだに、疲労によってたおれないためである。このような考えで、わたしの「ひとり子」の血と体とを、あなたがたに分け与えるよう定めたのである。
 橋を渡ると、これと一体をなしている「門」に達する。みな、この門から入らなければならない。かれは、「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを通る者は、くらやみのなかではなく、光のなかを歩む」と言ったではないか。わたしの「真理」は、別のところで、だれも「かれ」によらないでは「わたし」に来ることができないとも言っている (13) 。まったく、そのとおりである。
 よくおぼえていると思うが、わたしが道をあなたに示したいと思ったとき、あなたに話し、あなたに説明したのは、このことであった。だから、かれがわたしは「道」であると言うのは、真理以外のなにものでもない。すでにあなたに示したように、この道は橋の形を取っている。かれはまた、わたしは「真理」であるとも言った。そのとおりである。なぜなら、かれは至高の「真理」である「わたし」と一体だからである。それで、かれに従う者は、真理と生命との道を歩むのである。この「真理」に従う者は、恩寵の生命を受けるし、飢えにたおれることがない。なぜなら、「真理」がその食物となるからである。そのうえ、くらやみに落ちることがない。なぜなら、かれはいつわりのない光明だからである。それどころか、悪魔がエヴァを誘惑するために使ったいつわりを恥じ入らせ、打ち砕いたのは、かれである。このいつわりによって、天の道は切断された。しかし、「真理」はこの道を再築し、「血」によって固めた。
 それで、この道を歩く者は、「真理」の子である。なぜなら、「真理」に従うからであり、「真理」の門を通るからであり、そしてまた、わたしのなかで、道であり門であるわたしの「子」、永遠の「真理」、「平和の大洋」と一致するからである。
 しかし、この道から離れる者は、下を、河を通る。この道は石でできているのではなく、水でできている。水には安定性がないから、そこを歩く者は、みな溺れる。
 この水は、世の快楽と名誉でできている。その愛を石の上に築かず、これをみだらな執着によって被造物のなかに置き、わたしの外で被造物を愛し、これを所有する者にとって、被遣物は絶えず流れる水である。
 人間もまた河のように流れる。人間は、かれが愛する造られたものが流れていると思っている。しかし、かれもまた、死の終末に向かって、絶えず流れている。かれは停止し、その生命と自分の愛する事物とが流れ去るのを防ぐために、固定させたいと切に望んでいる。それは空しい努力である。あるいは死がおとずれて、かれが愛しているものを遺させるか、あるいはわたしの裁定によって、造られた物がかれから奪い去られるか、どちらかである。
 このような人々は、いつわりに従うし、いつわりの道を歩む。かれらは、いつわりの父である悪魔の子供である (14) 。そして、いつわりの門を通るから、永遠の断罪を受けるのである。
 わかってもらえたと思うが、わたしはあなたに、真理といつわり、すなわち、真理であるわたしの道と、いつわりである悪魔の道とを、示したのである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)




霊魂の状態を示す三つの階段

2021-08-04 09:54:22 | 対話(聖カタリナ)
この橋には霊魂の三つの状態を示す三つの階段があることについて。──この橋は高いけれども地に着いていることについて。──キリストの「わたしが天にあげられたら、すべてをわたしに引き寄せる」という言葉の意味について。

 すると、永遠の神は、この霊魂の人々の救いに対する愛をますます燃え立たせ、はげますために、これに答えて言われた。
 ──あなたがわたしに願っているもの、わたしがあなたに示したいと望んでいるものを、あなたに見せる前に、この橋がどのようにできているかについて説明したい。すでに話したように、この橋は天と地とを結んでいる。それは、「わたし」が、黄土で造った人間と結んだ一致による。
 わたしの「ひとり子」であるこの橋には三つの階段があることを知ってほしい。二つは至聖なる十字架の木の上で造られ、三つ目は、酢と胆汁とを飲まされて大きな苦悩を感じたとき、造られた。この三つの階段は、すでに説明したように、霊魂の三つの状態を認識させる。
 第一の階段は足であって、愛情を意味する。そのわけは、足が体を支えているように、愛情は霊魂を支えているからである。足は、心の秘密があなたに示される脇腹に達することができるように、大きな階段を形づくっている。このように、霊魂は、愛情の足でのぼりながら、心の愛を味わいはじめ、わたしの「子」の開かれた心を、知性の目をもって見つめる。そして、そこで、無我で名状することのできない愛を見出す。
 わたしが「無我で」と言うのは、自分自身の利益のために愛さないという意味である。わたしと同一であるわたしの「子」が、あなたがたから自分自身の利益を手にすることができるであろうか。それで、霊魂は、自分がこれほどまで愛されているのを見て、愛に満たされる。霊魂は、第二の階段を越えると、第三の階段、すなわち口に達する。そしてそこで、その過失が巻き起こした大きな戦いののち、平和を見出すのである。
 第一の階段では、その足を地上の束縛から解放し、悪徳を脱ぎ棄てる。第二の階段では、愛と善徳とに満たされる。第三の階段では、平和を味わう。
 要するに、橋には三つの階段がある。最後の階段に達するためには、第一と第二の階段を越えなければならない。この橋は、河の流れがとどかないように、高く築かれている。罪の毒は決してこれを汚したことがない (9) 。
 このように高く築かれたこの橋ではあるが、それでいて地に達している。いつこのように高くあげられたか、あなたは知っているであろうか。至聖なる十字架の木の上にあげられたときである。そのとき、「神性」は、地上の谷間のようなあなたがたの人性から離れなかった。それゆえ、わたしはあなたに、かれは高くあげられたけれども地から離れなかった、と言ったのである。なぜなら、二つの本性はたがいに一致結合しているからである。この橋が高く築かれないうちは、だれもそれを渡ることができなかった。そのため、かれは、「わたしが地からあげられたとき、すべてをわたしに引き寄せるであろう」(10) と言ったのである。
 わたしの「いつくしみ」は、他の方法ではあなたがたを引き寄せることができないのを見て、かれを送って、十字架の木の上にあげた。わたしは、これを鉄床となし、その上で人類の子らを鍛煉し、これを死から救い出し、そのなかに恩寵の生命を回復させた。このようにして、かれは、すべてをかれに引き寄せ、わたしがあなたがたに対して抱いている名状しがたい愛を示したのでしる。それというのも、人の心はいつも愛に引かれているからである。かれは、あなたがたのためにその生命を棄てること以上に、大きな愛の証しを示すことができたであろうか (11) 。それゆえ、人間は、この愛の引力に抵抗するほど盲目でないかぎり、これに引かれざるをえない。わたしの「子」が、高くあげられたときすべてを引き寄せると言ったのは、そのためである。そして、それは真理である。
 これを理解するには、二つの方法がある。一つは、人間の心が、愛の情念に駆られて、霊魂のすべての能力、すなわち、記憶、知性、意志をもって、これを体験することである。この三つの能力が、わたしの名において協調し集合するならば、人間のほかのすべての働きは、外的なものも内的なものも、共感的にわたしの方に引かれ、愛の情念によって、わたしのなかで一致する。人間はこのようにして、十字架にかけられた愛に従い、高いところを目ざして登るのである。だから、わたしの「真理」が、「わたしが高くあげられるとき、すべてをわたしに引き寄せる」と言ったのは、もっともであった。なぜなら、心と霊魂の諸能力とをとらえたのち、そのすべての働きを、自分に引き寄せるからである。
 もう一つの方法は、万物は人間が使用するために造られているのであるから、すべては、理性的な被造物の役に立ち、その需要に答えるようにできているけれども、理性を与えられた被造物は、これらの物のために造られたのではなく、その心をつくし、その愛情をつくして、わたしに仕えるために、造られていることを、理解することである。そうすれば、人間はわたしの「子」の方に引かれている以上、すべては「かれ」の方に引かれている、なぜなら、他のすべては人間のために造られているからである、ということを理解することができるのである。
 要するに、橋は高く築かれていて、しかも階段がついている必要があった。もっとたやすく登ることができるためである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)