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アロイジオ・デルコル神父 江藤きみえ訳『十六のかんむり 長崎十六殉教者』

2016-10-31 03:00:59 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父 江藤きみえ訳『十六のかんむり 長崎十六殉教者』

 そのころは、まだ日本が外国とゆききしていました。もちろん小さな船ですが、それでも、ちゃんと手紙はとどいたものです。

 ある日、マニラのドミニコ会という修道会の管区長さまのもとに日本から手紙がつきました、日本文字の巻紙式の手紙をさっそくほんやくすると、「管区長さま、いま、わたしたちは、たいへんな迫害のあらしのなかにいます。どうぞ、バテレン(=神父さま)を送ってください。自分のカだけでは、信仰を守れるかどうかあやぶまれ、とても危険です。なにとぞ、お力ぞえのほどねがい申しあげます」と書いてよこしたのです。これは、日本の信者が必死の思いでかいて、こっそりと、たいへんな苦労をかさねて送った手紙だったのです。

 管区長さまのまえに3人の神父さまが、ひざまずいています。死を覚悟した人の真剣な表情で管区長さまのことばをきいています。聖トマス学院の院長アントニオ神父さま(スペイン人)、おなじ学院の教授トマス神父さま(フランス人)、ミゲル神父きま(スペイン人)です。

 もちろん管区長さまは、あの手紙にかかれた日本の信者のねがいに答えるために呼んだのです。手紙をみせてから管区長さまは、目に涙をうかべてただひとこと、「行ってくれ.ますか」とだけいいました。でも、この3人の神父さまがよろこんで承知することをちゃんと知っていました。なぜなら、この3人は、日本の宣教師になるためにこそ、このフィリッピンに来ていたからです。

アロイジオ・デルコル神父 江藤きみえ訳『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、2

2016-10-31 03:00:12 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父 江藤きみえ訳『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、2

 3人は、もうすでに日本語の勉強をはじめていました。でも、話して通じるのは、まだミゲル神父さまひとりだけです。

 さいわい、マニラには、ただひとりだけ日本人の神父さまがいました。長崎生まれのかれが、どうしてここにいたかを、まず話しましょう。

 この神父さまのひじょうに信仰心のあつい両親は、7名の子どもの末っ子として生まれたかれを、神にささげました。かしこいかれは、11才で浦上のセミナリオ(小神学校)に入学し、のちにマカオに留学しました。でも日本に帰ったときは、迫害のまっさいちゅうです。かれは、やっと役人の手をのがれて、マニラににげ帰ると、ここで神父さまになりました。

 学問にひいでていたかれは、そのとき、日本人神学校で教えていたのでした。この日本人神学生たちは、日本に帰ったら死ぬ運命にあります。なんときびしい道でしょう。それで、かれのはげましは、とても貴重でした。

 そんなかれに、あの3人の宣教師がさそいをかけました、「いのちが危険にさらされるのですから、とてもいいにくいが、もしあなたが、いっしょに日本にきてくださるなら,どんなに助かるかわかりません」と。かれは、そのとき静かに画をかいていました。血なまぐさし、日本にくらべるなら、ここは、なんと平和でしょう。

 でも、筆をおくと、かれは、にっこりほおえんで、明るい声で答えました。

 「よろこんで、おともします。もちろん、天国にもですよ」と。

 まず第一にかれがしたことは、イエズス会からドミニコ合にうつったことです。ルイス(=アロイジオ)塩塚とよばれるこの人は、修道名をこのときから、クルスのヴィセンテ(十字架のヴィンセンシオ)と名のりました。

アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、3

2016-10-31 02:59:45 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、3

 マニラの日本人町にたくさんの信者がいました。ラザロと洗礼名でよばれた京都出身の信者も、そのなかのひとりです。

 かれは、日本では、あの悲惨ならい病患者のひとりでした。いみきらわれるらい病患者たちは、町から村から追いだされて、生きるすべさえありません。ちょっとでも人里に近よれば、すぐ石がとんできます。でも、あるとき、かれらを宣教師がひろいあげて、献身的な世話をしました。そればかりではありません。みんな信者になれたのです。

 これをみた当時の将軍(1632年)徳川家光は、きたない人たちを掃除するよい口実ができたと大よろこび、132名もの信者のらい病患者を船につめこんで、マニラにおくり出しました。かれは、”だれが、こんなやっかいな病人をうけいれるものか、向こうへいったら、みな殺しにきまっている”と思っていたのです。

 ところがどうでしょう!フィリッピンのスペイン人たちは、かれららい患者を歓迎し、いたれりつくせりの介抱です。どれほど手あつい世話であったかは、このらい病から多くの人が、いやされたことをみてもわかると思います。

 あれから、もう4年がすぎていました。ラザロのほほには、病いのかげさえありません。かれは、日本行きの船にのりこもうとするドミニコ会宣教師のまえにきました。

 ひざまずき、それから頭を地にすりつけていいました、「どうぞ、わたしもお連れください。日本人は、わたしの兄弟です。伝道士になって、日本人に救い主のことを教えてあげたいのです。」

 「でも、いのちは、保証できませんよ」

 「いいえ、神父さま、ご心配なさいますな、日本に帰るからには、もとより死は覚悟しています。」

 そこで宣教師たちは、よろこんでラザロの申し出をうけいれました。

アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、4

2016-10-31 02:53:42 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、4

 中国人を父に、フィリッピン人を母にもつロレンソ・ルイスは、熱心な信者でしたが、スペイン人からけいべつされていました。そうしたある日、ふとしたことから、身分の高いスペイン人との、いざこざがあって、身の危険を感じました。こうなったら、外国に逃亡するしか道はありません。かれは、妻にいいました、

 「ねえ、おねがいだから、覚悟しておくれ。わたしは、日本に行く、さびしいだろうが、つらいだろうが、マリアさまもおん子イエズスと別れねばならなかったのだよ」

 「ああ、どうして、あなたのいらっしゃらない日々を過ごせましょう。どうぞ、わたしたちもお連れください。どんな、ひどいこともがまんします」

 「とんでもない、そんなことをしたら、人目について、すぐつかまってしまうよ」そういって、かれは、涙をふりはらって家を出ると、宣教師のところにかけつけました。ちょうど日本行きの船にのりこもうとしていたそのときに。

 「わたしは、スペイン人に追われています。ここにいたら、みつけ出されしだい殺されてしまいます。どうぞ、わたしを下男として、おともに加えてください」

 かれの願いは、すぐききいれられ、ついに1636年6月10日、小さな商船にのりこむことができました。

アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、5

2016-10-31 02:51:46 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、5

 いちおう、おもてむきは、マカオに行くということにしていますが、かれも、宣教師も日本に向けて出発したのです。

 荒波にもまれ、もまれ、一か月もの船旅ののち、いのちからがらたどりついたのは、日本国のアクセキ(悪石)という小さな島です。トカラ群島のなかの島で、最近になって、鹿児島県に合併されました。



 せっかくたどりついても、すぐつかまってしまう恐れがあります。当時の政府がいちばんねらっていたのは、宣教師だったのですから。

 それで宣教師は、スペイン商人の服を着用して、なるべくかくれ場から出ないようにしていました。

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 九州の町や村々に、高札がいくつもかかげられ、みんなが集まって読みはじめました。

 邪教徒を知らせたものには、ほうびとして、大きな金額がやくそくされていました。邪教とは、キリスト教のこと、バテレンは、司祭、ヒルマノは、修道士のことをさします。ころびキリシタンとは一度は、迫害にたえきれないで信仰をすてたものの、改心して、ふたたび信仰を宣言するようになった信者、キリシタンとは、一般キリスト信者のことをいいます。

「もしかしたら?」と、欲ぶかそうな、目のにごった男がつぶやきました

「去年海からやってきたあの男たちが、もしかしたら、キリシタンじゃなかろうか?どうもからだつきが島のものとちがって堂々としている。それにあの高い鼻、威厳ある顔つきが……どうもあやしいぞ。やあ、おれさまにも、金の神がおいでなさった。よし、この機会にうんともうけてやろう!」

 高札のそばから、かれは、長崎の奉行所めざして、いちもくさんにボートを走らせました。もし、だれかに先をこされては、せっかくの金もうけをだいなしにすると思って。