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レコンキスタの物語

2019-09-02 10:56:02 | イスラム教
・レコンキスタの物語

 600年代後半、スペインはイスラム教徒によって侵略されました。徹底的に征服されました。イスラム教徒は、北アフリカからやってきました。イスラム軍は、津々浦々を迅速に展開し、教会の鐘を壊し、十字架を壊しました。当然のことながら、多くの人が刃にかかりました。多くの女、子供、司祭、男たちが殺されました。この侵略はあまりに早く、700年代前半には、スペインは基本的にイスラム教の国になってしまいました。その頃には、スペイン北部の山間部、アストリア山岳地帯にカトリックの残兵が少し残るだけとなっていました。カトリックの残兵達は、ペラヨによって導かれました。ペラヨは、その山岳地帯の洞窟に住んでいた、偉大な聖なる修道者の友であり、弟子でした。その洞窟は、今では、「コバドンガ」として知られる、すばらしい場所です。現在は、男子修道院がそこに建っています。その洞窟の祭壇では、聖アンソニー・マリー・クラレもそこでミサを捧げられました。ペラヨはイスラム勢力に抵抗した偉大な将軍でそこに葬られています。そこは山岳地帯で、洞窟に隠れるようにして巨大な滝があり、当時の戦士たちは、飛び込んだり泳いだりと、楽しく過ごしていたのだと思います。

 しかし、そこに、おとめマリアが聖なる修道者に現れたのです。おとめマリアは「聖母ご自身が彼らを守ること、聖母の御保護のもとに彼らは多くの戦いに勝つことになること」と仰いました。ですから、そこは、「聖母のコバドンガ」と呼ばれ、美しいお召し物の聖母の御像があります。ペラヨとその部下は集まりました。ある人は、当時のペラヨ側の戦力を1000人であったと考えています。300人であったとする人もいます。兵士の数が問題なのではありません。イスラム教徒軍(戦力60000人)の侵入・侵略はさしせまっていました。ある日、ペラヨのもとに、オパス司教がやってきました。オパス司教は、ペラヨ将軍のところに来て、洞窟の入り口で大きな声でペラヨの名を呼びました。

オパス司教:「ペラヨ!」「ペラヨ!」

ペラヨはオパス司教を知っていたので、答えました。

ペラヨ:「はい、オパス司教様、どのようなご用件ですか?」
オパス司教は言いました。

オパス司教:「見よ、国全体がイスラム教だ。すべての都市はイスラムにのっとられた。自分の身の安全を考えよ。また、兵士の安全を考えよ。平和条約をイスラム軍と締結すれば、すべてがうまくいく。」

ペラヨは答えました。
ペラヨ「そしてあなたは、あなたの恥知らずの言葉で、わたしたちを納得させようとしているのですね。私たちが自分の立場を放棄して、イスラム軍が与えてくれるごほうびに喜ぶとでも思いますか。スペイン全土がカトリックにならなければなりません。私たちは異教徒のスペインを受け入れません。異教徒との妥協はありえません。司教様はすでにカトリックの旗印、カトリックの天主様を裏切っておいでです。そのうえで厚かましくも、我々が司教様を信用するなどということがあり得るでしょうか。」

イスラム軍と妥協していたオパス司教は、ペラヨに言いました。

オパス司教:「心配するな。戦いは無駄だ。あきらめて、武器を捨てた方がましだ。どうやって、わずかな兵力で、60000人もの訓練されたイスラム軍に勝つことができるのか。ペラヨ、おまえは敗者となるだろう。」

ペラヨは、ミサの聖福音を引用して言いました。
ペラヨ:「オパス司教様は、聖書の中で、天主の教会が「からしだね」に例えられているのをお読みになったことはないのですか。「からしだね」は小さいものですが、天主の御あわれみにより、ほかの何者より大きく成長するのです。」

オパス司教は言いました。
オパス司教:「でも、我々は、今や、我々を屈服させたイスラム軍に従うべきだ。そうすれば、奴隷になることや死刑を免れられる。生きろ。命を守れ。」 

ペラヨは、今日に至るまで洞窟に響きわたる偉大な言葉を言いました。

ペラヨ:「我々の希望は、主イエズス・キリスト様にあり、この山からスペイン及びゴート族(3ー5世紀にローマ帝国領内を侵略した部族)の救いが来るのである。キリストの御あわれみにより、われわれは多数のイスラム軍から解放されるであろう。帰ってください、オパス様。それから、この伝言を天主の敵に持っていくがよいでしょう。」

オパス司教は自分の町に戻り、言いました。
オパス司教:「ああ、私には、あの現実離れした、頑固な、古くさい、教義に固執したペラヨとあの修道者と兵士たちをを説得することは無理だ。」

 722年5月、イスラム軍は侵略を開始し、聖母はペラヨ軍を本当にお守りになりました。聖母は雨を降らせ、イスラム軍は、山、木々の茂み、ひどい雨での戦いに慣れていませんでした。年代記によると、ペラヨ軍の兵士たちは、剣を持って自分の足で走り回り、丘々や山々を飛び回りました。一方でイスラム軍は、馬が滑り落とされ、虐殺され、ひどい雨で流されてしまいました。聖母マリアによって勝利がもたらされたのです。ペラヨは、スペインの最初の王として戴冠しました。王国は722年から1492年まで、700年の長きにわたって、スペインを再びカトリックにするためにレコンキスタ(国土回復運動)の偉大な歴史を築いたのでした。




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後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社 1-3

2016-07-09 23:11:56 | イスラム教
後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社

一、時代の限定

 イスラム教は七世紀にはじまり、今日も活発に活動している。その間、「聖戦(ジハード)」という考えはイスラム教の中に一貫して存在し、現在でも声高に「聖戦」の実行を唱えてやまない勢力も存在している。イスラム教の文脈で「聖戦」とは、神の道に戦うことであり、戦いは必ずしも武力をともなうものではない。 神の道に精励努力すること、それが「聖戦」であり、その意味するところは広いが、ここではとりあえず武力をともなう戦いだけを「聖戦」とよんでおこう。そしてここでは、イスラム教が確立し、広大な世界を征服して帝国ともいうべきものを成立させた、七世紀前半の「聖戦」だけを取り上げることにしよう。それは、単一の敵に対する戦いではなく、敵を変えながらの一連の戦いであった。

二、時代の背景

(中略)

 そのアラビアにメッカはあった。ペルシア帝国の政治的影響力は、メッカやその周辺にはおよばず、この地域の人々は自立していた。そこには、かなりの数のユダヤ教徒やキリスト教徒がいたが、メッカの町は神々の文明の地方的なセンターであった。この地の神殿カーバには多数の神々の彫像がまつられていた。

三、メッカの衆に対する聖戦

 メッカのカーバ神殿にまつられていた神々にはそれぞれ固有の名前があったが、神殿そのものの主はアッラーという名で知られていた。一方、アラビアの一神教徒は、ユダヤ教やキリスト教でいう唯一神をアラビア語でアッラーとよんでいた。メッカの人ムハンマドは、いつしかこの両者を同一視した。唯一神から言葉を預かった預言者であると自覚するようになったムハンマドは、唯一神だけを信仰し、神の館にある彫像を崇拝しないよう人々に説教、宗教運動を始めた。それがイスラム教のはじまりであった。
 
 メッカは、人口一万人ほどの町であった。そのなかの二〇〇人ほどの男女の若者がムハンマドの説く宗教に共鳴して信者となった。他はすべてムハンマドとその仲間を冷笑した。ムハンマドにとって、メッカはごくわずかな神の信者と圧倒的多数の不信者が住む町であった。ムハンマドは、信者に神の道に戦うことを求めた。彼は、若干の棄教者を見捨てて、成年男子の数にして七〇名(他に女子供数十名)とともにメディナに移り、そこの住民の援けを得てメッカの不信者と戦うこととなった。メッカの不信者とはすなわち、ムハンマドとその仲間にとって親子・兄弟・親類縁者なのであったが。

 あるときムハンマドは、メッカからメディナへ移住した信者七〇名とメディナの支援者二百数十名、あわせて三〇〇名余を率いてメッカの大規模な隊商を襲おうとした。それを聞きつけたメッカの衆は、隊商の危機を救うべく千名の隊となって出撃した。隊商は回り道をとって無事であった。それを聞いて千名のメッカの衆のうち三〇〇名はメッカに引き返したが、残りの七〇〇名余はムハンマドを倒すべく前進をつづけた。バドルという名の泉のほとりで両者は激突した。イスラム教の歴史で名高いバドルの戦いがはじまった。西暦で六二四年のことであった。両軍はそれぞれラクダに乗って行軍していた。しかし戦いは、ラクダを降りての白兵戦であった。両軍に指揮官はいない。ムハンマドは、前線に立たず、後方のテントで神に祈りを捧げていた。両軍の戦士は、それぞれ得意の獲物、弓矢、槍、刀などをとって、てんでんばらばらに力戦した。結果は、三〇〇名余のムハンマドの軍が、その倍を超すメッカの衆を圧倒した。ムハンマドはその事態を、神の援けがあった、と理解して納得した。

 一年後、復讐の念に燃えるメッカの衆は、その成年男子のほぼ全員、二千名余が、一人の人物を指揮官に選んでまとまった軍となってメディナに進軍した。それを迎え打つムハンマドは、千名の軍を結集して、自ら指揮を執り、郊外のウフド山の山麓に布陣した。前回とは異なり、指揮官と戦術があるウフドの戦いがはじまる。メッカ軍には、名将ハーリドが指揮する騎馬隊があった。その騎馬隊の襲撃に備えて弓隊を山麓に残し、ムハンマドは全軍を指揮して山を駆け下りてメッカ軍に決戦を挑んだ。戦いはまたもや、倍する敵をけちらしたムハンマド軍の勝利にみえた。山麓の弓隊も持ち場を離れて前線に突入した。そのとき、機を見たハーリドは、騎馬隊を率いて後方からムハンマド軍に突入する。ムハンマド軍はけちらされ、かろうじて山麓で陣を立て直す。戦いは引き分けに終わった。

 そのまた二年後、メッカの衆は、メッカ・メディナ周辺の民に戦いへの参加を呼び掛けて、一万の軍を組織してメディナへ向かった。指揮官は前回と同一人物である。それに対してムハンマドは、ユダヤ教徒をのぞくメディナの成年男子のほぼ全員、三千名を組織することに成功して、塹壕を掘ってその内側に布陣した。塹壕をはさんでの小競り合いはあったが、メッカの衆を中心とする連合軍は暫壕を超えて攻撃することができず、なすことなく引き上げてしまった。ムハンマドは、メディナを守りきった。メッカの衆は、全力を挙げて組織した軍に報いることができなかった。

 メッカの衆は、ムハンマドに対抗する気力を失っていった。ウフドの戦いの際の騎馬隊の指揮官ハーリドなど有能な若者は、メッカを見捨ててムハンマドのもとに駆けつけた。やがて六三〇年、今度はムハンマドがメッカ・メディナ周辺の民にメッカとの戦いを呼び掛けると、一万の軍ができあがった。メッカの衆はこの大軍を前にして抵抗せずに降伏し、イスラム教を受け入れた。神の館にあった彫像はすべて破壊され、メッカはユダヤ教、キリスト教につぐ第三の一神教であるイスラム教の象徴となった。

(上の写真はカーバ神殿、右下の絵はメディナのユダヤ人部族を包囲するムハンマド)

後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社 4

2016-07-09 23:11:12 | イスラム教
後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社

四、アラビアの民に対する聖戦

 アラビアの中にあって、メッカ・メディナがある地域をヒジャーズ地方という。そのヒジャーズ地方の北半分の民を結集してムハンマドは一万の軍を組織してメッカを征服した。そのとき、ヒジャーズ地方の南半分の民は、一万の軍となって、弱りつつあったメッカを襲おうとして待機していた。メッカを征服した直後のムハンマドは、この待機していた軍に襲いかかり、それをけちらした。アラビアで、双方一万の軍の激突は、おそらく、数百年はなかった大事件である。その勝利者ムハンマドの声望は高まった。アラビア最大の実力者とみなされたのである。ヒジャーズ地方を超えて、全アラビアから、各地の実力者がムハンマドのもとに使節をよこした。ムハンマドの政治的影響力は全アラビアにおよんだことになる。そしてその直後、預言者ムハンマドは死んだ。

 ムハンマドがメッカで宗教運動を展開していたのは、六一〇年代のことである。このとき、パンと乳の文明圏の西の支配者ローマ帝国と東の支配者ペルシア帝国は、戦いのさなかにあった。なお、我が国の歴史学の常識では、この時代のローマ帝国をビザンツ帝国とよんでいる。これは、一九世紀後半のヨーロッパの歴史家が、ローマ帝国とはよびたくないと勝手に考えて名付けた名前で、その命名はとりわけ深い学問的な洞察に基づいているわけではない。一九世紀後半までは、この時代に地中海世界の大部分を支配していた帝国はローマ帝国とよびつづけられていたのであるから、本稿でもローマ帝国とよぶことにしよう。それはともあれ、両者の戦いは、ペルシア帝国がローマ帝国を圧倒していた。ヒジャーズ地方をのぞくアラビア各地の実力者はみな、ペルシア帝国の皇帝によしみを通じ、そのお墨付をもらって各地で政治権力を握っていたのであった。

 ところが六二七年に、ペルシアの軍はローマの軍に大敗し、ペルシアは屈辱的な条件でローマと和平条約を結んだ。その後のペルシア帝国ではクーデターが相次ぎ、皇帝の権威はないに等しくなっていった。その直後に、ムハンマドがメッカを征服し、南ヒジャーズの一万の軍を破ったのである。ペルシア皇帝に頼っていたアラビア各地の実力者は、今度はムハンマドに頼ったのであった。そしてそのムハンマドが死んだ。ムハンマドの政治的・軍事的拠点はメディナであった。そのメディナの民は、ムハンマドの死後、紳余曲折はあったが、結局はアブー・バクルという名の人物をムハンマドの単一の後継者(カリフ)に選んで団結を維持した。

 しかし、ムハンマドの政治的権威を受け入れたアラビア各地の人々は、実力が定かではないアブー・バクルの権威は受け入れなかった。ムハンマドに頼ったアラビア各地の実力者はおおむね、それぞれの地でライバルに蹴落とされ、アラビアは騒然とした。アラビアの政治的伝統として「王」という称号に基づく権威がないわけではなかった。しかし、つい最近のアラビア最大の実力者ムハンマドは、預言者という権威で人々を惹き付けた。預言者こそ指導者としてふさわしい称号である、と人々は考えた。

 アラビア各地で、預言者を称する人を戴く政治勢力の結集がはじまった。メディナの周辺、北ヒジャーズ地方の人々は、一人の預言者のもとにまとまってメディナを襲ら準備をはじめた。ムハンマドの後継者(カリフ)にしてみれば、とんでもない事態である。預言者はムハンマドでおしまいであるべきだ。ムハンマド以外の人物で預言者を称する者は「大嘘つき」である。「大嘘つき」の勢力は倒さねばならない。
 アプー・バクルは、全力を挙げて、この勢力を倒した。北ヒジャーズの民は、アブー・バクルとイスラム教の権威を認めた。「大嘘つき」はアラビア各地にいた。北ヒジャーズの民を軍に組織したアブー・バクルは、各地にその軍を派遣した。軍の司令官は、ハーリドをはじめ、かつてメッカでムハンマドとその仲間を冷笑し、やがてはムハンマドと武器をもって戦った人であった。ムハンマドの血縁者であった彼らメッカの人々が、ムハンマド没後の「聖戦」の主役となっていった。
 今日のサウジアラビアの首都リヤドがある地方をヤマーマ地方という。そこにあった、イスラム世界の史書が卑しめてムサイリマとよぶ「大嘘つき」の勢力が、アブー・バクルにとって最大の敵となった。何隊もの軍がメディナから派遣されては跳ね返された。最後に、名将ハーリドが派遣された。彼はヤマーマにいたると、数万の敵と果敢に戦い、最後の決戦で一万数千名の敵をほふって勝利をもたらした。イスラム世界の史書は、ムハンマドの死後のアラビアでの一連の戦いをリッダの戦いとよぶ。リッダとは戻るという意味で、いったんはイスラム教を受け入れたアラビアの民が、イスラム教から異教に戻ってしまったために起きた戦い、とするのである。
 ともあれ、リッダの戦いを、イスラム教の勢力は戦い抜いた。そして、戦いを勝ち抜いていく間に、軍は膨れ上がっていく。軍を解散してしまえば、アラビアの民はいつまた戻ってしまうかもしれない。人々を軍に組織したままであるのが望ましい。しかし、軍には敵が必要である。軍人に給与を払う余裕は、アプー・バクルの政府にはない。敵と戦って戦利品を得て、それを軍人に分配する。それがアラビアの軍である。アラビアの敵はすでに討伐し尽くしつつあった。新たな敵を求めて、イスラム教を奉じるアラブ人の軍は、アラビアの外へとでていく。

後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社 5

2016-07-09 23:08:31 | イスラム教
後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社

五、ローマ帝国相手の聖戦

 ムハンマドの生前、六二七年にローマ帝国はペルシア帝国に勝利を収めたが、それまでの十数年間、ローマ帝国にとっての最重要の領土であったシリアとエジプトをペルシア帝国に占領されていた。この時代のシリアとは、今日のシリアだけではなく、ヨルダン、イスラエルとその軍事占領下にある。パレスチナ、レ.ハノン、トルコの南部などにまたがる広大な地で、文化的にも経済的にも、パンと乳の文明圏の中核地域であった。そして、それにもましてローマ帝国にとってのこの地の重要性は、帝国の国教キリスト教の発祥の地であり、エルサレムやアンティオキアといった大教会のある地であることであった。

 ぺルシアから返還された六年後のシリアに、アプー・バクルが派遣したアラブ.イスラム軍が侵入してきた。それぞれ三〇〇〇人よりなる三隊の軍であった。当時のシリアでは、異端とされた単性論派のキリスト教徒が多かった。彼らは、十数年間のペルシアによるシリア支配の間、正統派から迫害を受けずに暮らしていた。ジリアがローマ帝国領に戻ってからは、彼らは正統派によって圧迫されるようになった。そこにイスラム軍が殺到したのである。単性論派のシリア住民にとって、イスラム軍は正統派の圧迫から彼らを救う解放軍であった。イスフム軍の進軍に抵抗などするはずもなかった。彼らは、それまで皇帝に支払っていた税をアラブ軍に支払うことを条件に、安全保障を受け入れていった。

 アラブ・イスラム軍の三軍はそれぞれ、戦利品目当てにアラビアから駆けつける戦士を加えて膨れ上がっていった。正統派のキリスト教徒の町エルサレムなどは当然のことながら抵抗した。そして帝国のシリア守備軍は、その根拠地カエサリアから出軍してアラブ・イスラム軍に対抗した。しかしこの軍はあっさりけちらされてしまった。

 皇帝は首都で大軍を組織してシリアに送った。そのとき、イラク戦線から名将ハーリドが駆けつけ、シリア各地に散っていた三軍を集め、ヤルムーク川の左岸に布陣した。そして、右岸に布陣したローマ軍との間に、決戦の火蓋が切られた。そのときは正確には分からないが、メディナにいたカリフ・アプー・バクルが死去して、ウマルという名の人物が新たにカリフになっていた六三四年より後のことである。ウマルはハーリドを解任しようとしたが、ハーリドは構わず指揮を執った。ヤルムーク河畔の戦いの全貌は分からない。イスラム教の史書に残るのは、個々のアラブ戦士が勇敢に戦った武勇伝だけである。アラブ・イスラム軍が装備で特段にすぐれていたはずがない。ともあれ結果は、ハーリドが指揮するアラブ・イスラム軍が快勝したのであった。

 その後アラブ軍は再びシリア全土に散って、各地の民に安全保障を与えて、税を徴収した。エルサレムなどは数年間抵抗したが、最後には町を包囲していたアラブ・イスラム軍に降った。その間、三軍のうちの一軍は、エジプトに向かった。エジプトの民も多くは、異端とされた単性論派の信者で、アラブ・イスラム軍に抵抗はしない。帝国の正規軍が抵抗を試みたが、やがて降伏した。ローマ帝国相手の聖戦は、十年もしないうちに、シリアとエジプトという豊かな戦利品をもたらしたのであった。

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2016-07-09 23:06:54 | イスラム教
後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社

六、ペルシア帝国相手の聖戦

 今日、サッダム・フセイン大統領を戴くイラクという国は、人口二〇〇〇万人程度の小国に過ぎない。しかし、紀元前数千年の昔からメソポタニア文明を育んで首たこの地は、七世紀という時代にあっては、世界的にみても人口禍密な地域の一つで、パンと乳の文化圏の一つの中核であった。ペルシア帝国は、ここイラクを拠点に、イラン高原から中央アジアを支配する巨大な帝国であった。

 しかし、六三〇年代の初頭は、ローマ帝国に敗れたペルシア帝国は皇帝不在の状態がつづき、帝国の態をなしていなかった。隙をみれば略奪にいくのが砂漠のアラブ人である。豊穣なイラクに備えなしとなれば、周辺のアラブ人は早速そこを目指した。

 アラビアの「大嘘付き」の勢力を平定しつつあったメディアのカリフ、アブー・バクルは、ムサイリマを打倒したハーリドを、この略奪隊をイスラム教の旗のもとに纏めるべくイラクに派遣した。彼はいくつかの町を降伏させた後、シリア戦線に去った。残されたアラブ・イスラム軍は統制を失い、進軍はままならなかった。ペルシア帝国は、中央アジアでトルコ系の人々に備えていた軍がイラクに転回して、王家の若者の一人を皇帝に擁立して体制を整えていった。そしてその軍が、アラブ・イスラム軍を何度か破り、イラク防衛を果たすかにみえた。

 アブー・バクルの後カリフとなったウマルは、アラブ・イスラム軍の将を任命して態勢を立て直させた。そのアラブ軍とペルシア軍が、カーディスィーヤという場所で激突した。ペルシア軍は重襲備の騎兵部隊や象部隊を備えていた。それに対してアラブ軍には勇敢さだけがあった。三日にわたる激闘は、結果としてアラブ・イスラム軍の勝利に終わった。六三六年か七年のことである。正規軍が敗られれば、ペルシア皇帝に忠誠心などもっていないイラクの民は、それまで皇帝に支払っていた税をアラブ軍に支払うことを条件に安全保障を得ていくだけで、抗などはしなかった。皇帝は、その華麗な首都クテシフォンを見捨てて、ペルシア高原に去った。アラブ軍の戦士は、そこで信じられないほどの戦利品を得て満足した。

 ペルシア皇帝は、ペルシア高原で軍を立て直した。数年後の六四二年・皇帝はイラクヘと進軍したが、イラク平原に降る途中のニハーワンドでアラブ・イスラム軍との決戦を強いられた。イスラム教の史書は、いつでも合戦の全貌を伝えようとはしない。個々の戦士の武勇伝の総和は、アラブ軍の快勝を伝えている。敗軍の将ペルシア皇帝は敗走し、数年後に部下に殺されて帝国は滅んでしまった。