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江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、24

2024-02-05 18:44:16 | ボネ神父様
江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、24

第2部 回想への巡礼 療友のつづった思い出の記をたずねて

2 今村の教会主任司祭

(a)ダンテの神曲一あるミッション会の神父さまのおはなし

 奄美大島から平戸の教会へ、そしてまたこの今村の教会へ移ってきた神父さまは、もうすっかりお年を召していましたが、ご性格も野生育ちの幼ない日のそぼくさがいっそう目だってきていました。

 神父さまは、一日もかかしたことのない日課として、きょうもたんぼのあぜ道をあるきながら、いっもの散歩に出かけました。道々会う人ごとに話しかけるので、村では、村長さんも、郵便配達人も、先生がたも、それによちよち歩きの坊やまで、神父さまをよく知っていて、かれを心の底から愛していました。

 かれは、こうして毎日村をまわって歩きながら、よき牧者として絶えずその小羊の上を見守っていたので、あっい夏の夕方など、下着一枚で食事をしているところへひょっこり神父さまの来訪をうけてあわてる信者もありました。

 また、百姓育ちのかれは、畑仕事が好きで、故郷からいろいろなたねをとりよせて、洋野菜の栽培をしたり、鶏や、乳牛まで飼っていました。

 ときたま、町へ出かけでもすると、肉や乾物など、しこたま仕入れてきましたが、これらはみんな社交好きな神父さまの、寛大であたたかいもてなしに変えられていきました。

 教会を、高い塔が空にそびえている聖堂や、しゃれた洋造りの司祭館、それに、取りつぎの必要な貴族的でとうとい神父さまという範囲でしか考えることのなかった人々を、ボネ神父さまは、完全にうらぎってしまいました。

 かれの教会は、聖堂の壁をつきぬけて、道路へも、たんぼのなかへも、子どもたちの遊んでいる小川へも、また、うちくつろいだ百姓家のわら屋根の下までも、際限なくひろがってゆきました。

 それに、かれの小羊には、信者ばかりでなく、未信者までもまじっていたのです。こんな理由で、かれは、あの人のことも、この人のこともよく知っていました。

 信者のなかには、まじめな信者のかたわらに、神父さまの慈父の心を痛めるものもいました。それは、何年もがんこに告白を拒んでいるものや、ミサをおこたるものまたは、信心業にはかかさずあずかるが、平気で人の悪口をいってまわる困りもの、そのほか、霊魂のことなどてんで考えようともしない生活上の唯物主義者たちでした。

 そこで、神父さまは、ある日曜日のこミサのあとで、とても変った説教をはじめたのです。

ボネ神父 略歴

2017-10-08 06:20:33 | ボネ神父様
江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、46


◆ 略歴

 1878年2月28日、ブザンソンに生まれ、マキシム・ボネと名づけられました。
 幼ないころ、心に召しだしを感じたかれは、小神学校をへて、たくさんの殉教者を生んだ、有名なパリ・ミッション会の大神学校に入学しました。ここで神学、哲学、その他一般教養科目を修得すると、1903年、卒業と同時に、司祭職の叙品をうけて、その生涯をかけた愛の使徒職へと出発したのです。

 この誕生したばかりの25歳の青年司祭が、なつかしい父母兄弟や、あたたかい故郷の人々とのつらい決別を男らしい希望に変えて、長崎へ上陸したのも、やはり同じ1903年でした。上陸後、いちおう鹿児島の教会におちつくと、そこで1年間、日本語の勉強をし、つぎに、宮崎の教会へ移り、ここでまた1年同様に日本語の勉強をっづけました。それは、1903年から1905年までで、そののち、奄美大島の嘉渡教会の主任司祭に任命されました。

 一度、独仏大戦の際に、故郷へ帰りましたが、それは大正3年から9年までの6年間で、終戦と同時にふたたび嘉渡の教会へもどり、大正12年までここにとどまりました。

 しかし、ちょうどそのころ、大島は、フランシスコ修道会の手にあずけられたため、ボネ神父さまは、大島から引きあげ、同12年9月、平戸の宝亀教会に主任司祭として赴任されました。しかし、ここも長崎教区の誕生によって転任をよぎなくされ、近くに飛行場のあった今村の教会に移りました。ここで神父さまは、在任12年間に35人もの青年を神学校に送り、邦人司祭の生みの親として、教皇さまからごほうびの祭服をいただかれたことがありました。

 そののち、大東亜戦争がはじまり、太刀洗の飛行場が爆破されたため、スパイの嫌疑をうけて、監獄に投ぜられました。まもなく終戦とともに釈放されましたが、神父さまには大きな試練だったに違いありません。

 そのころは、ヨーロッパ人とみれば、だれかれの差別なく、スパイ扱いをされたため、うるさい特高や、憲兵の干渉がたびたび神父さまを悩ましたものです。ある時など、ピストルをかまえた憲兵があらわれ、神父さまに「天皇陛下と、おまえの信ずる神と、いずれが上か返答せよ」と迫りました。神父さまは、一度、痛悔の祈りをとなえ、殉教の覚悟を固めると、きぜんとして、「神が上だ」と答えましたが、このとき憲兵がどのような態度をとったかは、想像にまかせるとして、神父さまは、ついに豚箱ゆきとなりました。しかし、この憲兵は、戦争が終わると、たくさんのみやげをもって神父さまをたずね、平あやまりにあやまったということです。

 こののち、神父さまは、一度飯塚の教会へ転任されましたが、1945年、かれの最後の地となった新田原の教会に主任司祭として任命されたのです。ここで神父さまは朝夕、療養所をたずね、患者をわが子のようにいつくしみました。

 1953年8月、一度中風のため、北九州にあるミッション会本部に隠居されましたが、ご病気がしだいに重くなられたので、ふたたび新田原にもどって、サナトリウムに入院され、そこで2年間訪問童貞会の修道女たちから手あつい看護をうけたのち、1958年、81歳のこ生涯を閉じられたのです。

おわり

(ボネ神父伝)45、あとがき

2017-10-05 05:23:26 | ボネ神父様
江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、45

◆ あとがき

 ずっと尾をひいて夜空を流れ、まもなくやみの中に消えてゆく流れ星のように、長い歴史のある一点にかがやきはじめたボネ神父さまのこ生涯も、しばらくその美しい光をみせたあとで、また永遠のやみへと消えてゆきました。その81年の長い歳月も、宇宙の悠久さにたいしては、岩にくだけ散る泡のように、はかないものでした。

 でも神父さまのこ生涯は、くだけ散った泡でも、虚無にかえった時間でもなく、この世に実現された永遠のみことばの一つだったのです。

 じつに、ボネ神父さまの姿こそ、主がおのれに似せてつくりたいと望まれたものでした。しかも、自由意志をあたえて、自己完成をまっとうさせた、幸福な典型的人間像ではなかったでしょうか。

 けがれた歴史の古い垢でつくられた、この世のすべての虚偽を捨てた野人ボネ神父さまのご生活をしのぶときあの純心さ、無邪気さ、あたたかいいつくしみは、ややもすれば技術文明のなかで、人間らしさと、精神の自由を失いながら、機械化されようとする不幸なわたしたちに、なにか一つの希望をあたえてくれるように思われます。わたしは、かれの生涯が、人々の心に永遠の愛の甘美なひらめきとなることを望まないではおられません。しかし、わたしのつたない筆には、ボネ神父さまのこ生涯は、あまりに偉大すぎるようにみえました。それでひたすら思い出の記をたどることによって、わたしの小さな役目をはたさせていただいたと思います。

墓前にそなえる歌(ある療友の手記より)

2017-10-04 06:21:32 | ボネ神父様
江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、44

第3部 永遠への出発

◆ 墓前にそなえる歌(ある療友の手記より)

遠くきて、ささぐる療友の花束を、
師の十字架は抱くがごとく、
師を慕う療友の便りを額づきて
語ればつきずすぎし想い出
わしの墓は、ここじゃと、常にいわれし聖堂のわきに師は眠ります。
ボンジュールの答え賜わる患いする
墓前に立ちて、師のみ名呼べば。

(ボネ神父伝)◆3、時間のおわり

2017-07-29 10:15:30 | ボネ神父様
江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、43

第3部 永遠への出発

◆3、時間のおわり

 3月19日、聖ヨゼフの祝日、ミサの祈りをして、ベッドの上でご聖体を拝領したあとで、わたしは聖ヨゼフさまにたくさんのお取りつぎを願いました。その日は、朝から晴れわたり、ときおり、清潔にみがかれた窓ガラスの向こうを通りすぎる白い綿のような雲が、ほんのちょっと息をっくように、かげをさしてゆきました。このとき、シスターがお清拭にきてくださって、「ボネ神父さまが少しきっいから、お祈りしてください」とおっしゃいました。

 みなはっとして息をのみました。声をだしては、神聖なものが冒され、まるで神父さまの死を早めるかのように思えたからです。そこに居あわせたものは、だれひとりとして動こうとはせず、静寂は、戸外の並木のうえにまで、ただよっていました。

 すると、とつぜん、不安な緊迫のさなかに、鐘が鳴りだしたのです。10時ごろだったでしょうか?ボネ神父さまがなくなられたのです。

 わたしたちは、すぐ十字架のしるしをして、「主よ、永遠の安息をかれにお与えください」とお祈りしましたが、あとは涙がこみあげて声がでませんでした。

 わたしたちは、夕方、シスターにお願いして、ボネ神父さまのおへやへつれていっていただきました。

 まくらもとにともされた2本のローソクの火が、神父さまの蝋のような青白いお顔のうえにゆれていました。銀の十字架のうえからあわれみ深くみつめる、主のまなざしに包まれるようにして横たわっている神父さまのお顔には、はればれとしたほほえみの跡さえ残っていて、今にも、あのやさしいお目をあけて、なにか話しかけてくださりそうな気がしました。

 神父さまは、司祭の服を召され、黒い祭服をつけ、手にロザリオをかけて、静かに眠っていらっしゃるようにみえました。それで、気味の悪い死体のそばにいるという感じが、少しもなく、なつかしさが胸いっぱいにあふれてきました。

 わたしは、このように、直接ボネ神父さまのなくなられたお姿をみましたのに、なぜか悲しいというよりも、平和にみたされたような気持になり、人間の死とは、こんなものだろうかと、改めて考えなおさずにはおられませんでした。

 おりから、6時のお告げの鐘が鳴りはじめ、金色の空気を静かにふるわせながら、若葉のうえを越えて、野へ山へと伝わってゆきました。

 鐘がなる!やさしい余韻をひきながら、やわらかな夕やみにとけて流れてゆく。しかしそれは、いつものように時をつげる鐘ではありませんでした・・・・それは、時が終焉をつげ、永遠がそこから始まる、希望の鐘だったのです。すなわち、この世でまことの自由をえたものにのみ与えられるよろこびと、栄光の鐘で、それは、絶対的な安らぎを与えられ、愛にとけこむもののしあわせを歌う鐘でした。




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