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志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、1

2016-07-30 10:22:22 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

 若い人々の心に召しだしの熱望をおこさせ、もえたたせるのは神である。「わたしに従いなさい」という招きを受けいれる人は、自分の家族も仕事も地上の希望さえもうちすてて、神が示される道を進み、救い主の協力者となる。ここで、その具体的な生きた一例を紹介する。

◆ 著者略歴

 志村辰弥1904年誕生、1933司祭叙階、1934年ローマ・ウルバノ神学大学卒業 主著「ルルドの出来事」「聖地巡礼2週間」「この事実を何と見る(神と霊界との探求)」「聖書による予言と奇跡」上記の姉妹編「命をたいせつに」「カトリック生活の手引」現在(投稿者注 この著書の発刊時)東京カテドラル大聖堂勤務 司祭のマリア運動会員 ブルー・ア一ミー(反共世界平和連動)

◆1、少年時代

 わたしは明治三十七年一月、甲府市外、東八代郡上曽根村(現在中道町)に五人兄弟の末子として生まれた。両親が信者だったので、生まれて間もなく洗礼を受けた。当時は、日露戦争の勃発で日本は大きな困難に見まわれていた。しかし、わたしの少年時代は、戦勝に酔う軍国主義の雰囲気に包まれ、わたしたちは兵隊ゴッコの遊びに熱中して、大きくなったら陸軍大将になるんだと真面目に考えていた。

 その頃は、ラジオやテレビなどは、もちろんなく、家に電灯がついたのも小学校五・六年の頃だった。だから、毎日の最上の楽しみは、家族揃って夕の祈りをしたあと、冬などはこたつを囲んで、よもやまの話に耽けることであった。子供たちは、年齢に従って祈りの先唱をさせられた。眠くて辛いこともあったが、この習わしは信仰を培うよい助けになったと思う。

 高等小学校へ通うようになって、隣村の山城教会で毎週土曜日の午后、甲府教会の伝導士井上先生から公教要理の勉強を受けた。そして八王子市から巡回して来られるメーラン神父から初聖体を受けた。公教要理は子供用のものはなく、文語体で書かれた赤い本で、難しい語句がたくさんあって、おぼえるのに大変だった。たとえば、

問「人に最も肝要なるは何ぞや」

答「人に最も肝要なるは宗教なり」

問「宗教とは何ぞや」

答「宗教とは天主に対する人の道なり」

と言ったふうである。そして、これを暗記させられるのだから、辛かったが、あとになって大変役に立ったことを思うと、それでよかった。

 ある日、メーラン神父は叙品の秘跡(現在は叙階)について熱心に説明した。そして、居並ぶ数名の男女を見廻して、「この中から、天主の召し出しをいただいて、司祭や修道者になる人があったら、ほんとうに嬉しいことです」と言った。わたしは、その言葉がわたしに言われたように感じて、内心強く反発した。

《こんなチャンコロ(支那人を軽蔑した言葉)のような着物(スータンのこと)を着て町の中を歩く神父などに誰がなるもんか……》

 しかし、今になると、それが神の最初の呼びかけではなかったかと思われる。

 公教要理の勉強は一年で終わって、中学へはいったらやめてしまった。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、2

2016-07-30 10:21:58 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆2、中学時代

 中学校は色々の勉強があって楽しかった。しかし、唯物的、合理主義的思想が支配していたので、宗教などは全く顧みられなかった。時には進化論の講義で、人間は猿から来たものだと、もっともらしく説明されて、聖書の教えはお噺話のように思われた。また、ガリレオの地動説やルーテルの免罪符問題などで攻撃されて、教会に対して不信を抱くようになった。それに性の醒めによる悩みに押えられて、教会へ行くことがこわくなった。

 そうした環境の中にあって、それらの疑問や悩みを解決してくれる人がいなかった。もちろん、教会へ行って説明を乞えばよかったのだろうが、その勇気がなく過ごすうちに、だんだん信仰を失ってしまいには神の存在さえ認められない、それはかれらの言う通り、個人の妄想に外ならぬと考えるようになった。しかし、そうかといって、両親や家族のてまえ、教会から離れることはできなかった。

 こうして、中学時代は多くの知識を得たが、世俗的生活に流されて、それによって自己反省や誠実に生きる内的生活を忘れた。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、3

2016-07-30 10:21:03 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆3、高師の入試をめざして

 大正十一年三月、中学を終えて、父のすすめに従い高等師範への入学準備のために上京し、明治大学の高等予備校へはいった。それは入試か十月に行なわれるので、よい準備をしたいからだった。明治大学は駿河台の岡にあり、四階建ての堂々たる校舎に圧倒されて、自分もこのような学府に学んで偉くなろうという野心に燃えた。そして、下谷の遠戚に下宿して、よく勉強した。

 高師の入試は首尾よくパスした。すると、それ以上を望む野心が頭をもたげて来た。「隴を得て蜀を望む」という諺がある。それは一つの望みが達せられると、またその上を望むという意である。《高師が合格したから、来年四月には黙っていても入学できる。それなら、もう一歩進んで、赤門の一高を受験してみよう。そして、もし合格すれば、奨学金をもらって勉強できる》。

 一高から東大へ! これは出世のコースで、当時の青年たちの最高の夢であった。ところが、神の計画はわたしが望むようではなかった。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、4

2016-07-30 10:20:18 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆4、脚気衝心

 大正十二年二月の初めだった。午前二時頃だったろう。圧しつぶされるような胸の圧迫を感じて目がさめた。心臓が早鐘を打つようで、あまりの苦しさに半身を起して助けを求めた。その頃、わたしたちは数人の親戚の者と小石川植物園の近くに家を借りて合宿していた。従兄弟たちは、驚いて起きあがり、ある者は医者を呼びに走り、従姉はタオルに水を浸してわたしの胸に当て、うしろから抱えて介抱してくれた。ときどき胸が強く圧迫されて息がつまりそうになり、思わず、「苦しい!」と叫ぶ。目を開いても真暗で何も見えない。頭がガンガンしてなんだかさっぱり解らない。そのうちに電灯がボンヤリ見えはじめ、記憶も次第にはっきりして、早鐘のように響く胸の動悸を感じた。とたんに、《脚気衝心だ!》と直感した。数週間前に、足が重いので医者へ行ったら、脚気だと注意されていたからである。

 神経は恐ろしい。それまで比較的平穏にかまえていた心が、《これで死ぬのか?》と思うと、体中の器管が総立ちになって反抗するように、熱気をおびて震えばじめた。そして、《恐ろしい!こわい!》という思いがいっぱいで狂わんばかりである。

 《これで自分も最後か!両親や兄弟にも知られずこの世を去るのか!そんなことは何んと言っても思い切れない。友人たちは、皆希望の学校へ進んで偉くなって行くのに、どうして自分だけがこんな不幸を見なければならないのか。今まであんなに努力して勉強したことが、みんな水の泡になってしまうとは!こんな状態では、死に切れない》。

 しかし、刻々死のふちに追い立てられて行く気持ちをどうすることもできない。すると不思議にも、子供の頃から今日まで過ごした過去の出来事が、走馬灯のように、それからそれと頭をかすめ、小学校の頃、教会で神父に教わった公教要理の記憶がよみがえって、わたしを極度に苦しめた。

 《いま死んだらどうなるか?》

 小学生時代は熱心に教会へ通ったが、中学へ行くようになってからは来世を否定するばかりでなく、神の存在さえも疑うようになっていたからである。

 《ほんとう来世があるのか?あるとすれば、自分は地獄行きだ》。

 すると、だれかが地獄だと訴えるように覚えて、神父の言葉をお噺話のように笑っていた心が、何か強い力でしめつけられるように感じて、居ても立ってもいられなかった。そして、思わず、「神父さんを呼んでくれ!」と叫んだ。

 そうこうするうちに医者が来た。まずわたしを診察し、囲りの者から色々事情を聞いたらしいが、わたしには何も言わず帰って行った。朝になって少しは落ちついたようであったが、ときどき発作が起きて、その都度、心臓麻痺の恐怖に襲われた。八時ごろ、神田教会のシェレル神父が来てくれた。久しぶりで告解をし、いくらからくになったが、来世の問題で頭は不信の雲に囲まれていて、心の安らぎは得られなかった。

志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』、5

2016-07-30 10:19:40 | 召命
志村辰弥神父著『召命について ー わたしの体験』

◆5、回心

 こうして二・三日が過ぎた。心臓がおちつくと食事も少しは取れるようになった。最年配の従兄は、わたしの心を察してか、「気分がよかったら、これでも読んで見ないか」と「真理の本源」を枕元へおいた。この本は、パリー外国宣教会のドロワール・ド・レゼー師が出した当時の唯一の護教書である。わたしは早速ひもといて読みはじめた。緒言を見ると、

 「わたしが祖国や家族を離れて日本へ来たのは、わたしの信じるところを皆さんに伝えて、共に生き甲憂のある人生を辿りたいと思う一念からです。わたしが述べることに納得できるなら、真剣に考えて見てください」。

という意味のことばがあった。

 ドロワール・ド・レゼー師は、フランスのベルサイユに生まれ、パリー外国宣教会の神学校を卒業して、明治六年(一八七三年)日本へ渡来し、各地で布教したのち、晩年は御殿場の神山ライ病院へ引退して、八十二才でこの世を去った。貴族の出身で学問の造詣が深く、弁舌もたくみで、当時の優秀な宣教師だった。わたしはなんの縁か知らぬが、同師から洗礼を受けた関係上、父から師の話を聞いて尊敬していた。「死に臨める人の言やよし」という句があるが、生涯をかけて、ひとすじに信仰に生きた人の言葉には、かならず聞くべきものがあると思った。

 師はまず、神の存在から論旨を進めている。これこそわたしが長年悩み苦しんだ問題であるので、かれがそれをどう説明するか、わたしの運命はそれにかかっていると言ってもよい。それだけに、大きな期待をもって読みはじめた。師は、「結果があれば、それにふさわしい原因がかならずなければならぬ」という因果律を基礎にして、宇宙の発生、その驚くべき秩序と法則、生物の発生、人聞の良心と道徳感など、色々と証明や実例をもって説明している。殊に神の存在とその本性については、全く反論の余地がない論証である。

 わたしはこれに全く承服されて、頭をさげざるを得なかった。そして、自分がいかに無知でおろかであったか、また傲慢で軽薄であるかを悟った。次に、霊の世界があることに醒め、人間に霊魂かあることによって、来世の問題も難なく解決した。さらに、キリストによる救いの問題であるが、これは「真理の本源」の続編で詳しく説明され、予言と奇跡によって認められることが証明されている。

 こうして、噺話しのように笑っていた聖書は、神の啓示による記録であることが認められるようになった。わたしは、暇にまかせて、繰返し繰返し熟読した。そして、宣教師たちが、祖国を離れ、生涯をかけてキリストのみ教えを宣べている信念を理解することができた。それからというものは、過去の生活を改め、ひたすら神に従って生きようとする心に燃えて、よく祈り、黙想し、現在の不幸を神の戒めとして甘受する心構えができた。これは、わたしの人生における一大転換であった。