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聖ユスティノ殉教者

2024-06-01 00:00:05 | 聖人伝
聖ユスティノ殉教者        記念日 6月 1日


 ユスティノの両親はギリシャの異教徒でサマリアのフラビア・ネアポリスに住んでいた。ユスティノは長い間、哲学の勉強をしていたが、キリスト信者となりキリストの教えを最高の哲学、最高の道徳としてこれを実践して、信仰は知的の思想と両立できることを示そうと試みた。それでユスティノをキリスト教徒の最初の偉大な哲学者と言うことができるのである。

 キリスト信者たちがローマ皇帝アントニウス・ピウスの迫害で苦しめられていた時、ユスティノも皇帝とその3人の養子たちの前に引き出されて、公に信仰を告白して、その真正なことを説明した。
 ユスティノによれば、世界にあるすべての真理は、ただひとつの源泉から出ている。これはすなわちキリストである。そしてキリストは三位一体中の第2のペルソナ、つまりロゴス(みことば)であり、また神の英知として永遠から永遠に至るまで万物を主宰したもうのである。そして人間は、その理性においてこの英知の要素、いわばひとつの真理の種子を持っているので、真理をわきまえることができる。このようなロゴスの種子を特に多く与えられた者が、ユダヤの預言者とか、ソクラテス、プラトンのような哲学者である。
 神のみことばを伝えるキリスト教は、永遠の真理そのものであり、すべての哲学や学問の完成である。素直な心で真理を探究する哲学者ならば、いつかキリストに到達するであろう。
 ユスティノは2度ローマに行ったが、彼が公に書いた護教書が役人たちの嫌疑を受け、同時にユスティノと討論して負けた哲学者クレセンスが彼を讒言して訴えたので、ユスティノは165年頃、6人のキリスト信者たちと共に逮捕されて、ローマの総督ルスティクスの前に引き出された。総督は彼等に偶像に供え物をささげるように命じたが、ユスティノは、「正しい心の人間は、誰も偽りのために真理を捨てることはしない」と言って、仲間の信者たちといっしょに首を切られて殉教した。


神的なことを探求するのは
哲学の務めではないか。
聖ユスティノ殉教者






聖母マリアの聖エリザベト御訪問      Visitatio B. Maria V.  

2024-05-31 00:00:05 | 聖人伝
聖母マリアの聖エリザベト御訪問      Visitatio B. Maria V.      祝日 5月 31日


 イエズス及び聖母マリアの御生涯における出来事は、すべて我等の救霊に関係があり、少なくとも我等の模範となり教訓となるものであるから、どんな事柄でもなおざりには出来ない。

 大天使ガブリエルは、ナザレトの清きおとめマリアに現れて、その救い主の御母になり給う旨を告げた時、エルサレムの南ユダという町に住む彼女の親戚エリザベトについても語った。それによれば、司祭ザカリアの妻なるこの婦人は、長年子宝に恵まれず、他人から石女と思われていたのに、老境に入ったこの頃不思議にも懐胎して、はや六ヶ月になっているというのである。
 この話を聞かれた聖マリアは、天主の御摂理の測り難さに今更の如く驚嘆された。そして人間の思いも及ばぬその全能の威力を以てすれば、今天使に告げられた夫を知らぬ我が身が世の救い主を儲けるという奇蹟も、必ず成就されるに相違ないと頼もしく思われた。が、それと同時にまた同情の念に厚い彼女は、懐妊したエリザベトとその夫ザカリアの喜びを思いやって、わが事のきょうに嬉しく覚えられた。彼等が子種のないのを苦にして長年天主に祈願をこめていたことを、マリアはよく御存知であったからである。
 で、聖マリアは祝いの言葉を述べ旁々、何か家事の手伝いもしたいものと、早速エリザベトの許を見舞うこととされた。ユダの町は山をいくつか越えた向こうにあって、ナザレトからそこまで行くには少なく見ても3日はかかる。しかし喜びは充ち溢れ、天主と人とに対する愛に燃えて居られる「聖寵充ち満てる」御方には、その旅路の困難も物の数ではなかった。彼女は欣然としてその町へと急がれたのである。
 いよいよエリザベトの家に入られると、聖マリアはその地方の習慣に従って挨拶の言葉を述べられた。ところがエリザベトがそれを耳にするや胎内の子は喜び躍り、エリザベトもまた聖霊に満たされ、声高く叫んで言った。「あなたは女の中で祝福された方で、あなたのみ子も祝福された方です!主のおん母が私を訪問してくださったのですか!これほどのことが、どうして私にめぐまれたのでしょう、あなたのあいさつのお声が私の耳にはいると、私の子は胎内で喜びおどりました。ああしあわせなこと!主からいわれたことの実現を信じた方は!」その時たちまち聖マリアも聖霊に満たされ、その啓示に従って天主をほめ称える歌を唱い始められた。
「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である神によって喜びおどっています、主が、いやしいはしためにおん目をとめてくださったからです。これからのち、代々の人々は、私を、さいわいな女と呼ぶことでしょう。全能のお方が私に偉大なことをなさったからです。そのみ名は聖く、そのあわれみは、代々、うやまいおそれる人々の上にくだります。またそのおんうでの力をあらわし、おごる思いの人々を散らし、権力者をその座からおろし、低い人々を高め、うえた人をよいもので満たし、富む人を空手でおかえしになります。主はおん慈悲を忘れず、しもべイスラエルをおたすけになりました。私たちの先祖に約束なさったように、アブラハムとその子孫とに、いつまでも!」
 この美しい讃美歌はその時以来全聖会に日毎歌い唱えられ、天主の讃美、聖母の頌徳の言葉とされている。
 聖マリアはエリザベトの許に三月ほど滞在された。その間いかなる事をなされたかは聖書にも記していない。しかし甲斐々々しく妊婦エリザベトの世話をし給うたことは想像するに難くない。
 彼女は救い主の御母という何人も及ばぬいと高い栄誉をかちえたが、依然として天主の婢たる謙遜を失われなかった、けれども天主はへりくだる者を高め給う、この事は主が聖霊により彼女をして歌わしめ給うた讃美歌の中に明示されている。曰く「主が、いやしいはしためにおん目をとめてくださったからです。これからのち、代々の人々は、私を、さいわいな女と呼ぶことでしょう。」と。この言葉は空しからず、聖マリアは今に至るまで救い主の御母として諸国諸民の尊敬を受けておいでになる。そして将来も世の終わりに至るまでその通りであろう。年ごとに彼女の祝日は盛大に祝われ、彼女に献げられた壮麗な聖堂もおびただしい数に上がっている。そればかりか老若男女は日ごと口を揃えて「めでたし、聖寵充ち満てるマリア!」と祈っている。敬愛する読者諸子よ、あなたがたもまた聖なる童貞に衷心からかく祈られるがよい。そうすれば彼女はあなたがたを今も臨終の時にもお助け下さるであろう。


教訓

 天主の聖母の模範に倣い、我等も人を愛し、天主への愛から謙遜に喜んでこれを助けるよう努めよう。




聖ジャンヌ・ダルクおとめ殉教者   

2024-05-30 00:00:05 | 聖人伝
聖ジャンヌ・ダルクおとめ殉教者                       記念日 5月 30日


 1329年、フランス王チャールズ4世の逝去によりカペー王朝が断絶し、そのいとこにあたるヴァロア家のフィリプがあとを継いだ。ところが、英王エドワード3世はチャールズ4世のおいにあたるという理由からフランス王位相続権を主張して一歩もゆずらなかった。ここで両国は戦端を開き、フランス国内で「百年戦争」という悲惨な攻防戦をくりひろげた。
 その後、国内でも王族間の内紛が起こり、ブルゴーニュ党とアルマニャック党に分かれ、前者は英軍と共同し、後者はあくまでフランスの正統王朝、ヴァロア家のシャルル6世の太子を守って優勢な英軍に抵抗した。この必死の抵抗もむなしく、1428年、仏軍の最後の堅固な城オルレアンが包囲され、ヴァロア王朝の運命は風前のともしびとなった。このとき天来の救い主のように現れたのが、純粋なおとめジャンヌ・ダルクである。聖女は祖国愛に燃えながら自ら陣頭に立ち、オルレアン城を解放してシャルル7世の戴冠式を挙行した。

 彼女は1412年、フランス北東部ドム・レミの寒村に生まれた。草深い田舎の、しかも貧しい農家の娘のこととて学校には行けなかったが、敬虔な両親に見習い、厚い信仰を身につけて、毎日家事の手伝いや羊の番をしていた。この少女もたびたび祖国の危機を聞いて、小さい心を痛めながらフランスを救ってくださいと神に祈っていた。
 1424年、彼女が12歳の時、御ミサが終わって聖堂を出ようとしたとたん、天からの声を聞いた。「ジャンヌ・ダルクよ敵の手からフランスを救え」と。彼女は驚いて「わたくしにどうしてそんなことができますか」と問うと、「天にまします御父が、おまえを助けられるであろう」と答えた。それは大天使聖ミカエルの声だった。そのうえ聖女マルガリタと聖女カタリナもしばしば現れ、ジャンヌを「神の娘」と呼んで勇気をつけた。
 ジャンヌはあまりの不思議に4年の間悩み、貞潔の願を立てて、よく祈り、たびたび御聖体を受けた。16歳の時、ついに彼女は「御旨のままに・・・」と神に誓い、城主のボードリクールに「フランス王を救いに行きますから、私に兵士を伴わせてください」と願い出た。
 はじめはまわりから相手にされなかったが、ジャンヌはこれにひるまず熱心に運動を続けて、ついに村民や城主を説得した。こうしてジャンヌは騎兵の男装で白馬にまたがり、数人の兵士を伴い、シノンにいる皇太子のもとへ向かった。整列した兵士たちの中に変装してかくれていた皇太子を一目で見分け、これに天から告げられた自分の使命を語った。
 皇太子も以前からうわさの流れていた預言、すなわちフランスは純潔なおとめによって救われるということを聞いていたし、いままたジャンヌの誠意ある話に心を動かされたが、念のため数人の大学教授にジャンヌの審査を依頼した。「あなたは天から使命を受けたというが、全能の神に兵士はいらないのではないか」と問われて、ジャンヌは「勝利は神の与え給うものですけれど、戦いは兵士のなすべきことです」と答えたという。1ヶ月の厳密な調査の結果、ジャンヌの使命が認められ、1429年ジャンヌは白い鎧,かぶとを身につけて右手に剣を、左手にイエズスとマリアの御名を記した白絹の軍旗をもって、さっそうと馬にまたがり、槍の精鋭小隊を率いてオルレアンに進撃した。
 途中で将兵に告解と御聖体の秘蹟を受けさせてから、敵中目がけて突撃を開始し、破竹の勢いで次々に敵(英軍)の包囲を突破して数日のうちにオルレアン城を解放した。この奇跡的な勝利にフランス全土の士気は大いにあがり、国民はこぞって神に感謝し、領土回復の希望に燃えたった。ジャンヌはこの喜びをゆっくりかみしめるひまもなく、同年7月幾多の困難を経て皇太子をランスに導き、これをシャルル7世として正式にフランスの王位に即位させたのである。
 これでジャンヌの使命は終わったが、人々に請われるままに軍中に留まり、翌年、首都パリを奪回しようとしていたところを、ブルゴーニュ軍に捕らえられ、英軍に売り渡されたのちルーアンに護送され、英軍の買収した裁判官により宗教裁判にかけられた。この裁判には、最初からシャルル7世の戴冠式を魔女の手になるものとして、これを無効にしようとする政治的意図が強かった。4ヶ月にわたる暴力裁判のすえ、結局なんらの確証もなく、ジャンヌを異端者、魔法使いときめつけ、彼女に火刑を宣言した。ジャンヌは身に長い喪服をまとい、胸に唯一の希望である十字架をかけ、すべてを神のみこころにゆだねつつ、19歳とは思えぬ落ち着いた態度で刑場に向かった。群衆はジャンヌの神々しい姿を見て涙ぐんだ。やがて高く積まれた刑場のまきに火がつけられ、燃えさかる炎の中にジャンヌは「イエズス・マリア」の御名を呼びつつ息絶えた。
 その25年後の1456年に教皇カリスト3世は、この宗教裁判のやり直しを命じ、無罪の判決をもってジャンヌの名誉を回復し、のち、1920年、教皇ベネディクト15世はジャンヌを聖女の列に加えた。








パッチの聖マリア・マグダレナおとめ   St. Magdalena a Pazzis V.

2024-05-29 00:00:05 | 聖人伝
パッチの聖マリア・マグダレナおとめ   St. Magdalena a Pazzis V.  記念日 5月 29日


 パッチの聖女マリア・マグダレナは1566年、イタリアのフィレンツェの名門パッチ家に呱々の声を挙げた。洗礼の折りにはシェナのカタリナと命名された。栴檀は双葉より香しとやら、彼女もつとに幼児より聖徳の萌芽を見せ、満2歳にならぬにはや御聖体の主に籠もり給う事を悟り、之に可憐な愛情を示したという。そして友達と遊び戯れている内にも、ふと主の事を思い出せば、すぐに聖堂に駆けつけて、幾時間でも気の済むまで祈りに耽るという風であった。されば聖主の御苦難に対しても、子供に似げない深い理解と同情とを有し、自分も安閑としているのに忍びぬ気持ちから、我が手で茨の冠を作りこれをかぶって床に就き、痛さに眠れぬ宵々は、その苦しみを世の人々の罪の償いに献げたのである。かように敬虔殊勝な子であったから、当時は異例の僅か10歳で初めての御聖体拝領を許されたが、その時彼女は終生童貞の願を立てたと伝えられる。

 父がコルトナの市長に赴任して以来、彼女はフィレンツェの修道女に託されて教育を受ける事となった。それから数年後コルトナから帰った父は、彼女を他家へ嫁がせるつもりであったのに、彼女は先の誓願もあり、修道院に入って一生天主に仕える決心であったから、父は怒っていろいろ苦しめ、無理にも自分の意志に従わしめようとしたが、彼女はよく初一念を立て通し、遂に16歳の時にフィレンツェのカルメル会の修道院に入ったのであった。マリア・マグダレナとは、すなわち彼女の修道名に他ならない。
 彼女がカルメル会を選んだ理由は、未だ一般に頻繁な御聖体拝領が行われていなかった当時にあって、その会では毎日御聖体の主と一致する機会が与えられていたからであった。そして1584年誓願を立てると、彼女ははじめて脱魂の恵みを蒙るに至った。
 その時マグダレナは「私は我が主イエズス・キリストの十字架に於いての外は、もはや決して誇る所はありますまい」(ガラテア書 6・14)という言葉を口ずさんだかと思うと、その顔は日のように輝き得も言われぬ神々しい様子となって、ものの2時間ばかりも全く我を忘れ、恍惚の境に遊んだ。その間彼女は愛し奉る主との神秘幽玄な一致を体験していたのである。
 かような不思議はその後も度々起こったが、間もなくマグダレナは「苦しみの人」と呼ばれるイエズス・キリストの浄配たるにふさわしく、数々の苦痛に鍛えられなければならなかった。まず重病を患ってほとんど危篤に陥ったのを手始めに、それがようよう快復すると、今度は恐ろしい精神上の苦痛と激しい誘惑とに襲われた。殊に彼女を冒涜、絶望、邪淫、不従順等の大罪に引き込もうとする悪魔の執拗な努力には、彼女もほとほと手を焼くばかりであった。そのつらさ苦しさに涙を流しつつ他の童貞方の面前に平伏し「どうぞ不幸な罪人の、私の為にお祈りください」と願ったことも幾度あったか解らない。
 かかる過酷な試練は実に6年の長きにわたって続いた。しかし彼女はよくそれに堪え、1590年の聖霊降臨の大祝日を迎えるや、天主に予定された苦悩の杯もすでに最後のしずくまで尽きたのかさしも吹き荒れた誘惑の嵐もはたとやみ、十重二十重に閉ざしていた憂悶の黒雲も名残なく晴れて、その胸中には喩え難い平安の日光がうらうらと照り渡ったのであった。
 それでもマグダレナはその期間に学んだ犠牲の精神を一生忘れはしなかった。その事は彼女が「死よりも苦しみ」という言葉を座右の銘としていたのに依っても明らかに窺われるであろう。
 彼女は後に修練長となり、また副院長となり、その深い超自然的知識と熱い愛とを傾けて、自分の手に託された修女等をよく完徳の途上に導いたが、やがて再び大病に罹り、数々の苦痛を忍んだ後、1607年5月25日その清らかな霊魂を天主の御許に帰した。
 それから彼女による奇蹟は無数に起こり、20年後には早くも福者に挙げられ、遂に1669年には教皇クレメンス9世から聖女の位を贈られるに至った。


教皇

 パッチの聖女マリア・マグダレナの如く我等も苦痛を、天主より定められた天国への関門と考え、みだりにこれを厭わぬように努めよう。何となれば主イエズスを始め奉り、如何なる聖人も苦痛を経ずして天国に入られた方はないからである。






パリの聖ジェルマノ司教  

2024-05-28 00:00:05 | 聖人伝
パリの聖ジェルマノ司教                         記念日 5月28日


 パリで最も古く、そして最も大きい中世紀のサン・ジェルマン・デ・プレ修道院は、この聖人の生存中にチルデベルト1世王によって558年に建てられたものである。ジェルマノはそれを聖ヴィンセンチオと聖十字架に奉献した。

 576年5月28日にジェルマノが80歳で死去した時、この修道院の立派な墓に葬られたが、それはフランスの革命者たちによって破壊され、彼が列聖された年に彼の名をとって再建された。

 ジェルマノは496年フランスのオータンの近くで生まれて、530年に司祭となり、10年後にオータンの聖シンホリエン修道院の院長に選ばれたが、彼がパリに滞在していた時に早速パリの司教に任命され、同時にチデルベルト王付き司祭長となった。
 ジェルマノは高位についても、従来の厳しい生活を続け、貧しい人々が集まって来ても決して彼等を退けるようなことはしなかった。576年に彼が帰天した時、有名な詩人のヴェナンチオ・フォルトゥナートが彼の生涯をほめたたえる文章を書いた。それは信じがたいような多くの奇跡や伝説を含んでいるが、このような力強く崇高な聖人を与えてくださった神に感謝する彼の心情がにじみでている傑作である。