カトリック情報 Catholics in Japan

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聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆、ついに憧れの修道生活に(4)

2017-11-04 20:34:41 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、23

◆、ついに憧れの修道生活に(4)

 こうして、リカルド修士について聖人の噂が広がっていきました。それで診察に訪れる母たちが、「先生、どうぞ、わたしの子供に祝福してくださいませんか」と頼むまでになりました。かれは困って、子どもたちにご絵やメダイを与えていましたが、母たちが望んでいたのは祝福でした。「でも」とかれは気の毒そうにいいました、「わたしは司祭でないので、それはできません」と断っていました。

 これを知った院長の神父は、かれを励ましていいました、「あなたは司祭ではないが、聖母マリア、または、本会の創立者神の聖ヨハネに向かってこのお母さんの意向に従い取りついでくださるようにと祈ることはできますよ」と。こんなわけでリカルド修士は、子どもに祝福を与えるようになりました。

 ところで前にもいったように、リカルド修士は健康状態がすぐれませんでした。とくに戦争のとき二十四時間もかかって雨にぬれながら戦場から医療品を安全な場所に運んだことがありましたが、その結果、肺をおかされたのです。かれが修道院に入る前にひとりの医者に診察してもらったとき、その医者はかれのことを、「あるく死人」と呼んだのです。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆、ついに憧れの修道生活に(3)

2017-11-03 04:17:12 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、22

◆、ついに憧れの修道生活に(3)

 一九二八年十月二十四日リカルド修士は、むこう三年の清貧、貞潔、従順と看護の誓願をたてました。他の修道会では清貧、貞潔、従順の三つの誓願だけですが、聖ヨハネ病院修道会では、いわゆる看護の誓願もたてます。

 十月二十四日は大天使ラファエルの祝い日で、この天使は医者たちの保護者でもあります。リカルド修士は、この熱烈な天使の心をもって誓願をたて、決定的に自分自身を神にささげました。

 その四日後にかれは、シスターの姉にまた手紙を書きました。「ついにわたしたち兄弟は、神の愛と奉仕において、ますます「致するようになり、二人とも誓願の同じちぎりで結ばれています。わたしたちは、何千キロも離れた所に住んでいますが、"姉弟が一つに結ばれて住むのは、なんと喜ばしいことでしょう"という聖書の言葉を本当に味わうことができます。こうして、わたしたちは、神のみ心のうちに、住いをおいて、このみ心のうちにだけ、わたしたちの魂は諸聖人の感嘆すべき交わりのうちに完全な平和と、みちみちた幸福を味わうことができます」と。

 修道誓願をたててからリカルド修士は、間もなく若い修道士を指導し、かれらが看護人の資格状を得るためにかれらを指導する役割を目上から任せられたのです。

 また主治医不在の場合は白衣を着て正式の診察もしていました。こうなると数日前に看護人として働いていたこの若い修士が経験にとんだ医者としてふるまうのを見て、患者も家族の人々も驚いてしまいました。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆、ついに憧れの修道生活に(2)

2017-11-02 12:14:41 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、21

◆、ついに憧れの修道生活に(2)

 かれパンプーリは次の十一月二十一日に着衣式が行われ、修道名をリカルドとなのったのです。プレシア市の修道院では、修道士たち、特に修練者たちは、病院の掃除係もしていました。パンプーリ先生は、今修道士となっていても他の修道士よりも、学識や威厳や経験があるのに、かれはこのことを忘れさせようとしていました。そのため他の若い修道士と同様に病院のいろいろの掃除をしていました。それをみると、かれを前から知っていた人々はつまずきました。

 ある日のことです。リカルド修道士は、当番だったので、ほうきをもって中庭の掃除をしていました。それをみたひとりの医者は、病棟で出会った看護婦のシスターに向かっていいました、「あの人はきちがいだ、医学博士号までもっているのに、ほうきを使うなんて」と、窓から大きな声でいったので、そのシスターは答えました、「神に対する愛のあまりにです、きちがいじみてみえますが・・・」と答えました。

 でもあの医者はゆずりません、「ちがう、わたしにとってあの人はきちがいだ、それ以外の何者でもない。どうしてあんなことをするのだろう」と、開いていた窓からあんまり大声でいったので、リカルド修士の耳にも入りました。

 かれはこのように答えたのです、「ちがいます。神さまのためにすることは何でも、つまり、ほうきですることも医学博士号ですることも、どちらも偉大なことです」と。

 それだけでは、リカルド修士はまだ満足しませんでした。罪のつぐないのために、ほかのきびしい苦業もし、むち打ちまでやっていたのでした。

 当時イタリアはインフレで、みんなが生活に困っていました。中でも修道院ではなおさら貧しい生活が行われていました。都合の悪いことが重なり、食事は不足し、おまけに病人の看護は今では考えられないほど長い勤務が続くのです。こうして看護の荷はおもに修道士たちの肩にかかっていました。おまけにリカルド修士は、他の人よりもいやしい奉仕をしていたので、疲れはいっそうひどかったのです。他の修士もそれに気づきかれを助けようとしました。そして目上も特別な苦業をするのを禁じました。


聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ(1897ー1930) ◆4、ついに憧れの修道生活に

2017-11-01 22:52:18 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、20

◆4、ついに憧れの修道生活に

 パンプーリは、誰にも話さないで聖ヨハネ病院修道会の一つの支部に試しに行きました。ここでかれは、"わたしが修道者となっても病人の世話を続けることができる。そうだ、これこそ神がわたしのために準備してくださった道にちがいない"という確信ができたのです。

 家族のものはまだ何も知りません。しかし今となっては話さないわけにはいきません。すると、姉さんも叔父も主任司祭もみんな大反対です。何とかしてみんなは、その考えをひるがえそうとしたのですが、かれは、非常におちついていました。そして、しっかりした調子で答えました、「わたしは神の招きに従わなければなりません。どうしても聖人にならなければならないのです」と。

 かれが家族と別れて修道院に入った同じ日の夜、兄弟や親戚に手紙を次のように書きました。「みんなが悲しんでいるのをみて、どんなに辛かったことか!どうぞお許しください。これまで、わたしのためにしてくださった大きなご恩に心から感謝しています・・・」と。

 またシスターになった姉さんにも手紙を書き、かの女が聖霊に祈ってくれた九日間の祈りが、この偉大な恵みを得させてくださったことを心から感謝していました。

 モリモンドの村人たちは、このことをちっとも不思議に思いませんでした。

「あんなに熱心に、いつも祈っていた先生じゃないか、わたしは、いつか修道院に入ると前から考えていたよ」といい合ったのです。でも叔父のカルロは、心配していいました(かれは医者だったので、パンプーリの健康状態をよく知っていたのです)、「修道院のきびしい生活では長くもたないだろう」と。そして実際にそうなったのです。それはすぐ修道生活をやめるという意味ではありません、早く死んだからです。

 こうしてかれは、ブレシア市の修道院に入りました。その修道院は大きな、そして有名な総合病院が附属していました。

 かれパンプーリは次の十一月二十一日に着衣式が行われ、修道名をリカルドとなのったのです。プレシア市の修道院では、修道士たち、特に修練者たちは、病院の掃除係もしていました。パンプーリ先生は、今修道士となっていても他の修道士よりも、学識や威厳や経験があるのに、かれはこのことを忘れさせようとしていました。そのため他の若い修道士と同様に病院のいろいろの掃除をしていました。それをみると、かれを前から知っていた人々はつまずきました。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ  19:温故知新

2017-10-30 04:50:26 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、19

 それにしても、かれは社会生活から離れることなく、新しい発明に興昧をもちました。その当時鉱石受信機のラジオがはじめて作られると、すぐそれを買い、それによって世界の動きを知るように努めていました。とはいっても、世間のことに心を奪われるようなことはありません。心の目はより高い所をめざしていたのです。

「まあ、なんと感心な人!」と、ある女性は感嘆するあまりに、かれに結婚を申しこみました。この女性もカトリック運動に参加する人で、りっぱな女性でしたが、パンプーリ先生は、親切な返事を書きました。それは、結婚生活をぎせいにして排他的に神にだけ仕えたい決心の手紙だったのです。それだけではありません、使徒聖パウロの言葉を引用して、かの女に修道生活に入ることまでもすすめたのでした。このようにかれは、自分の意見に確信をもって恐れずに人々にそれを現していました。

 病人の世話に献身的に働きながらも、ベレッタ神父と自分の召し出しについていろいろと相談をはじめました。まず第一の試みはフランシスコ会でしたが、健康のことからあっさり断られました。でもまだかれは、あきらめません。今度はイエズス会の戸を叩きました。今度も、同様に断わられてしまいました。こうなると、パンプーリ先生も考えざるを得ません、「神のみ旨は、わたしが世間に残って医者としての使命を果すことだろうか?」と。

 それから三年がたちました。かれのひとりの患者がかれの留守の時に亡くなったのです。これは、かれにとって大きなショックとなりました。そのために再び修道生活を考えはじめたのです。

 パンプーリは、シスターの姉に手紙を出して切なる願いをしました、「どうか聖霊に九日間の祈りをわたしのために捧げてください.わたしは世間に残るか修道生活に入るか、神のみ旨が知りたいのです」と。その二か月後のことでした、ベレッタ神父は、かれに聖ヨハネ病院修道会に入会をすすめたのです。さっそくミラノの管区長と話し合うことになりました。もちろん健康状態の問題もありましたが、かれの人格をみぬいて管区長は答えました、「この人が本会の一員として一日しか残らないとしても、わたしは大歓迎します。きっとかれは本会の守りの天使となるでしょう」と。